第176話 セシルの不安

「え?セシル?」


慌ててハンガーに掛けておいたガウンを羽織ると、扉を開けに向かった。



カチャ……



扉を開けると、車椅子に乗ったセシルがすぐに声を掛けてきた。


「悪い、寝てたか?」


「いいえ、寝てないわ。本を読んでいたのよ」


「そうなのか?……部屋に入ってもいいかな?話があるんだ」


「ええ。どうぞ」


一瞬躊躇ったが、車椅子でわざわざ部屋を尋ねてきたセシルを無下に追い返すことな出来なかった。


「ありがとう。それじゃ入らせてもらうよ」


セシルは微笑むと、車椅子を自分で漕ぎながら入ってきた。



パタン……


扉が閉じられ、その時にふと気付いた。

セシルの身体から微かなアルコールの臭いが感じられた。


「セシル、もしかして…お酒を飲んでいるの?」


「あ?ああ…ちょっとワインをな……」


確かセシルはあまりお酒は強くなかったはず。なのに何故……?


「大丈夫なの?怪我をしているのにお酒なんか飲んだりして」


「別にそれほど飲んでいるわけじゃないし……飲みたい気分だったんだよ。エルザは…」


「私は無理よ。授乳中だから」


「あ、ああ。そうだよな。ルークに授乳している最中にお酒なんか飲めないよな」


何故かセシルの様子がおかしい。


「セシル…どうかしたの?」


「ん……。実は…ここへ来てから…何か違和感を感じるんだ」


セシルは頭を押さえた。

これは……ひょっとすると話が長くなるかもしれない。


私はソファに座ると、セシルを呼んだ。


「セシルもこっちに来ない?」


「分かった」


車椅子を手で漕ぎながらセシルは私の向かい側にやってくると、ため息を付いた。


「セシル、違和感を感じるって言ったけど…どういうことなの?」


「ああ、それなんだけど……何故かこの離れにいると、胸がざわつくんだ……。俺は本当はここにいてはいけない人間なんじゃないだろうかって、感じてしまうんだ」


「え…?」


「この離れにいると……疎外感を感じてしまう。ここはお前の居場所じゃないって誰かに言われているような気がしてならないんだ」


「セシル…」


ひょっとしてそれは私がここでフィリップと新婚生活を送っている姿を見てきたからなのだろうか?


すると、セシルがポツリと言った。


「エルザ……本当は…俺…平気なふりをしていたけれど、そうじゃないんだ…」


セシルの身体が震えている。


「え…?」


「絶対に忘れてはいけない大切なことがあったはずなのに…それが何なのか少しも思い出せない。だけど…思い出すのが怖くてたまらないんだ…」


それはやはり、フィリップのことなのかも知れない。

ひょっとするとセシルは今、必死で記憶を取り戻そうとしているのだろうか?


「セシル…大丈夫?」


するとセシルが苦しげに訴えてきた。


「助けてくれ…エルザ…。俺は怖いんだ……このまま大切な記憶を一生失ったまま、生きていかなければならないんじゃないかと思うと……」


私は立ち上がり、セシルの肩に手を置いた。


「セシル、きっと記憶は戻るわ。だからそんなに不安がらないで?」


「エルザ…ありがとう……」


セシルは私の手に自分の手を重ねてきた。


だって私は知っている。フィリップとセシルはとても互いを思いやっている兄弟だったのだから――。



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