第6話
六
結局、フードの男は見つけられなかった。タワーマンションの正面から延びた細い道の路肩に、妙蓮寺の車が停まっている。助手席には雀藤友紀が座っていた。汗で湿った薄手の綿シャツが胸に張り付いている。デジタルカメラの保存画像を確認し終えた彼女は、火照った顔を手で扇ぎながら、フロントガラス越しにマンションのエントランスの方を見ていた。エントランスの前では、カーディガン姿の老人と妙蓮寺が立って話している。何度か頷いた妙蓮寺は、老人をエントランスの中に誘うと、その隅の来客用の応接ソファーに座り、ポケットからボールペンを取り出した。雀のボールペンである。妙蓮寺は、横に座った老人にそれを手渡すと、低いテーブルの上に紙を置いて何かを書かせた。身を前に倒した老人が懸命に何かを書いた後、妙蓮寺はその紙を取って折り畳み、背広の内ポケットに仕舞った。そして、そのまま長財布を取り出すと、そこから数枚の紙幣を取り出し、老人に渡す。腰を上げた妙蓮寺は、老人の肩を軽く叩いてから、その場を後にした。
戻ってきた妙蓮寺が車に乗り込み、ドアを閉めると、雀藤が早速尋ねた。
「どうでした。何か分かりました?」
「いいや。顔は見ていないらしい。ただ、あんな男がここに入ってきたのは、初めてではないそうだ。近頃このマンションでは、不審者が目撃されているとも言っていた」
妙蓮寺は眉間に皺を寄せる。エントランスの中の老人は、こちらに向けて深々と頭を下げてから、奥へと消えていった。雀藤はそれを見ながら再び尋ねる。
「あのおじさんは、誰なんです?」
「ここの管理人の藤田さんだ。僕と君の事は見なかった事にしてくれと、金を渡しておいた」
雀藤は妙蓮寺に顔を向ける。
「お金ですか」
「何事も、そういうものだよ。だから、探偵は経費がかかる」
もう一度エントランスに顔を向けた雀藤は、項垂れた。
「そっかあ、お金かあ……」
妙蓮寺は隣の雀藤を見回して微笑むと、シートに身を投げた。
「だが、管理人さんの話が本当だとすると、さっきの派手なシャツの男は無関係だな。とても貝原泉が浮気をしている相手の男だとは思えん」
「ですよね。私の目から見ても、貝原さんの好みじゃないような。どちらかと言うと、ヒモっぽかったですし……」
妙蓮寺はシートから背中を離して、雀藤の方を向いた。
「顔を見たの? もしくは、写真が撮れたとか」
「いえ。写真は後姿だけで、顔は撮れませんでした。私も、見てません」
「そう……」
再びシートに深く倒れた妙蓮寺に、雀藤は尋ねた。
「あの、ところでなのですけど……」
妙蓮寺は目線だけを雀藤に向ける。
「ん? なんだい?」
「妙蓮寺先生は、どうして、このタワーマンションに来たのですか」
妙蓮寺はシートに身を倒したまま、目を閉じて答えた。
「――ああ、手倉好信さんが、このマンションに入っていくのを、妻の手倉智子さんの友人が見たらしいんだよ。それで、ここを調べてみた。だけど、上の階に金持ちの老夫婦が住んでいてね、その往診に来ただけみたいだ。裏は取れている」
「じゃあ、やっぱり浮気はしていないのですか」
妙蓮寺は目を閉じたまま答える。
「だろうね。ま、いつもの事さ。管理人さんに証言調書にでもサインしてもらって、やましい事はないという事がはっきりすれば、智子さんの
妙蓮寺は手倉智子の事を言ったのだったが、勘違いしたのか、雀藤は頷いた。
「ええ……。さっきの男の写真も、背中だけですし……。なんか、上の貝原さんと携帯で通話していたみたいなんですけどねえ。貝原さんの通話記録を手に入れられれば、はっきりと証明できると思うのですが……」
シートから身を起こした妙蓮寺は、真っ直ぐに雀藤の顔を見据えて言った。
「それは良くない。プライバシーの過度の侵害は探偵倫理に反するよ。それに、通信の秘密は憲法で保障されている。中学校で習ったろう」
「ですよねえ。やっぱり、無理かあ……あ、ちょっと待って下さい。――堂本さんからだ」
突然呼び出し音を鳴らし始めたスマートフォンをポシェットから取り出した雀藤は、それをハンズフリーの状態にして、ダッシュボードの上に載せた。雀藤は大きな声で答える。
「はい、すずめ探偵事務所の雀藤です」
スピーカーから、太く低い声が返ってきた。
「ワシや、堂本や。どうじゃ、調査の方は進んどるか、姉ちゃん」
威圧的で、脅迫めいた声だった。雀藤は萎縮する。
「あ、いや……それが……」
スマートフォンのスピーカーから飛び出した大声が、車内に響いた。
「ワレ、こら、いつまで待たせとんねん。泉が男を連れ込んどんのか、誰も連れ込んどらんのか、ワレが分からんのか、はっきりせんかい! 誰から着手金をもろうたと思とんねん、こら!」
「す、すみません。明日までには、報告書をご提出します。ホントに、すみません」
雀藤はダッシュボードの上のスマートフォンに向かって何度も頭を下げた。ドスの利いた声は静かに、しかし強圧的に言う。
「明日やの。待っとるぞ。俺の顔に泥を塗ることしたら、どうなるか分かっとるの」
「はい、それはもう。ちゃんとしたものを提出します。じゃあ、失礼します」
雀藤友紀は震える指でスマートフォンの着信を切った。目には涙を溜めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます