48――寮でのお茶会と事の結末


 頭をカッカさせたままの洋子さんに引きずられて、その日は寮へと戻ってきた。珍しくユミさんが学校の制服のままリビングでくつろいでおり、そのすぐ傍では真帆さんと菜月さんが駄弁っている。帰宅の挨拶を済ませた後でその中に混ぜてもらい、せっかくなので今日の出来事を話して感想を聞いてみた。


 ユミさんは『面白そうな役だね』と楽しそうに言った。この3人の中では一番年下なんだけど、舞台の出演経験が多いからどちらかというと女子よりも役者としての感性を優先しがちなんだと思う。そして年上のふたりは断固洋子さん支持だった。曰く、小学生の女の子を大人の男の人と短期間でも同棲させるなどありえないとの仰せだった。


「でも多分だけど神崎監督もバカじゃないから、万が一があった時にすみれを守るための監視スタッフぐらいは用意するつもりだったんじゃないの?」


「えー、でもこんなバカみたいな事を言い出す人だよ? そこまでちゃんと考えてるかなぁ」


 菜月さんの言い分も真帆さんの言い分もそれぞれにありえそうで、私としては苦笑を浮かべるしかない。希望的観測で言えば菜月さんの予想を推したいんだけど、監督は中村さんの事を信頼しているみたいだったしふたりっきりで同居させるつもりだったんじゃないかなという真帆さんの言葉も否定できない。


 何にしても現時点ではここで話していても答えは出ない、監督としても数年掛けて準備してきた映画をこのまま終了させたり、今からキャスト変更したり手間を掛けるつもりもないだろう。洋子さんも色々不満が積もり積もっていたとは言え、あの態度は社会人として褒められる物ではなかった。両方に非があるのだから、おそらく近いうちに話し合いの場がもたれるのではないだろうか。


 私の気持ちとしては面白そうな役だし、恐らくこの日本で主人公の気持ちを正確に理解できるのは私だけだという自負もある。前世が男だったなんて記憶があるのは多分自分だけだし、女児として目覚めた時の衝撃や戸惑いはおそらく一生忘れないであろう程に心に刻まれている。私は前の人生が途切れて新しい人生のリスタート時点だったから、異性である事に関して開き直りさえすれば生きていくのに周囲への説明とか戸籍をどうするかとかそういう苦労はしなかったけれど、この映画の主人公はそうじゃないもんね。人生の途中で性が変わるってすごく大変だろうし、戸惑いとか葛藤とかを全部引っくるめてどうすればうまく表現できるかどうか挑戦してみたいと思う。


「すみれ、つーかまえた。今日の事について、ちょっと話を聞きたいんだけどいい?」


 そんな事を考えていると、ふんわりと柔らかく後ろから抱きしめられた。声を聞いて愛さんだと言うのはわかるんだけど、さっきまでいなかったのにいつの間にリビングに入ってきたのだろう。


「愛さん、私達も今その話をすみれから聞いてたところだから、混ざったらいいよ。ちょっと待ってて、お茶入れてくるから」


 ユミさんがすばやく立ち上がって、そう言うとキッチンの方へ歩いていく。本当なら一番年下の私がお茶を入れに行かなきゃいけないんだけど、愛さんにギュッとされてるので身動きが取れない。申し訳なく思いながらも、柔らかい愛さんの体に身を預ける。背中から伝わる愛さんの暖かさにほっこりしていると、その間に真帆さんが私がした話を愛さんに伝えてくれていた。若干真帆さんの私情が入っている説明だったけど、内容は概ね間違ってなかったからそのままスルーしておく。


「でも愛さん、なんで今日の事を知ってるんですか?」


「あずささんから連絡をもらったの。今日は仕事の後で事務所で打ち合わせだって聞いてたから、ちょうどタイミングが合ったのね。戻ってきた洋子から報告を受けて、その話に齟齬がないかどうかとすみれがどうしたいのかを確認しておいてちょうだいって。トヨさん経由でさっき聞いたばかりよ」


