35――なおとふみかともうひとりからの手紙
プールの様子が上から眺められるガラス張りの観覧席に座って、ぼんやりと泳ぐ子供達を眺めていた。しっとりと水を吸って湿っている髪から少しでも水分を吸ってもらおうと、ショールの様にキャラ物のタオルを首に掛ける。
ピアノと水泳のレッスンを受け始めて早1ヵ月、いつの間にか季節も秋から冬にと移り変わろうとしている。自分ではよくわからないけれど、それぞれの先生に聞くと進捗状況は順調らしい。
私としても仕事として受けているので、やる気や授業を受ける姿勢は親にイヤイヤ連れてこられている子供と比べると段違いだと自分でも思う。寮で聞いたらユミさんの従姉妹の家に使ってない電子ピアノがあるとの事で、連絡を取ってもらって譲り受ける事ができた……しかもタダで!
ユミさんの叔母さんは『粗大ゴミに出すのもお金がかかるからね、引き取ってくれるだけで嬉しいわ』って言ってたから、ついお言葉に甘えちゃった。洋子さんに車を出してもらって、無事に寮の自室に設置する事ができた。取り外しができる足もついているので、椅子に座ってピアノと同じ姿勢で弾く事ができる。ちょっと鍵盤がギシギシするけれど、それもご愛嬌だ。イヤホンジャックもあるから、寮の皆にうるさい思いをさせずに済むからありがたい。
週に2回、ピアノの先生には新しい課題を出してもらうのと並行して、前に出した課題をしっかりできているかをチェックしてもらっている。あと、自分だけでやってると姿勢とか弾き方が段々自己流になって乱れていく事も考えられるので、基礎の部分もしっかり見てもらう。
「……なんていうか、すみれちゃんはストイックだね。なかなか小学生でここまで言われた事をしっかり練習して自分のモノにしてから、レッスンに来てくれる子はなかなかいないよ」
琴音先生は驚きつつも嬉しそうにそう言って、私の頭を撫でてくれた。私もそんな風に褒められると照れちゃうんだけど、中身は大人だからね。指導してもらっている以上、しっかりとやらないと。
まだまだ初心者の域を出ないけど、このまま続けていけば他の子供達と遜色なく上達していくだろうと言われて、ますます頑張ろうとやる気を燃やす。ただ頑張りすぎて指を痛めてしまうといけないので、長時間の練習は控えるように釘を差されてしまった。あと指を柔らかくして動かしやすくするストレッチを教えてもらって、毎日欠かさず行っている。
そしてお先真っ暗かと思われた水泳も、現在はなんとか泳げるところまで漕ぎ着けていた。前世では人並み以上に泳げていた事もあり、浮く事さえできれば感覚は覚えているので泳げるのだ。しかしそのただ水に浮くことがなかなか難しかった。指導員のお兄さんに胸とお腹の下に両手を差し入れてもらい支えられ、私はまっすぐに体を伸ばして足をバタバタとバタ足させる。
体への力の入れ具合とか体の伸び具合とか、お兄さんと試行錯誤してようやくコツを掴むまでに3週間が掛かった。しかし一度浮かぶことができれば、スイスイと泳ぐことができた。しかしちゃんと水泳を習っていたのは前世の小学生時代、正しい泳ぎ方から崩れている可能性がある。
なので週に1回、お兄さんに指導してもらってキレイに見える泳ぎ方を練習している。映画の撮影で泳ぐらしいからね、多分現場でも指導してくれる人はいるんだろうけど、今のうちに体に覚え込ませておいた方がいいだろう。
この1ヵ月のあれこれを思い返しながらぼんやりとしていると、横から『おまたせ、すみれ』と声が掛かった。迎えに来てくれた洋子さんが、手を挙げながら近づいてくる。
なにやらからかう様な笑みを浮かべて隣に座った洋子さんに、私は小首を傾げる。
「気付いてない? さっきからチラチラと男の子達がすみれに見蕩れてたわよ、あんまり魅力を垂れ流して変なヤツに目をつけられたりしないでよね」
私からすればそんな物を垂れ流した覚えもないし、酷い言いがかりだと思いながら周囲を見回すと、目が合った同い年ぐらいの男の子が慌てた様子で私からサッと目をそらした。そして彼はおもむろに立ち上がると、観覧席から足早に出ていってしまう。別に追い出すつもりはなかったんだけど、なんだか悪い事したかなと罪悪感を覚えた。
「すみれは歳に似合わない色気があるからね、あれくらいの同年代の男の子なら多分イチコロよ」
