第4話
四
塀の角からニット帽を被った頭が出てきた。雀藤友紀は、まだそこに居た。彼女は難儀そうにデジタルカメラを構えて、タワーマンションのエントランスを遠方から撮影している。撮影した画像を背面のモニターで確認しては、納得のいかない顔で首を捻っていた。冷たい夜風が肌を撫でる。短く身震いした雀藤の後ろに、黒い乗用車が停まった。雀藤が振り返る。はずみでカメラのフラッシュが眩い閃光を発した。一瞬だけ照らされたその黒い高級車の運転席の窓が、ゆっくりと下がる。運転席に座っている男を見て、雀藤は眉を上げた。
「あ、妙蓮寺先生。すみません、これ、使い方が……」
妙蓮寺大助は助手席を指差して言う。
「乗りなさい。風邪をひくから。それに、そこからじゃ、中は見えないでしょう」
雀藤は小走りで車の前を通り、助手席側に回った。ドアを開けると、すぐに車に乗り込む。彼女は両肩を上げ、冷えた両手に息を吐きかけながら言った。
「すみません。お邪魔します」
彼女の太腿には、薄っすらと鳥肌が立っていた。それを見た妙蓮寺は、頬を上げながら、黙って車を出した。ライトを消したその車は、角を曲がり、住宅街中の細い道路をゆっくりと静かに進むと、すぐに速度を落とした。細い道の路肩で、タワーマンションのエントランスを正面に捉えて、その高級自動車は停止した。
運転席の妙蓮寺は、タワーマンションのエントランスに鋭い視線を向けていた。助手席の雀藤は、乗り慣れない高級乗用車の中をキョロキョロと見回したり、高級車独特の車内の臭いに鼻を動かしたりしている。落ち着かない様子の彼女の手元で、またデジタルカメラのフラッシュが光った。
「わっ。――失礼しました。――あれ? これ、どうやって電源オフにしたら……」
「あのね、君。電源を切ったら、いざという時に撮影できないでしょうが。それに、機材の使い方くらい、ちゃんとマスターしてから現場に持ち込みなさい」
「すみません」
雀藤が頭を下げたと同時に、またフラッシュが光り、また車内を明るく照らした。妙蓮寺は迷惑そうな顔で言う。
「だから。それ、ちょっと仕舞っておきなさい。向こうにサインを送っているようなものじゃないの。ライト消して、黒い車で張り込んでいる意味がないでしょ、それじゃあ」
「ですね。はい、仕舞っておきます」
雀藤は、腰の右に提げたポシェットの中にそのデジタルカメラを仕舞おうとした。身を倒して小さなポシェットの中にデジタルカメラを不器用そうに入れていると、彼女の右肘が妙蓮寺のスーツの左ポケットに当たった。紙の音がする。妙蓮寺はシートベルトを外しながら言った。
「僕も張り込む事にするよ。どうも、君を一人にするのは気が引ける。その調子だと、たぶん、失敗するからね」
雀藤は嬉しそうに言う。
「あ、ホントですか」
「どっちが」
「――あ、えっと、一緒に張り込みをしていただくという事です。よろしいんですか」
「僕も、このタワーマンションに調査の案件があって来たのだからね。調査方針の変更だ。張り込む事にするよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
雀藤はダッシュボードにぶつけんばかりに、深く頭を下げた。妙蓮寺は言う。
「その代わり、条件がある。これは共同調査だ。僕と君の、業者としての共同業務遂行。だから、ちゃんと契約を交わそう。いいね」
「はい。どんな契約でしょうか」
「共同業務遂行契約だよ。お互いの依頼案件を協力して解決する。僕は君の案件に協力するし、君は僕の案件に協力する。君は僕の方の案件調査については、僕の業務補助者。僕は君の方の案件調査については、業務指導者。どうだい?」
「あ、そういう事でしたら、是非。私も、この案件をちゃんとした調査報告書にして依頼人さんに提出しないと、報酬を貰えませんので」
「よし。契約成立だ。じゃあ、早速だけど、君の方の案件の情報を教えてもらえるかな」
「えっと……」
雀藤は口籠った。先ほど、妙蓮寺自身から依頼の秘密は絶対だと教わったからだ。すると、妙蓮寺は言った。
「業務協力だと言ったろう? 僕らは二人でワンセットだ。情報は共有する。これ、基本だよ。その代わり、僕は君の案件の情報を外には漏らさない。もちろん、こうして共同で取り組んだ事もね。君もそのつもりで。いいね」
雀藤は大きく首を縦に振った。
「はい、分かりました。口が裂けても、誰にも言いません」
「僕は存在自体を表に出していない探偵だからね。その辺も、よく心してくださいよ」
「分かりました。絶対に誰にも言いません」
妙蓮寺も深く頷く。
「よし、信用しよう。――で、案件は? どんな内容なの?」
「ええと、浮気調査です。男の人からの依頼で、調査対象は、その婚約者の女性です。このタワーマンションに住んでいる」
「ふーん。初回からいきなり、高いハードルに取り組んだものだね」
「え、そうなんですか?」
雀藤がキョトンとした顔をしていると、妙蓮寺は額に手を当てて、シートに身を倒した。
「ああ、君もか……」
体を起こした彼は、短く嘆息を漏らしてから、呆れ顔を雀藤に向けた。
「よく居るんだよ、経験の浅い探偵で、浮気調査を軽く考えている人が」
「……」
発言の趣旨を察しかねた雀藤は、黙っていた。妙蓮寺は困り顔で言う。
「確かにね、浮気調査の案件と言えば、誰もが探偵業務として最初に思い浮かべる仕事内容だ。イメージもし易いし、実際に探偵が引き受ける依頼案件の多数を占めている。でもね、だからと言って、簡単な内容の仕事だという事には、ならないだろう」
確かにそうだ。簡易裁判所で扱う事件が簡易な案件だとは限らない。簡裁管轄の五十万円の慰謝料請求事件の方が、地裁管轄の五百万円の貸金返還請求事件よりも複雑であろう。それと似たようなものか……。雀藤友紀はそう思った。
妙蓮寺の話は続く。
「浮気調査は決定的な証拠を押さえなければならない。しかも、大抵が、その後に離婚裁判や慰謝料請求に発展する。単に好いた惚れたの情を暴くだけじゃないんだよ。法律的なポイントを押さえて、証拠として使用できる客観性を備えた調査報告書を仕上げなければならない。違法な調査だと、後々、証拠として使用できないかもしれないからね。細心の注意が必要になる。しかも、相手は浮気しているとなれば、周囲に警戒して行動するはずだ。こちらも、気を引き締めて掛からないといけないし、実際にも、通常よりも難儀な調査になる事が多い。経験を積んだ僕のようなベテランでも、裏をかかれる事が稀にあるくらいだからね。新人が最初に引き受ける案件としては、荷が重すぎたんじゃないかなあ」
「そうなんですか……」
話を聞いた雀藤は、落胆したように下を向いた。妙蓮寺は、そんな雀藤が少し気の毒になって、声を明るい調子に変えた。
「まあ、こうして平日の夜に的を絞ったのは感心だ。無駄に張り込んで、長期戦になってしまって費用倒れする探偵を何人も見てきたからね。その点は褒めてあげるよ」
雀藤は急に元気な顔を妙蓮寺に向ける。
「ですよね。浮気している人は、休日とかは、怪しまれないように家に居て、密会はウィークデイの夜にするって、探偵マニュアルに書いてありました」
「だから、本は当てにならないって。ま、今回は僕がサポートするから、心配は要らないよ。それに、きっと今日がポイントの日だし」
「ポイントの? 密会する日だって事ですか。どうして分かるのですか」
「だってほら、今日は水曜だろ。普通のサラリーマンなら、週の中日で、遅くまで残業して忙しい日だ。帰りが遅くなっても言い訳をし易いし、君の依頼人も忙しいだろうから、調査対象の女性に連絡を入れる事も無い。万が一に連絡があったとしても、明日が早番だから早めに寝ていたとか、遅番で勤務中だったという言い訳をすれば、携帯に出ない口実もできる。それに、この天気。もうすぐ、雨が降りそうだろう。そうなると、このマンションの人の出入りも少ない。つまり、浮気の相手は、このマンションの住人に見られずに、会いにいける。窓から見える視界も悪いし、帰りは傘を差せば、姿を隠せる。それから、極めつけは……」
妙蓮寺はハンドルの上に頭を出してフロントガラス越しに、雨雲を浮かべた暗い夜空にぼんやりと映る光源を見上げた。雀藤も彼に合わせて見上げながら、尋ねる。
「なんですか」
「満月さ。満月の夜は、浮気する人間が多い。これも探偵の常識」
「そうなんですか。初めて聞きました」
「まあ、とにかく。君の調査対象者が相手の男と会うとすれば、今日だ。逆の言い方をすれば、今日会わないようなら、君の調査対象者は浮気をしていない」
「いや、それは……」
妙蓮寺は透かさず雀藤の顔に指を向けた。
「ほらね。そうやって、思い込んでいる。君、依頼人から言われたとおり、その女の人が浮気していると思い込んでいるだろ。それじゃ、素人じゃないか。いいかい、そもそも、浮気していないかもしれないだろ。それも可能性の範囲に入れておく必要があるんじゃないの」
「なるほど……」
「実際には、誤解だったというケースが多いんだよ。それから、こういう事もある。実は依頼人の方が浮気をしていて、それがバレて慰謝料請求された場合の対抗措置として、相手の粗探しをしたがっているとか、あるいは、君も聞いた事があるかもしれないけど、『別れさせ屋』っていう奴らがいて、依頼人が相手の女性と別れたくて、別から手を回していて、あえて探偵に調査させて、わざと証拠を集めさせるというケース。君のような新人に頼む依頼人に多いケースだよ」
雀藤は上を向いて口を開けた。
「ああ、『別れさせ屋』かあ……。考えもしませんでした。――メモしとこう」
急に下を向いた雀藤は、ポシェットの中を覗き込んでメモ帳を探した。再び右肘が妙蓮寺のスーツの左ポケットに当たる。
「あ、すみません。何かポケットに入れてますか。大丈夫ですか。グシャって音がしましたけど……」
妙蓮寺は苦笑いしながらポケットに手を入れ、中からリボン付きの赤い小袋を取り出した。それを後ろの座席に置きながら、彼は言う。
「ああ。妻にね、誕生日のプレゼントを買ったのだけど、ま、明日にでも渡すよ。仕事が優先だ」
体を捻って、後ろの包みを覗き込んだ雀藤は、眉を八字に垂らした。
「――すみません。なんか、すごくご迷惑だったんじゃ……」
「ああ、いいの、いいの。それより、その依頼人さんは、どんな人なの?」
雀藤はようやくメモ帳とペンを取り出した。ペンには先端に雀の人形が付いている。妙蓮寺は怪訝な顔でそれを見つめた。その視線に気付かない雀藤は、必至にメモを取りながら答えた。
「ああ、依頼人ですか。――わかれさせやにちゅういっと……ええと、堂本金蔵さんって方です。なんだか、何とか貿易っていう会社を経営されている社長さんで、おじさんです」
「ど、堂本? その会社、何ていう会社」
「ええと……」
雀藤友紀はメモ帳を捲った。
「ゴールデン貿易株式会社です。たしか、『どうも会』っていう組合か何かの会長さんもされています。慈善団体か何かですかね」
「それ『どうも会』じゃなくて、『堂本会』だろ。暴力団じゃないか。堂本金蔵さんと言えば、そこの組長さんだよ」
雀藤は、眼球が飛び出んばかりに目を丸くする。
「ええ! じゃあ、あのお爺さん、恐い人たちのトップの方なんですか。だから、あの歳で、あんな若い人と結婚するんですか?」
「『だから』の意味が分かんないけど……。僕に聞かれても知らないよ。それに、それ、絶対にちゃんとした調査報告書を作らないと、君、命がなくなるかもよ」
雀藤は、今度は半泣き顔で言った。
「そんなあ。これ、命がけの仕事じゃないですか」
「厄介な所から仕事を引き受けちゃったね。それで、相手の女の人の名は?」
「
「……」
状況の深刻さに気付いていないかのような雀藤に言葉を失ったのか、妙蓮寺は暫く黙っていた。やがて、我に帰ったように気を整えて、雀藤に言う。
「と、とにかく、それは真剣に取り組まないといけないな。結果によっては、殺されて海に沈められてしまうかもしれない。まずいな……」
「海? ――た、助けて下さい、妙蓮寺先生」
雀藤は妙蓮寺の袖を強く掴む。妙蓮寺は震える雀藤の手を離しながら言った。
「いや、君の話ではないのだが。――まあ、いい。分かったよ。何とかしよう。それで、その貝原泉さんの事は、どこまで調べているの」
「ええと、まず、このマンションは、堂本さんに買ってもらった物件らしいです。二人で会うために買って、普段は貝原さんが一人で住んでいる」
「賃貸じゃないのかい。まだ二十八歳だろ。ちゃんと登記簿で調べたの」
「はい。全部事項証明書も取得して、調べました。ちゃんと、所有権は貝原さんと堂本さんの共有になっています。二年前から。だから、婚約の話も嘘じゃないと思います」
「そうかい。こんな広いマンションを買ってもらって、浮気とはね……」
妙蓮寺は顔を険しくした。雀藤は言う。
