社会人と花火 第一話

 静かに熱く、心の奥底が燃えている。


 小さなライブハウス、眼下には薄暗い中で照明に照らされた観客の姿があった。


 ライブハウスは超満員で、もみくちゃになった彼らの目は爛々と輝き、その全てが俺に注がれていた。


 彼らは何を期待している?


 俺がギターに張られた六本の弦にピックを打ち振ることを期待しているに決まっている。


 生きていると実感している。


 存分にこの瞬間を味わいたいと心から思っている。


 目の前にはスタンドマイク、肩からぶら下がったギターからは確かな重さを感じている。


 香織はどこにいるのだろうか、そう思いステージの上からフロアにいる彼女の姿を探す。


 一瞬で見つける自信はあった。


 確信した通り、彼女の姿をすぐに捉えた。


 彼女はフロアの奥で壁にもたれながら、俺の事を見ていた。


 目が合うと、香織は少し微笑んだ。


 俺も微笑んだ。


 目を瞑る。 


 真っ暗な中に白い線が駆け上がっていく、線はどんどん速度を落とす。そして止まる。


 止まった瞬間、何かが弾け飛んで、俺はギターをかき鳴らした。


 最後の曲が始まったのだ。





 


 





 会社の地下倉庫で、俺はブラウン管テレビに正拳突きをしていた。


 イライラが溜まると、俺はここで力任せに廃棄物をぶん殴るのであった。


 せい、せい、せい、とボコボコにテレビをぶん殴る。殴るたびに、ボコンボコンとひしゃげるテレビを見て、俺は黒い愉悦を噛み締めるのであった。


 事の発端は今日の朝である。


 爽やかな初夏の風を受け出社し職場のデスクに行くと、山ほどの資料がボカンと置かれていた。


 茫然自失とはまさにこの事、俺はデスクの前で立ち止まり天を仰いだ。


 と言うのも、ここ最近忙しくて毎日残業の嵐、更には土曜出勤も重なり、俺の心と身体は崩壊寸前のところであった。そこに突然現れたのがこの山である。


 「加藤くん」


   後ろで声がする。振り返ると小太りの汗をかいたおじさんが申し訳なさそうに突っ立っている。


 「申し訳ないんだけどさ、それ、明日までに片付けられるかな?」


   このおじさんこそ、諸悪の権化である宮本課長である。


 宮本課長はいい人だ。優しいし、面倒見も多い。だからついつい他部署の仕事も引き受けてしまう。そして引き受けた仕事を俺達課員が片付けると言う最悪のシステムが生まれている。


 「イイデスヨ」


    俺は絶望のあまりカタコトになってしまう。


 今日と言う今日は早めに帰ってビールでも飲みながらテレビ見る予定だったのに。


 昼頃、遂に我慢の限界に達した俺は地下倉庫に行き、ボコンボコンとテレビをぶん殴っていたのであった。


 ある程度テレビを痛めつけた後、今日はこんぐらいで勘弁してやる。と捨て台詞を吐くと自分のデスクに戻った。


 伸びをして、首を回した後、よっしゃ、続きすっぞ!と決意した瞬間、また後ろから声がした。


 「加藤くん」


   振り返ればブルースクリーンさんが立っていた。


 ブルースクリーンさんこと、花木達夫さん。彼はまさに我が社が抱える不良債権である。


 年齢は五十六歳。彼にはPCが苦手と言う致命的な欠点がある。


 彼が入社した時はまだそこまでPCスキルがなくても困らなかったのだろうが、今や社員一人につき一台PCがある時代である。


 そんな時代の波に派手に取り残された花木さんはあれよあれよと言う間に会社でのポストを失った。今や花木さんは部署の隅っこで簡単な書類整理をするだけの人である。窓際の際の際で粘り強い取組をするおじさんである。


 そのくせ、年功序列が色濃く残る我が社に於いて、花木さんの給料は俺たち若手よりもかなり高いらしく、若手がヒーヒー言って仕事をしている隣でのほほんと人差し指でキーボードをポチポチとつつく姿は憎悪の対象となっている。