「……そんな事言われても」
そもそも元男としても、現女としても立ち位置が中途半端な自分が恋愛なんかできると思ってないし、その対象が男女どちらになるのかなんて未だに想像もつかない。つまり自覚はないが、そんな能力があるのだとしたら宝の持ち腐れでしかないのだ。むしろもっと役に立つ能力が欲しかった、楽器の才能とか運動神経とかね。
私がしょんぼりした理由をどう勘違いしたのか、洋子さんが『大きい目がぼんやりと遠くを見ていてトロンとしてるところとか、頬がほんのり朱に染まってドキドキさせられるところとか、ぷっくりした唇から小さくため息が零れるところとか、気怠げな表情が男から見たらすごく淫靡……えっと、エッチな感じに見えるものなのよ』と明後日の方向の励ましをくれて、私はモヤモヤした気持ちを吐き出す様に大きなため息をついた。小学生の女の子にエッチな感じだよっていうのは絶対褒め言葉ではないと思う、前から思ってたけど洋子さんの感性はちょっと変だよ。
車に乗り込み脱力感にまかせていつも通り後部座席のフカフカな背もたれに体を預けながら、忙しさにかまけてこれまであまり考えない様にしていた自分の体の変化について考えを整理することにした。
同年代の子より痩せてて背が小さいのは変わらないが、最近胸の先がチクチクと痛痒い事がある。お風呂の時に触ったり観察したりするのだけど、乳頭のあたりが少し膨らんできてる様な気がするのだ。
前世では太っていたので胸も相撲取りみたいに膨らんでいて、自分の体が変化する事に恐怖を覚える人もいるらしいが、私は特にそう言った感情はない。ただ今後身長が大幅に伸びるのかどうかわからないので、体に合った感じで膨らんでくれたらありがたいなぁと願うばかりだ。
胸が大きくなると下着もなかなか合うサイズが売ってなくて、可愛いデザインの物も全然ないって言うもんね。ささやかで平均的なサイズを希望します。
まぁそんな事言ってても、ほとんど膨らまずに丸みを帯びるだけっていう場合もあるらしい。前世で聞いていたラジオで小柄な声優さんが『大人になったら勝手に背が伸びて胸が膨らむものだと思ってたら、どっちもなかったんですよね』と驚いたエピソードとして披露していた。笑い話っぽく話していたが、本人的には色々と葛藤があったんだろうね。
そんな事をボーっと考えていると車の揺れと水泳の疲れが合わさって、いつの間にか眠りの世界に落ちていた。わかんない事を考えても仕方ないや、あるがままを受け入れようっと。そんな事を意識が眠りに落ちる前に思った様な思わなかった様な。
30分もせずに寮に到着し明日以降の予定について聞いた後、車に乗って走り去る洋子さんを見送ってから寮の中に入った。その道すがら郵便受けを覗くといくつか手紙が入っていたので、ついでに持って入る。
「これは愛さんので……こっちは菜月さんの。あ、わたし宛のが2通もある」
簡単に仕分けして玄関にある郵便物入れに、私以外の人宛の手紙を入れておく。帰ってきたらそこから自分宛の手紙を持っていく流れなんだけど、仕事のない日は私が一番帰宅が早いので、郵便受けからここに手紙を移動するのは殆ど私の役目になっている。
手紙を持って部屋に戻り、早速手紙の差出人を確認する。可愛らしくデフォルメされた羊の絵が描かれているファンシーな封筒は、なおとふみかからだった。ふたりは頻繁に手紙をくれるんだけど、切手代やレターセット代は自分達のお小遣いで出しているので、節約のために合同で送ってくるしっかり者だ。ハサミで封筒の端を切って中身を見ると、便箋2枚と写真数枚が入っていた。
へー、遠足であの公園に行ったんだ。クラスの集合写真が1枚と、なおとふみかのツーショット写真が1枚。他のクラスメイト達と一緒に遊んでいる写真が1枚、集合写真はすまし顔だが他の2枚は皆笑顔で楽しそうだ。私がいなくてもうまくクラスに溶け込めている様でよかった、夏に会った時に聞いたけど今年は同じクラスなんだよね。
手紙の内容はあちらの近況報告と私を心配してくれている事が大半で、残りは寂しい・会いたいと言葉を変えてたくさん綴られていた。それを見てじわりと目頭が熱くなるけど、現実問題として関西への帰省はちょっと難しい状況なんだよね。ピアノの練習もあるし、もらった電子ピアノは持ち歩ける大きさじゃないしね。