「でも、職場とか、普段の行動パターンなんかは、まだ判明していません。彼女、結構にガードが固くて」
「そうか。――で、浮気相手の事は」
「まったく何も。名前も顔も分かりません」
妙蓮寺は首を捻る。
「それで、どうして堂本さんは、貝原さんが浮気していると気付いたんだろうか」
「何だか、急に身につけている物が豪華になったそうなんです。買ってあげてもいないネックレスとか、指輪とか、高級な香水とかを付けているとかで。だから、相手の男は金持ちだろうって、堂本さんは言ってます」
「そ、そう。そりゃあ、随分と揉めそうだね。相手の男も、その筋の人間かもしれない。なんか、そんな臭いがするなあ……」
雀藤は声を裏返した。
「もしかして、抗争ですか。敵対する暴力団と!」
「分かんないけど、探偵なら常に最悪の事態を想定しておかないと」
今度は雀藤が額に手を当てて上を向いた。
「ああ、そういう事かあ……」
「どうしたんだい」
「いや、堂本さんが言ってたんです。相手の男がどんな金持ちでも、金では買えんものを奪ってやるって。すごく怒ってましたから。それって、宝物のフィギュアとかの事じゃないですよね」
「当たり前だろ。命だよ。相手の男を殺す気なんだよ、きっと」
雀藤はまた、目を大きくする。
「ええ! じゃあ、私、殺人の協力者になっちゃうじゃないですか」
ドアに右肘をついて、暫く険しい顔で爪を噛んでいた妙蓮寺は、その指で雀藤を指差しながら、落ち着いた口調で言った。
「君、その案件は断った方がいいね」
「無理ですよ」
「どうして」
「着手金を貰ってますもん」
「返せばいいじゃないか」
「全部、使っちゃいました。このデジカメを買ったり、事務所の今月の家賃とか、賃貸借契約の仲介手数料とか。応接セットを買ったり」
「自分の貯金を使ったって、さっき言ったじゃないか」
「足りなかったんですう! 届出の印紙代とか、チラシとか、名刺とか、この特性ボールペンを作ったり」
雀藤は手に握っていた雀のマスコットを付けたボールペンを見せた。妙蓮寺は怪訝な顔で見つめる。
「何それ……」
「すずめ探偵事務所だから、『雀』です。こういうのって、銀行とか、税理士事務所さんとか、たくさん作って、顧客に配りますよね。これからは、探偵事務所も、そういうマスコットっていうか、販促アイテムみたいな物も必要かなって思って。堂本さんにも、あげました。喜んでましたよ」
「そういう問題じゃないだろ……」
呆れ顔でそう言った妙蓮寺は、真顔に戻して雀藤に尋ねた。
「何本」
「はい?」
「何本作ったの、その変なボールペン」
「変なって……五箱です」
「それくらいなら……」
「段ボール箱で。このくらいの」
雀藤は両手を左右に広げて見せた。妙蓮寺は眉間を摘まんで言う。
「ああ……何千本も発注した訳だ……」
「一万本です。まとめて作った方が、お得だって、業者の方が教えてくれたので」
妙蓮寺は顔を手で覆って項垂れた。雀藤が製造業者の営業担当者の口車に乗せられた事は明らかだった。それは聞くまでもなく高額な代金だったはずだし、おそらく、単価も割高だったはずだ。しかも、一括で支払わされたのだろう。若い娘の世間知らずに嘆息を漏らしている妙蓮寺に、雀藤は握っていたボールペンを差し出す。
「あ、よかったら、お一つどうぞ。インクは、よく出ますよ」
「ああ、ありがと……」
デフォルメされたデザインの雀が、奇妙な笑みを浮かべて先端に載っている。ボールペンを受け取った妙蓮寺は、それをスーツの内ポケットに仕舞いながら、雀藤に尋ねた。
「で、君、持ち金は……」
雀藤は即答する。
「ゼロです。だから、頑張らないとって思って……」
「まずいなあ。それじゃ本当に、断れないな。でも、相手の男の名前を調べたら、殺人の共犯にされてしまうかもしれない。だからと言って、いい加減な調査をしたら、君の命が危険になる。こりゃあ、弱ったなあ」
「ど、どうしたらいいんでしょう」
「うーん……。どうしようもないなあ。一応、その相手の男の素性を調べ上げるしか、今のところ、君に助かる道はないね。その後で警察に行くか……」
「その前じゃ駄目ですか」
「駄目だよ。着手金を使いまくって、仕事を放棄した挙句に、警察にタレ込んだとなれば、その依頼人さんに喧嘩を売っているのと同じじゃないか」
「ですよねえ。はあ、早く出てきてください。貝原さんの浮気相手の人」