 行動早いなぁ、あずささん。私が感心していると、紅茶が入った人数分のカップをトレイにのせてユミさんが戻ってきた。それぞれの前にカップを並べてくれたユミさんに小さくお礼を言うと、彼女は『いいよいいよ、その状態じゃすみれは動けないでしょ』と言って小さく笑った。愛さんに抱っこされてぬいぐるみ状態になってるもんね、私。


 ユミさんが先程まで座っていたクッションに座り直すのを見ていると、愛さんが私をその両腕から解放して隣に座った。ようやく自由になったので、淹れてもらった紅茶で少しだけ乾いていた喉を潤す。


「中村さんねぇ、何度か一緒に仕事した事があるけど、そこまで言動に棘はなかったわね。多分自他ともに認める神崎監督のファンだから、彼に期待されているすみれの事が気に入らなかったんでしょ」


「小さい男だよね、すみれは気にしなくていいからね」


 愛さんの言葉にうんうんと頷きながら、笑顔でそう言う真帆さん。小さいって言葉は男にとっては色々な意味でグサッとくる言葉だったりするんだけど、女性にはあんまりそういう意識はないのかな? 私も中村さんの態度にはイラッとしたから、擁護するつもりは全然ないんだけどね。


「それで、すみれはこれからどうしたい?」


「もらった役もシナリオも面白そうなので、映画にはそのまま参加したいです。あと神崎監督の言いたい事はわかるんですけど、期間限定であっても中村さんとの同居は絶対にお断りです」


 私は両手の人差し指をクロスさせて、小さくバッテンを作りながら愛さんに言った。本気で嫌ってる訳じゃないんだろうけど、でも自分に対してチクチク嫌味とか言ってくる人と一緒に暮らすとか神経がすり減りそうな事はしたくない。これは絶対に譲れないラインだ。


「そりゃそうよね、というか同居についてはあずささんが絶対に許さないから大丈夫。じゃあ逆に、すみれが譲ってもいいとしたらどの辺りまで許せる?」


「うーん、週に1回くらい中村さんにお会いしてお話するぐらいならいいかな? あと演技にリアリティを出すために中村さんの仕草とか発音の癖を真似るのは私も賛成なので、空き時間に以前中村さんが出演したドラマとかを見て勉強するつもりです」


 上から目線と言うなかれ、小学生の私が自発的にできる事なんてこれくらいしか思いつかないのだ。ただ中村さんも人気俳優だから、スケジュールを空けるのも一苦労だろう。ドラマを見て自主練しつつ、撮影が始まってから中村さんと会話したりして差を埋めるのが一番いいのかもしれない。


 そんな事を思いつつ愛さんに提案すると、彼女は『それじゃ、すみれの希望として伝えるわね』と頷いた。ついでにあずささんに『あんまり洋子さんを叱らないであげてほしい』と伝言してもらう事にした。あの対応は社会人としてはダメダメだったとは思うが、おそらく洋子さんとしてもこれまでの不満が積み重なっていてそれが爆発してしまったのだろう。


 この時代はあんまりコーチングとかも世に知られてなくて、上司が部下をボコボコに凹ませて根性で這い上がってこいみたいな指導方法が多かった様な気がするから、洋子さんがそんな風に責められていないかすごく心配。あずささんはそんな風には怒らないだろうけど、他の上司の人はわからないもんね。下手したら映画に主演する話が無くなるかもしれないのだし、事務所の上の人達にしたら気が気ではないだろう。その苛立ちが洋子さんに向かうかもしれないもんね、やっぱり心配。


「優しいね、すみれは。もういい大人なんだから洋子が自分でちゃんとするだろうし、心配しなくていいよ」


「ううん、違うんです愛さん。わたし、芸能活動をするのに洋子さんがいないと何もできないから。だから洋子さんを心配するのはある意味自分のためというか」


 洋子さんを心配するのはあくまで自分のためなんだよって、決していい人ぶってる訳じゃないんだよと言葉を重ねれば重ねるほど、隣の愛さんの目が優しくなって頭を撫でられたりしていたたまれない。その後愛さんが電話をするために退室したので、結局私が優しい子だという誤解は訂正しきれずに有耶無耶になってしまった。他の3人もなんだか温かい目で私を見ている様な気がして、私は恥ずかしくなって足早にカップを片付けた後に自分の部屋へと引っ込む事にした。