かと言って、ふたりにこっちに遊びにおいでよとはおいそれと口にはできない。お金が掛かる事だし、おばさん達にも付き添ってもらわないといけないから負担がかかるもんね。私にできる事はとにかく時間を見つけて手紙を送ったり、電話を掛けたりしてふたりと繋がり続ける事だけかな。事務所にビデオカメラあるらしいし、借りられるなら1週間に1度ぐらいビデオレターを撮って送るのもいいかもしれない。手紙や声だけよりも、姿が見える方がふたりの寂しさも紛れるかもしれないし……まずは洋子さんに相談してみようっと。
そしてもう一通はよくある白封筒で、差出人を見てびっくりした。だってこっちにきて1年ちょっと経つけれど、まーくんから手紙をもらうなんて初めてだったから。おばさん達に何かあったのかな、それだったら母から何かしらの連絡がくるはずなんだけど。
同じ様に封を開けて、中身を確認する。挨拶文なんかに使う様な無地の便箋が出てきて、多分おばさんかおばあちゃんにもらったんだろうなと微笑ましくなる。まーくん、ほとんど手紙なんか書かないもんね。前世の私もそうだったけど、基本的に男は筆不精だ。
こちらも近況報告から始まって……なるほど、前世と同じ様にまーくんは吹奏楽部に入ったんだね。実は前世で私が吹奏楽部に入部したのは、定期演奏会でまーくんがトランペットを吹いているのがすごくカッコよかったからだ。自分もそんな風に吹いてみたいと思ってたんだけど、いざ入部してみたら体が大きい事と人数不足がうまくマッチングしてしまって、重くて運び辛いテューバパートに配属されてしまった訳だけど。
ちなみにテューバというのはユーフォニアムを2倍ぐらいの大きさに拡大した様な楽器で、低音がお腹にズシンと響く縁の下の力持ちだ。地味な感じにリズムを刻んでいるので譜面もそんなに面白みがないし目立たないのだが、この楽器を吹いていたおかげでリズム感が養われたし、その経験は現世の私にも活きているのでやっててよかったなーと思う。
ピアノでも琴音先生に『すみれちゃんはリズム感がいいわね』って褒められたりするからね、テンポだって走らないし遅れないので、ピッタリな感じに合わせる事ができる。
私の事はさておき、まーくんは前世と同じ様にトランペットパートに配属されたらしい。練習や上下関係が厳しいけど、なんとか頑張っているそうだ。サラッと書いてるけど、キツくて辛いんだろうなというのは伝わってくる。でも私という妹分に愚痴るのもカッコ悪いし、見栄を張ったんだろうなと思うとすごく微笑ましい。
それから私の体調を心配する言葉が続き、残りは全部お風呂のおもちゃCMに対するクレームだった。やれ小学生とは言えテレビで裸同然の格好をするとは何事だだの、東京で変な事をさせられてるんじゃないのかだの、お前は私の父親かと言いたくなるくらいの小言がズラズラ並んでいた。まぁ父親ではないにしても、お兄ちゃんみたいな関係なので心配してくれるのはありがたいんだけどね。でもあれからもう1年ぐらい経っているのに今更言われても困るし、仕事なんだからどうしようもない。
多分この1年モヤモヤしながらも、私に手紙を送るタイミングが掴めなくて鬱憤が溜まっちゃったんだろうね。前世の自分も通った道とは言え、思春期の男の子は本当に面倒くさい。
夜ごはんの前に返事を書いちゃおうかなと思って、一応他に何か入ってないかとまーくんの封筒を逆さに振って確認する。すると小さく折りたたまれた紙片が、ポロリと机の上に落ちた。不思議に思いながら拾って広げると、そこには『辛かったらいつでも俺に言って来い、迎えに行くから』と書かれていた。この寮にはお姉ちゃんはたくさんいるからベタベタに甘やかされてるけど、たまにはこういうぶっきらぼうなお兄ちゃんのさりげない優しさみたいなのもいいなと思う。なんだかこう……キュンと来た。
『もしかしたら私ってチョロイのかもしれない』と思いながら、引き出しから出したレターセットの便箋にペンを走らせるのだった。ちょ、チョロくないよ、ホントだよ。
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