雀藤友紀は両手を組み合わせて額の前に運ぶ。妙蓮寺大助は深く溜め息を吐いた。手を解いた雀藤は、妙蓮寺に顔を向ける。
「あ、それで、妙蓮寺先生の案件は、どういうものなんですか」
「ああ、こっちも同じだよ。浮気調査。奥さんの方から、旦那さんが浮気しているんじゃないかっていう相談でね。一応、調べるという事で引き受けた」
「え? じゃあ、その人が貝原さんの相手の人かもしれないですね」
「だといいけどね。でも、僕の勘じゃ違うな。あれは、奥さんの方の思い込みだ」
「名前は、何という方なのですか」
「
「旦那さんは?」
「
「わかりませんよ。それにしても、その手倉好信さんって、いわゆる婿養子って事ですよね。それなのに、浮気ですか。もし、それが本当なら、大変な事になるんじゃないですか」
「だろうね。今の院長の雄大さんは短気な方だし、娘の旦那が浮気していたと知ったら、激怒するだろうね。まず家からも病院からも追い出されるな。そして、智子さんとは離婚。院長にはなれないだろうし、病院もクビになるだろう。もしかしたら、医療業界からも追放されてしまうかもしれないね」
「でも、そんな立場で他の女の人を囲っていたんなら、当然ですよね」
「かもね。だけど、彼も色々とストレスが多かったのかもしれないよ。智子さんって人は、かなりヒステリックな人だからね。現に、僕のような探偵を雇って、旦那の粗探しをしている。話を聞いてみれば、全く根拠の無い疑いばかりなんだけど……」
雀藤は小さく言った。
「浮気はいけませんよ」
妙蓮寺はシートに身を投げて言う。
「ま、女性としては、そうだよね。だけど、してないと思うよ。僕も色々と調べてみたけど、手倉好信の周囲に女性の影は見当たらない」
雀藤は興味深そうな顔で尋ねた。
「そうなんですか。そういった場合、どうするんですか」
妙蓮寺は目線だけを隣に向ける。
「ん? 浮気の事実がないのだから、『不貞行為なし』と調査報告書に明記して、依頼人に報告するだけさ。それが真実なのだから」
「もし、本当はしていたら?」
「そういう事がないように、徹底的に調べるのが探偵だろ。僕の方はともかく、君は自分の案件に真剣に取り掛からないと、まずい事に……」
雀藤がフロントガラス越しにマンションのエントランスの前を覗いて言った。
「あ、誰か来ました。男の人ですね」
慌ててシートから身を起こした妙蓮寺は、エントランスに入っていく男に目を凝らした。
「んん? このマンションの住人じゃないなあ。あんな柄の悪そうな服装をして、下品な歩き方をする奴は、このマンションには住んでいないはずだ」
「顔もフードで隠してますよ。怪しいですね」
「貝原泉の部屋の位置は分かっているのかい?」
「はい。十三階の角の部屋です」
妙蓮寺は下から順に窓を数えていく。
「十三階……一、二、三……」
「ピンク色のカーテンが閉まっている部屋です。この位置からだと、ちょうど、電線のすぐ上の位置に見えます」
素早くそう言った雀藤に驚きながら、妙蓮寺は視線を動かす。
「ああ、あそこか。人影が映っているなあ。まだ彼女はリビングの中かあ……」
「あ、男がエントランスの中に入ろうとしています。インターホンの所に向かっていきました。ああ、カメラ、カメラ……」
雀藤は慌ててポシェットからデジタルカメラを取り出すと、それをダッシュボードの上で構えた。妙蓮寺がそのカメラを覆って下げる。
「ちょっと待った。ここからフラッシュを焚いたら、張り込んでいる事に気付かれてしまう。もっと近くまで行って、フラッシュ無しで撮影しなさい」
「分かりました。ええと、モード切替え、モード切替えと……」
雀藤はデジタルカメラの背面のパネルを覗きながら、タッチ式のパネルを丁寧にタッチしている。雀藤の手許とマンションのエントランスを交互に見ながら、妙蓮寺が声を荒げた。
「何やってるの。ほら、オートロック解除の暗証番号を入力しているよ。中に入っちゃうじゃないか」
雀藤は慌ててドアを開ける。妙蓮寺も慌てて室内灯をオフにした。
「じゃあ、行ってきます!」
ミニスカートの雀藤は、タワーマンションの敷地へと駆け出していった。
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