 ある日、課員が花木さんの動きが止まっている事に気がついた。乗り出して見てみると、花木さんのPCの画面がエラーを起こしてブルースクリーンで固まっている。花木さんはじっとそのブルースクリーンを眺め、PCと同じく固まっていたそうな。恐らく、エラーを起こしたPCを直したいのだが、誰にも聞けず、ただ固まっていたのであろう。


 それ以降、若手社員の間で広まった彼のあだ名がブルースクリーンである。


 そんな風に彼を揶揄するのは品性がない様に思えるが、そう言いたくなる気持ちも分からないではないのがまた辛かった。


 「はい!?」


    俺は忙しさの余り、心の柔らかさを忘れ、強い語気で花木さんに答えてしまった。


 はっと我に帰り、すいません、突然声をかけられたもので、大きな声を出してしまいました。どうされましたか?と取り繕う。


 「いや、加藤くんにね、頼みたいことがあって」


 この男は一体俺に何を頼もうと言うのだ。


 花木さんの仕事量は俺の半分もないはずなのに。そう思うとまたイライラが込み上げてくるが、俺は大人なので必死に怒りを抑え込む。


  「すいません、今忙しくて、後でいいですか」


  「もちろん、ごめんね」


 そう言うと、すごすごと花木さんは自身のデスクに帰っていった。


 悪いことしちゃったかな。と心がざわついたが、これもまた余計な仕事を振られないために自衛をしたまでだ。こう言うことも出来ないと社会人はやっていけない。


 そう踏ん切りをつけて、俺はまたPCに齧り付き、キーボードを叩いた。








 ようやく仕事にキリがついたのは夜の十一時だった。イスの背にもたれかかり天井を仰ぎ見て、眉間を強くつまんだ。


 既に俺の席以外フロアに明かりはない。


 大きなフロアにポツンと一人取り残され、オマケにクーラーも切られ、初夏の蒸し暑さのせいで身体はじっとり汗ばんでいる。


 ストレスのせいなのか、汗がいつもよりも臭く感じた。その臭いがあまりにも強烈だったので涙が出そうだった。


 大学を出て、仕事をする様になってから、俺の人生には仕事以外無くなってしまった。


 彼女とは別れてしまったし、友達とも疎遠になった。


 自分の人生を豊かにする為に仕事を始めたのに、仕事に支配された人生を送っている。


 そう思うとやりきれなくなってくる。


 最早怒りは湧かず、代わりに途方もない虚しさが胸に込み上げてくるが、しかし、俺は大人なのでその感情を必死に胸の奥に落とし込もうとした。


 デスクに両肘を立ててもたれかかり、両手で顔を覆って嵐が過ぎ去るのをじっと待った。


 しかし、今日は嵐はなかなか止んでくれない。


 心の中で感情が渦巻く、後悔?義務感?生活?人生?なんだそれ?


 よく分からない、誰でもいい、誰か、俺を救ってくれ。


 そう心の中で叫んだ瞬間、ガサリと言う音が聞こえて俺は身構えた。


 一体、誰だ?顔を上げて辺りを見回すと、人が暗闇の中で立っていた。


 花木さんだった。彼はコンビニの袋を手に持ち、遠慮がちに俺に笑いかけた。


 「加藤くん、遅くまでご苦労様、差し入れ持ってきたよ」


   そう言って、手に持った袋を掲げる。


 その時、俺には花木さんが救世主に見えた。





 


 「バンドですか?」


 「そう、バンド」


   花木さんと俺は会社から程近い大衆居酒屋のテーブル席に座っていた。


 和食を出す店で、店内は木目調で統一されており、黒いTシャツの上に紺色のエプロンを着た店員が忙しそうに歩き回っている。金曜日と言うこともあり、深夜だというのに居酒屋は人で賑わっている。


 サラリーマン風の集団から大学生らしき若い子まで客層は様々だった。


 


