第7話

             七

 俺がいつものルートでウチに帰ろうとすると、隣の「モナミ美容室」の中から激しい物音が聞こえた。何かを床に投げつける音だ。何事だ? 俺は隣の敷地の中を覗いてみた。誰もいない。建物の一階の明かりが点いている。男が激しく怒鳴る声が聞こえた。

「くそ! なんで、こうなったんだ。これじゃあ、バレちまうじゃねえか!」

 なんですと? バレちまうだって? これは聞き捨てならないぜ。どういうことだ。まさか、俺のにらんだとおり……。

 俺は急いで「モナミ美容室」の裏のベランダに入った。三坪弱ほどの狭い物干しスペースだ。普段は洗ったタオルなんかが干してあるが、さすがに日も暮れて、何も置いていない。壁際に置いてある洗濯機の横にドアがある。何とか中に入れないものか。駄目だ、開けられない。用心深い奴らだ。外からの勝手な侵入に備えているのか。まあ、当然と言えば、当然だが。よし、表に回ろう。まだ営業時間のはずだから、戸は開いているだろう。今の声の感じからすると、バックヤードの室内で話しているな。ウチとの境の塀に沿って歩くと、「モナミ美容室」の壁から声が漏れて聞こえてくるぞ。

「あの髭の刑事は近隣の人間を調べると言っていた。ここは、すぐ隣じゃねえか。どうすりゃいいんだ」

「もう、あきらめなよ。逃げられないわよ、どうせ」

「なんだと。萌奈美、おまえ、裏切るのか!」

「きゃっ。やめて……」

 これはいかん。萌奈美さんに何か危険が迫っているぞ。急がねば。

 俺は表の玄関に回った。幸い、自動ドアはスムーズに開いた。俺は奥のバックヤードへと駆け込んだ。半開きのドアを蹴り開けて、中に飛び込む。

「おい、何やってんだ。大丈夫か、萌奈美さん!」

 男は驚いた顔で俺を見ていた。金のネックレスに派手な柄のシャツ。剃り落とした眉毛。間違いない、さっきのボヤ騒ぎの時に、塀の向こうからチョビ髭警部に警戒の視線を送っていた男だ。男は萌奈美さんの春物のチュニックの襟を掴んで、彼女を壁に押し付けていた。

「こらっ、その人から手を離せ。この暴力男!」

「あ? 何だ、コイツ」

「桃太郎!」

 そう一言、俺の名を呼んだ萌奈美さんは、男の手を振り払って店舗の方まで駆け出てくると、強い語気で言った。

「お隣の桃太郎さんよ。よくウチにも来てくれるの。常連さんなのよ。ねえ、桃太郎さん」

 最後はやさしく俺に微笑み掛ける。俺は黙って静かに頷いたが、萌奈美さん、気を抜いちゃいけねえぜ。この男は危険だ。危険なニオイがするぞ。そう言う目もしている。ほら、今だって、まだ、あんたをにらんでいるじゃないか。

「常連だと? ふざけやがって。こんな奴にうつつを抜かしていやがったのか。どおりで、この頃、電話しても返事がツレない訳だぜ」

「当然でしょ。あんたの髪を切るくらいなら、桃太郎さんをカットした方がましだわ。ハサミが汚れないで済むし」

「なんだと、このアマ……」

 男は萌奈美さんの髪の毛を鷲掴みにして、流し台の上に押さえつけた。俺は思わず男に跳びかかると、彼女の髪を握っていた手に一撃を加えて、サッと身を引いた。萌奈美さんは、俺の後ろへと逃げてきた。男は俺に払われた手を庇いながら、こっちをにらんでいる。

「いてえな、この野郎。俺を誰だと思っているんだ」

 知るか、と俺が答えている間に、男はズボンのポケットから銀色の物を取り出すと、クルクルと回してそれを素早く変形させた。バタフライ・ナイフだ。いつも思うが、どうしてこんな物が市販されているんだ。日常生活で両刃のナイフは必要ないと思うが……などと思案している場合ではない。男はナイフを握ったまま、身構えている。