 数日後、あずささんのレッスンの休憩中に事の顛末を聞いた。当たり前の話だけど私と中村さんの同居の話は立ち消えになり、神崎監督と洋子さんがお互いに頭を下げ合って手打ちになったらしい。


 神崎監督としては私に最高の演技をしてもらいたくて、予想していた通りそれ以外の問題点にまったく目が向いてなかったらしい。監督らしいといえばそれまでだけど、熱中するとそれだけに一点集中するのは直してほしいかな。よくよく考えると私が最初に受けたオーディションの時も、仕事放り出して私をスカウトしたんだもんね。そういうある意味でフットワークが軽すぎる監督を補佐できる、ちゃんとした大人の人が必要なのかもしれない。


 洋子さんも翌日には私のところに謝りにきて、コメツキバッタの様にペコペコと頭を下げていた。意を決した私が抱きついてなんとかペコペコは止まったけど、その後私と目線を合わせる様にしゃがんでぎゅっと抱きついてきた洋子さんとしばらく抱き合っていて、周りの人に痛いくらいに注目されたのはちょっと辛かった。でもそんな私の慰めあってか、体を離した時にはもう普段のパワフルな洋子さんに戻っていて私はホッと安堵のため息をついた。


 ここからは私の独り言だけど、今回はうまく修復されたけど最悪の場合は映画の話がポシャっても仕方がないと思っていたんだよね。ひとりの演技者としてあの役は演じてみたかったけど、映画ではずみをつけなくても私がコツコツと下積みして知名度をジワジワと上げていけば、きっと役者という職業には就けると確信しているから。むしろあずささんや事務所に手厚いバックアップをしてもらっているのに、結果が出せないなら夢を諦めた方がいいとすら思っている。


 ただ私という存在が起こすバタフライエフェクトで、時期がズレたとしても必ず日本経済にバブル崩壊というイベントは起こるだろうから、今回の映画出演の話が継続になったのはそういう意味ではありがたかったのかもしれない。前世の平成末期なんかでも、テレビでは中国の不動産バブルがはじける寸前だとか既にはじけたとかコメンテーターがワーワーと論戦を繰り返していたからね。ずっと好景気が維持されるなんて事はありえないだろう。


 バブルがはじけて不景気になったら、当然ながら芸能界でもギャラが安くなったり仕事が減ったりという悪影響が出てくる。映画に主演できるという事は、その悪影響が出てくる前に知名度をアップできるしギャラだって不景気になる前だからたくさんもらえるし。今後の学費の蓄えに大幅な足しになると考えると、やはり今回の話が継続になったのはよかったんだと思う。素直に喜ぼう。


 あずささんも資産運用で不動産に手を出してたみたいだけど、私が子供らしく『これから日本の人口が減り続けるって授業で習ったんですけど、そうなると土地が余り始めて価値がすごく下がるって本当ですか?』とか『金とかならすごく価値が無くなる可能性は少ないって先生が言ってました』とか時々思い出した様に言っていたら、あずささんもなにか思うところがあったのか別の理由からか色々と資産を整理したらしい。前世で経済の専門家でもなかった一般人の私では、これくらいの介入しかできない。少しでも役に立てればいいんだけど、師匠であるあずささんが借金漬けになるとかそんな事態はできれば見たくない。


 レッスンの後でリビングのテレビに映し出される、3万円を境に上下する日経平均株価を見ながらぼんやりとそんな事を考えていたんだけど、どういう状況になっても私にはどうしようもないけどね。そんな途方も無い事よりも、目の前にある事を考えよう。今日のレッスンであずささんに渡されたビデオカセットをデッキにセットしながら気分を切り替えるのだった。

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