 「いやね、後でって言われたからさ、いつ話してくれるのかな?って思ってたら、定時になっちゃってさ。それで、暫く会社の外で加藤くんのこと待とうかな?って思っちゃったわけね、僕。ホント、怖いオジサンだよね。自分でもどうかしてると思ったんだけど、どうしても今日話したくてね。でも、なかなか出てこないし、今日は諦めようかな?と思ったのが、午後十時でさ。いやいや、ここまで待ったならもう、意地でも加藤くん待ってやろうと思って待ってたのよ。それで手ぶらってのもどうかと思って、これ差し入れ買ってきちゃった」


    花木さんは挙動不審で手を頭にやり、ボリボリと白髪混じりの頭を掻きながら、恥ずかしそうに俯いて、一息にそう言った。


 普段なら、なんだこのオジサン、怖いぞ。と思う所だが、今日の俺はとにかく心が弱っていて、そんな花木さんの不器用かつ、不審者としか思えない思いやりに対して、とてもありがたいと思ったのであった。


 「話聞くと言って、すっかり忘れちゃってました。夜遅くまで待たせちゃって、すいません」


    俺は力なく、立ち上がると、ペコペコと花木さんに頭を下げた。すると、花木さんも何故かペコペコも頭を下げて、二人でペコペコ合戦をしばし繰り広げた。


 「で、話ってなんですか?」


   そう俺が聞くと花木さんは恥ずかしそうに目を泳がせて、また頭をバリバリと掻いた。


 「いや、その加藤くんって音楽好きなんでしょ?」


    「え、なんで知ってるんですか?」


    「忘年会でさ、ギター弾いて歌ってたじゃん」


    そうなのだ、我が社は謎の体育会系的な伝統が脈々と受け継がれており、忘年会では部署の若手が何か芸をするのが慣わしとなっていた。


 俺にできることと言ったらギターくらいなもので、当時流行っていたポップスを居酒屋の真ん中で弾き語って見せたのであった。しかし、上司連中は若者の音楽に疎かったらしく、口をぽかんと開いてしまい、場はしらけムードになり、俺は二度と忘年会でギターなど弾くまいと固く誓ったのであった。


 「あー、そういや弾きましたね」


   「見て、すぐに分かったよ。『あ、この子ギター上手いな』って」


   「学生時代少しやってましたからね」


   「謙遜はいらないよ、あれくらい弾けるんだ。相当やってたでしょ」


   俺は花木さんの目がギラギラと光出したのに気がついた。さっきまでのどこかオドオドした態度も鳴りを潜めている。何か嫌な予感を感じ取った。


 「それで、なんですか?」


 「僕と一緒にさ、バンドをやって欲しいんだ」


   とにかく、話を聞きましょうと言うことで、俺たちは居酒屋に移動したのであった。


 正直に言うと、俺は少しワクワクしていた。


 普段ならば即断っていたであろうが、あまりの残業と孤独感から少しハイになっていたのである。


 




 よくよく考えれば職場のパッとしないオジサンにバンドに誘われるなんて、なかなかない話である。今日は金曜日で、明日は休みだ。聞くだけ聞くのも悪くはないかも知れない。それに孤独で死にそうだったので、誰かに側にいて欲しかったのだ。たとえそれが職場のパッとしないオジサンでも。


 俺たちは仕事の話だとか、たわいのない会話をして、とにかく酒を煽った。花木さんも緊張が解けたのか、やたらめったら日本酒をワンコそばの様に平らげている。


 俺が三杯目の生中ジョッキをグビグビと飲んでいる時、花木さんは机の上にポンと一枚のチラシを置いた。


 そのチラシは近所の花火大会のものであった。花火の写真の上に『花火大会 バンドフェス!出場者大募集』と書かれており、文字の下には更に『スペシャルゲストとしてカーフェイスの高木さんが来場』と書かれている。


 カーフェイスと言えば、大ベテランバンドでデビューから二十年以上経って尚人気の実力派バンドだ。高木と言えば、カーフェイスのボーカルである。ちなみに俺は学生時代カーフェイスにどハマりしてアルバムは全部持っている。