「この野郎、切り刻んでやるぜ」

「やめて。――桃太郎さん、逃げて!」

 と言われて逃げる探偵はいない。まったく、とんだ修羅場に巻き込まれちまったが、そう大袈裟に騒ぐほどの相手ではないようだし、武器も、たかがナイフ一本だ。仕方ない。相手してやるか。構えをとった俺の後ろから、萌奈美さんが叫んだ。

「桃太郎さんは関係ないでしょ!」

「その呼び方が気に食わねえんだよ。桃太郎だか、金太郎だか知らねえが、俺がムショに入っている間に、こんな奴と遊んでやがったのか。俺を馬鹿にするとどうなるか、思い知らせてやる!」

 男はナイフで切りかかってきた。俺は素早く身をかわし、逆に奴の顔面に一太刀を浴びせてやったぜ。男が顔を押さえて身を屈めた隙に、ナイフを握った手に必殺のローリング・ソバットを打ち込む。ナイフは男の手を離れて宙を舞い、向こうのシャンプー台の前の椅子の背当てに突き刺さった。男は顔を両手で押さえたまま呻く。

「ぐわあ、いてえ。ちくしょう!」

 俺は素早く自分の「切れ物」を仕舞うと、男に言ってやった。

「切り刻まれたのは、おまえの鼻の方だったな。おまえ、俺を誰だと思っていたんだ?」

 男は顔を押さえたまま、ヨタヨタと出口に向かった。丁度その時、陽子さんが入ってきた。

「こんばんは。すみません、ウチの桃太郎さんが、またお邪魔して……」

 陽子さんは中の殺気だった様子に驚いたようで、その場で立ち止まった。男は陽子さんを押し退かすと、顔を押さえたまま店から出て行く。男は帰り際に捨て台詞を吐いた。

「また来るからな。覚えてろよ」

 男は去っていった。俺は急いで陽子さんに駆け寄った。

「大丈夫か、陽子さん」

 慌てて萌奈美さんも駆け寄ってくる。

「すみません、大丈夫ですか」

 陽子さんは萌奈美さんの手を借りて立ち上がると、胸を押さえながら言った。

「ええ……。ああ、びっくりした。――誰なの、今の人」

「悪者だ。あのナイフの使い方はプロだな。危なかったが、逆に痛めつけてやったぜ」

 すると、萌奈美さんが口を挿んだ。

「別れた、前の夫です。刑務所に入っていたのですけど、仮出獄っていうのになって。本来は無断で遠くに行ってはいけないらしいんです。それを、保護監察官の目を盗んで逃げてきたみたいで……」

 彼女は困惑した顔を隠すように、下を向いた。思ったとおりだ。俺はつい、片笑んでしまった。

「やっぱりな。手配中の男ってことか。どおりで、ワルの臭いがプンプンした訳だ」

 陽子さんは目を丸くして言う。

「ええ、大変じゃないの。警察には言ったの?」

 萌奈美さんは、下を向いたまま首を横に振った。

「いいえ。通報したら、後で何をされるか分からないし」

「そうだな。あの手の奴はしつこいと相場が決まっている。少し警戒が必要かもな」

 俺はそうアドバイスしたが、陽子さんの意見は違った。

「明日、またウチに警察の人が来るそうだから、その時にでも話したら。あなたが言えないようなら、私から……」

 彼女の発言の途中から、萌奈美さんは強い口調で陽子さんに言った。

「いえ、それは止めてください。お隣さんを巻き込むわけにはいきませんから」

 俺も何度も頷いた。

「ああ、そうだ。それは俺も反対だぜ。陽子さんには美歩ちゃんもいるんだ。放火の犯人だって、まだ捕まっていない。今は無理な動きはしない方がいい」

「とにかく、そっとしておいて下さい。私の方でなんとかしますから。決して、そちらにはご迷惑をおかけしませんので。お願いします」

 萌奈美さんは深々と頭を下げた。腰を折る彼女の様子を見つめながら、陽子さんは眉を寄せる。

「そう……」

 二人は暫らく、黙っていた。シャンプー台の前の椅子には、バタフライ・ナイフが刺さったままだった。

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