第2話
二
俺は再び大通りに出た。今度はゆっくりと歩いてだ。右に曲がり、喫茶店の前を通る。店の中には客が居ない。都会の高級レストランで働いていたおじさんが作る料理は一流だし、たまに裏のビジネスホテルに宿泊している外国人観光客が食べに来ても、皆、サービスが一流だと褒める程なのに、この町の人はあまり足を運ばないらしい。もったいない。おじさんには、いつも世話になっているので、今度誰かに宣伝しておいてやろう。
俺は店の前を通り過ぎ、隣の空き地の前まで移動した。空き地の中を見回す。さっきのコソ泥は居ない。
ここは以前、小さな百貨店があった所だ。百貨店と言っても、テレビで見る大都会の百貨店みたいなものじゃない。スーパーに毛が生えた程度の物だ。それでも、この地域の人たちには重宝されていた。みんな安心して買物ができたし、帰りには隣の喫茶店や、その他のうどん屋さんや甘味屋さんなんかに立ち寄って、知人と世間話をしたり、休憩したりした。当時は、この商店街も賑っていたものだ。ところが、俺がこの町に来た頃だったかな、この大通りの付きあたりの川に掛かっている大きな橋の向こうに、大型の複合商業施設ができた。フードコートに映画館、ブランドショップ、託児所、クリニックと脈絡もなく何でも揃っている例のやつだ。俺も一度だけ行ってみたことがあるが、まあ、目が回った。広いのはいいが、騒々しいし、キラキラし過ぎていて落ち着かない。いま俺が着ている、この赤いベストは、そこで陽子さんに買ってもらった物だ。他にも何着か替えがあるが、俺はこれを気に入っている。ああ、陽子さんについては、また後で話そう。とにかく、その複合商業施設が出来てから、人が全部そっちに流れてしまって、この商店街には閑古鳥が鳴くようになった。ほら、前の大通りを走っていく自動車に乗って、みんな橋の向こうまでピューさ。おかげで、ここの商店街の人たちは、そこの信用金庫の職員や、そのちょっと先の裏手にあるお寺に墓参りに来る人、その向こうの小さなビルの中で働く人、それから、この大通りの向こう側の警察署員さんたちを奪い合うことになっちまった。それまでは仲良くやっていたのに、今はみんな必至だ。競争したくもないのに、競争しなけりゃならない。競争だから、勝つ人がいて、負ける人もいる。負けたらガラガラガラー、シャッターを閉めて閉店さ。で、この二年で、この界隈もあっという間にシャッターだらけになっちまった。うどん屋さんも甘味屋さんも、今はもう無い。ここにあった百貨店も先月取り壊されたばかりだ。やれやれ、これからどうなることやら。
さて、本題に戻そう。まずは、さっきのコソ泥野郎だ。見回したところ、あの野郎の姿は無い。ということは、本当にどこか遠くに逃げたのだろう。とりあえず、俺が暮らすこの町の安全は守られたと考えていいかもしれないが、野郎をこのまま放置する訳にもいかない。だが、後は警察の仕事だ。ならば、俺はこの大通りの向こうにある警察署に行って事態を報告するべきなのだろうが、それはできない。警察署には行けない訳がある。それも後で話そう。まあ、いろいろと訳が多すぎて申し訳ないが、訳ありなのが探偵だ。胡散臭い探偵に用がないのなら、他を当たってくれ。俺は体臭には気を配る性格だが、胡散臭いことは間違いない。それは請負うぞ。俺はバッチリ、ガッツリ胡散臭い。だが、事件はきっちりと解決してみせる。まあ、見てな。
で、またまた本題に戻すが、コソ泥野郎が居なくなったところで、俺の事務所兼住居に案内しよう。