 「え!?高木さんがこの町に来るんだ。スゲー」


   俺は思わず唸った。


 「これに出たいんだ」


   「また何故ですか?」


  「昔のバンド仲間が久しぶりに地元に帰って来てるんだ。彼らに僕の姿を見て欲しくてね」


   そう言った花木さんの顔は綻び、どこか懐かしそうな目をした。


 俺はぐびりとビールを喉を鳴らして飲み干した。


   「やるとしたら何をしますか?コピー?まさか一からオリジナルを作るなんて言わないですよね?」


   「お!?やってくれるのかい!?」


  「まだ決まった訳じゃないです。花木さん、俺はね、下手くそとはバンド組まないって決めてるんです。ストレスだから」


  「ほー、言うね」


  「やるかどうかは、花木さんの腕前次第ですかね」


   俺はこの時、かなり酔っていたのであった。








 俺と花木さんは、じゃあ、セッションしてからバンドを組むかどうか決めようと言うことになり、俺たちは酔いとノリと勢いに任せて、二十四時間営業のスタジオになだれ込んだ。


 スタジオは広いフロントに何個も机が等間隔で並んでおり、その全ての席に灰皿が置いてある。ヤニの臭いがフロントに漂う昔ながらのスタジオだ。そして、壁には番号の書かれた分厚い扉が並び、その中で深夜練習中のバンドマン達が汗水流しているのであった。


 スーツ姿の汚いサラリーマンが二匹どっかりと腰を下ろす。


 辺りには休憩中らしき若者たちがタバコを吸いながら机を囲んでいる。


 「しかし、便利になったなー、手ぶらで来ても色々と貸し出してくれるんだね」


  「そうですね、ギター少し触りましたけど、レンタルにしては悪くないですよ」


   俺たちはふひふひと笑い合った。


 嬉しいのだ。スタジオに来ると自分が根っからのバンド好きであることを思い出させてくれる。ワクワクして堪らない。花木さんも同じ様子だった。


 なるほど、このオジサンも同じ穴のむじなか。しかし、経った数時間前まで碌に話したこともなかったオジサンがバンドと言うたった一つの共通点だけでこうも親近感が湧くのかと感慨深くなった。


 「花木様〜、一番スタジオ空きました」


    スタッフの声が聴こえる。


 じゃあ、行こうかと言って俺たちは分厚い防音扉を開けて練習室に入った。


 


 練習室は六畳ほどの広さで、前面の壁は鏡張りで、足元にはモニターが二つ並んでいる。


 全身の毛が逆立った。俺は帰って来たのだ。この空間に。


 そう思うとニヤニヤが止まらなかった。


 花木さんを見ると、早速ドラムのセッティングに取り掛かっている。身を屈めて、椅子の高さを調節している。もちろん、その顔は笑っていた。


 俺も早速準備に取り掛かる。


 置いてあるマーシャルにシールドを突き刺し、音色を作っていく、ハイ、ミドル、ロー、ボリューム、ゲインのノブを回して満足のいく音を作っていく。ドラムのチューニングをしているのだろう、花木さんが一打一打確認する様に叩く音が後ろから聞こえてくる。


 数分後、俺たちは見つめあっていた。準備が全て整ったのだ。


 「どうします?ブルースのスタンダード曲とか弾いて合わせてみますか?」


   俺が提案するが、花木さんはニヤリと笑った。


 「そんな生っちょろいことから始めずに、手癖でも好きな曲でも、なんでもいいから弾いてみなよ。どうとでも合わせるから」


    俺の心に火が灯り、胸が熱くなるのを感じた。何を言いやがるこのオヤジは。こんなに自信満々に言うってことは相当ヤレるってことなのだろうか。お手並み拝見と行こうじゃないか。もしも花木さんがついて来れなかったら、加減せずに置いていこう。そう決めた。


   「言いましたね」


 俺はそう言うとギターを弾き始めた。


 マーシャルアンプから太い音が飛び出る。音が身体にぶつかって来て最高に気持ちがいい。


 俺は敢えてファンクセッションのスタンダードナンバーを花木さんにぶつけてみた。


 おそらく、花木さんはロック系のドラマーだろう。そう言ったドラマーがまず通った事がなさそうなファンクをぶつける事で、花木さんの腕前と対応力を見てやろうと言う魂胆があった。


 ロックとファンクのドラムの叩き方は結構違う。こう言う相手の事を慮らないセッションはある意味喧嘩を売っている様なものでもある。


 しかし、この時の俺は熱くなっていたのである。


 さあ、どうする?


 花木さんの顔を見る。


 花木さんはドラムセットの前に座り、口の端だけを持ち上げて笑っていた。


 俺が九小節弾き終わったと同時に、花木さんのドラムが入ってきた。


 全てが完璧だった。一打一打の丁寧さ、リズムキープ、そして対応力。


 俺はなんとか花木さんを慌てさせてやろうと、あの手この手を使うが、全く花木さんのドラマはブレない。


 みるみるうちに酔いが覚めていくのを感じる。先程灯った胸の火照りは瞬く間に冷めていった。


 喧嘩を売る相手を間違えた。なんと浅はかだったのだろうか。


 顔が恥ずかしさで火照ってくるのが分かる。


 その時、冷静さを失っていた俺は一音弾き損じた。しまった。ギターの音が止まる。


 思わず花木さんを見る。すると、花木さんは相変わらず完璧で、それどころか俺のミスを瞬時にカバーするだけでなく、俺が入りやすい様に目配せで合図を送ってくれた。完敗だった。


 セッションはソロパートに入る。


 その時のギターはもうボロボロで聞けるものではなかった。簡単なフレーズでなんとかソロパートをしのぐ。


 次はドラムソロだ。その時、花木さんの腕が二本から四本になった。ぬるりぬるりと滑らかで、それでいて凄まじい速さでドラムを叩き上げる。超絶怒涛の技巧テクニックだった。


 ソロパートが終わると、また花木さんが目で合図を送ってくる。


 『そろそろ終わるよ』


 俺たちは息を合わせて、ラストスパートをかける。なんとか気持ちを立て直し、ギターで花木さんに食らい付いていく。


 俺のギターと花木さんのドラムが完全に融和し、ひとつになっていく。それがとても心地よかった。


 そうして、俺はなんとか曲を弾き切る事ができた。





 終わると、どっと疲れが湧いてくる。立っているのもままならないくらいだ。


 なんとか、膝に手を置いて、息を整えた。


 「いやー、楽しかったね。加藤くんはファンクギターなんかも齧っていたのか」


   花木さんが馬鹿に明るい声でそう言った。


 「花木さん、あなたは一体何者ですか?」


   俺は絞り出す様にそう言った。


 「加藤くん、技術は申し分ないけど、もう少しリズムキープを意識しなさい。その上で初めてグルーヴが生まれる」


    花木さんは俺の問いには答えず、笑いながらそう言った。








 それからと言うもの、仕事中、我々は事務的な会話以外は一切話さないが、毎週金曜日になると仕事終わりに楽器を持ち寄りスタジオに入るのだった。


 毎回、セッションで曲が終わるたびに花木さんが俺のギターに関してアドバイスを送る。そうする事で、俺のギターはみるみるうちに上達して行った。何かに打ち込み、上達すると言う感覚が久しぶりでとにかく楽しかった。


 まるで、周りに秘密で社内恋愛をしている様だ。相手は五十のおじさんだけど。


 