このおんぼろアーケードの歩道を歩いて、さっきの喫茶店の前を通り過ぎると、コンクリート建ての白い建物がある。この地域の住人にお馴染みの信用金庫だ。その先には薬屋さんがあって、その向こう側に消費者金融の会社とか、シロアリ駆除業者なんかが入っている小さな五階建てのビルがあり、その隣に本屋さんがある。本屋さんの隣は、また銀行だ。こっちの銀行は地方銀行ってやつで、少しばかり気位が高い。おっとストップ。大事なのは、この薬屋さんだ。土佐山田薬局。土佐山田さんご夫妻が営んでいる薬局だ。小さな三階建てで、一階の店の裏手が居間と台所になっていて、二階と三階が寝室などの本格的な居住スペースという、ヘンテコリンな造りになっている。家主の名前もヘンテコリンだ。土佐山田さんは、土佐さんと山田さんではない。「土佐山田」で一つの苗字だ。六十前後のおじさんとおばさんなのだが、すごく無口で物静かなご夫婦だ。きっと、自分たちの苗字が長いので、名乗る度に疲れて、その結果、無口になったのだろう。この二人、下の名前はもっと妙だ。御主人は土佐山田
俺は川岸で陽子さんに救われた。どうやら流されていたらしいが、よくは覚えていない。川原で呻いているところを、娘の美歩ちゃんと散歩中だった陽子さんが見つけてくれて、助けてくれた。冷たい風が吹きすさぶ、冬の午後のことだった。あれから二年。俺はこの家で世話になっている。記憶も金も行く当ても無い俺を、陽子さんは家に置いてくれた。三食昼寝付きだ。ありがたい。だから俺も恩返しをすることにした。俺は探偵として、この家と店と、この町を守ることにしたんだ。陽子さんは美歩ちゃんと二人きりだ。つまりシングルマザー。いろいろと危険も多いはずだ。で、俺が用心棒って訳さ。探偵で用心棒。最強だ。――まあ、そう首を傾げるな。俺の価値観だから。でも、得体の知れない物が二つ重なれば、無敵だろう。美歩ちゃんも時々、得体の知れない粘液をグネグネと混ぜあわせたお菓子を満足そうに食べているぞ。それと似ている。まあ、美歩ちゃんは先々週から小学生になったばかりだから、彼女の価値観は諸君には分かるまい。俺もたまに首を傾げちまうしな。ああ、そうそう、もっといい例がある。小説家でコメンテーターとか、評論家でタレントって連中はテレビに出まくっているじゃないか。これなら分かるだろう。あの人たちの発言には、みんな耳を傾けるだろ。すごいと思っている。それと同じだ。どちらも得体が知れないし、自称でOK。俺も自称、用心棒で探偵さ。どうだ、すごいだろう。
さて、この「ホッカリ弁当」は、お向いの信用金庫や、大通りの向こうの警察署に毎日お昼のお弁当を納めて、安定的な経営をしている。もちろん、店頭販売も少しはやっているが、収入の中心はこの二者との安定的な取引さ。どちらの職員さんたちからも、味がいいと好評だ。陽子さんは料理が上手い。だけど、少しばかり目が不自由なんだ。まったく見えない訳ではないし、独立歩行が出来ない程ではないのだが、車の運転は無理だし、込み入った場所では俺や美歩ちゃんの助けが必要だ。なんでも、少しずつ見えなくなる病らしく、暗いところでは全く見えないらしい。だから、店は三時で閉まる。その分、陽子さんは早起きだ。朝早くから仕込みを始めて、不自由な目で苦労しながら料理を作っている。女手一つで美歩ちゃんを育てるために、日々奮闘しているのさ。それを知ってか知らずか、信用金庫の人も、警察署の人も協力的だ。お昼前に、職員分のお弁当を取りに来てくれる。警察署からは制服のお姉さんが取りに来るが、信用金庫からは支店長さんが取りに来る。いつも、お弁当を重ねて入れたビニール袋を両手に提げて帰っていくぞ。で、後は時々、この近所の人が買いに来る、そんな感じだ。つまり、この店は客筋がいい。なので、俺はいつも、店の表からは入らないようにしている。俺みたいな胡散臭くて素性の知れない男が正面から堂々と出入りしていては、せっかく陽子さんが築いた店の信用を台無しにしてしまうからな。という訳で、今日も俺はいつもどおりのルートで帰宅する。まあ、陽子さんもシャッターを閉め始めているし、コソ泥野郎も撃退した。もう安心だ。そろそろ美歩ちゃんも帰って来る。今日は火曜日だから、音楽の時間が最後だったはずだ。きっと覚えた歌を口ずさみながら帰ってくるに違いない。俺も帰るとしよう。
赤レンガ敷きの通りを奥に進む。「ホッカリ弁当」のお隣は「モナミ美容室」だ。
俺は裏口の方のドアへと回り、そのドアを必至に叩いた。内側から鍵が掛けられているこのドアの向こうの厨房の中で、陽子さんが洗い物をしているはずだ。知らせなければ。
「おーい、陽子さん、火事だ! 倉庫の中が燃えているぞ、開けてくれ!」
俺は必至にドアを叩いて叫んだ。陽子さんが驚いた顔でドアを開けた。
「あら、桃太郎さん、お帰り。珍しく今日はこっちから……」
「そんなことはどうでもいい、これを見ろ。煙だ! 火事だ! 一大事だぞ!」
「あら、嫌だ。大変、消火器、消火器……」
陽子さんは慌てて中に戻ると、すぐに赤い消火器を持って駆け出してきた。そして手際よくホースを外すと、その先端を倉庫に向けた。扉に手を掛けて開けようとする。
「熱い」
陽子さんは素早く手を引いた。
「待て、危ないぞ。ここは俺の得意のキックで開ける。下がっていろ。とりゃ!」
俺は倉庫の扉に勢い良くドロップキックしてやった。意外にも扉は簡単に開いた。中は火の海だ。赤い炎と黒い煙が渦を巻いている。酸素を引き込んだ炎は勢い良く暴れ始めた。
「陽子さん、消火器だ、急げ!」
俺の指示と同時に、陽子さんは消火器のホースの先端から白い煙を放出させた。倉庫から飛び出ようとしていた炎どもは白い泡に飲み込まれ、そのまま化学の力に負けて息絶えていく。濛々と立ち込めていた黒煙が消え、辺りに白い霧が広がった。陽子さんは必至に消化剤を吹き掛け続ける。駆けつけた土佐山田さんの御主人が、塀の向こうの薬局の敷地の中からバケツ一杯の水を放り投げた。倉庫が水に打たれ、熱せられたスチールの表面で水が蒸発する音が響く。反対側の塀から阿南さんが背伸びして覗いている。
「外村さん、どいて!」
土佐山田さんの御主人が陽子さんに声を掛けた。陽子さんが少し退くと、土佐山田さんの御主人は塀の向こうから、先端を強くつまんだホースの先をこちらに向けて構えた。
「伊勢子、いいぞ、出せ」
ホースから勢い良く水が放出される。白い泡に包まれた倉庫に満遍なく水が被せられた。消化剤の泡が洗い流され、地面に広がる。陽子さんは空になった消火器を抱えたまま、脱力してその場に座りこんだ。寺の敷地からカタカタと高い音が響いてくる。下駄履きの大内住職が消火器を持って走ってきたのだ。大内住職はかなり慌てている。
「なんだい、火事かい。大丈夫かい」
こちら側の塀の向こうから土佐山田さんの御主人が言った。
「もう大丈夫ですよ。消えたみたいです」
大内住職は安堵して息を吐き、消火器を下に置いた。土佐山田ご夫妻もホースの水を止める。白い割烹着姿の陽子さんは、白い泡の上に座ったまま呆然としていた。
倉庫の中から白い泡が流れ出てくる。その下から、熔けて焦げたプラスチックの塊が姿を現した。黒い塊は、暫らく強い悪臭を放ち続けていた。
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