 「加藤くんはどうしてバンドをしようと思ったんだい?」


   ある日の練習終わり、会計を済ませた俺たちはフロントの椅子にもたれながら缶コーヒーを手に持ち談笑していた。


 「笑いませんか?」


 「誓って笑わないよ」


   「高校の頃、好きな女の子にラブソングを送って告白しようと思ったんです」


   「えー、素敵じゃないか!オリジナルかい?」


 「はい、自分で作詞作曲した歌をね」


 「それでどうなったの?」


 「付き合えましたよ」 


 「すごい!!!いい話だなー、青春だなー」


 「まぁ、五年付き合って別れちゃいましたけどね。社会人になって忙しくなってすれ違っちゃって」


 「加藤くんは後悔してないのかい?」


 花木さんは俺の顔を見据えて言った。


   「そりゃ、落ち込みましたけど、仕方ないですよ。よくある話でしょ?」


   「もう一度、彼女に会えたらなんて言いたい?」


   「別に、何もないですよ。言いたいことなんて」  


  「未練はないんだね」


  「ええ、ないです」


  「そうだといいけど、もし違うなら」


 「違うなら?」


 「一生後悔するよ」


   いつも和やかな花木さんがその時は真剣な表情をして、俺の顔を見据えて来た。


 俺はバツが悪くなって、目を背け、缶コーヒーを口に運んだ。








 三年前の夏、俺と香織は花火を見上げていた。


 香織は切長な目を更に細くさせて夜空の花火を凝視していた。


 ねぇ、と香織は花火から視線を切らずにつぶやく。


「どうした」


「別れよっか」


 その言葉にどう返したらいいか分からなかった。


 社会人になって数ヶ月が経ち、俺と香織の間にはなんとも言えないズレが生じていた。


 学生時代はなんでも彼女の事が理解できたのに、働き出すと、一体彼女が何を考えているのか、まったく分からなくなった。


 最初はきっと一緒にいる時間が短くなったからなのだろうと思った。だから、同棲をしようと彼女に提案したのが社会人一年目の冬。


 そして、社会人二年目の春に同棲を始めた。


 しかし、よくなるどころか悪くなる一方だった。


 香織は昔の様に笑わなくなった。


 でも、どうして笑わなくなったのか全く俺には理解できなかった。


 俺は彼女を幸せにしたかった。だから、一生懸命仕事をしたし、夜遅くまで歯を食いしばって働いた。


 なのに、益々彼女との距離は遠くなっていく。


 二人でいるのに孤独感が募って行った。それは一人でいる孤独よりも苦痛だった。


 そして、社会人二年目の夏、俺たちは花火大会に行った。


 行こうと言ったのは香織からだった。


 学生時代は二人で毎年行った花火大会。そこに行けば昔の二人に戻れるのではないか、そう思った。しかし、そこで別れを告げられたのだった。


 どうして、と俺は彼女の顔を見つめて言った。


 「昔はさ、音楽とか、漫画の話、よくしてくれたよね、あれ、好きだったな」 


 彼女は俺の問いには答えずそう言った。


 「今でも、俺は香織が喜ぶのならいくらでもそんな話するよ」


 「好きだったのは話の内容じゃなくて、好きな事を語るあなたの顔なの」


 「俺はどうしたらいい?好きなんだ。一緒にいたいんだ」


  「私も好きだよ。だからツライの。このままだとお互いのこと傷つけあっちゃう」


 「だから別れようって言うのか」


 「それが最善だから」


 「香織・・・」


 「花火、綺麗だね」


    そう言った香織の頬を涙が伝っていった。


    俺が何より許せなかったのは、そう言われた時、少しだけほっとした自分自身だった。


    その二ヶ月後、香織は部屋を出ていき、部屋が少し広くなった。


 彼女の事を二度と思い出さない様に、きつくきつく重りを思い出に巻いて記憶の海に沈めた。


 それでも彼女の事を思い出してしまう日々が続いた。


 香織、猫の様な切長の目とシルクの様な柔らかい髪。二人で行った遊園地、部屋で一緒に見た下らないテレビ、狭いベッドで二人で初めて寝転んだ日、そして思いを伝えたあの日の下手くそなギターと歌。


 そんなことを考えていると、胸が苦しくなる。苦しくなってどうしようもなくなる。


 携帯を手に取り、香織の名前を探す。メッセージを書く。何を?何を言えばいい。俺は空白の携帯を手に持ったまま石のように動けなくなる。全ては過ぎ去ってしまったのだ。もう彼女は二度と戻ってこない。


 本当に?それでいいのか俺は。何かを彼女に言いたい。でも言葉が出てこない。


 そうやって、朝まで眠れずに悶々とした日々が続いた。


 このままでは寝不足で仕事に影響が出る。俺は仕事に打ち込むことで彼女を忘れようとした。なんてことはない。社会人になってすれ違って別れる。よくある話だ。


 そして、彼女と別れて一年が経ったある日、彼女のことをすっかり考えなくなっている自分に気がついた。


 俺は大人だから香織の事を忘れた。それでよかったのだ。

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