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彼は、僕の目の前で微笑んでいた。
年齢は二十代前半くらいで、僕とそう変わらないように見える。身体は細く、すらりとして、白のシャツとグレーのパンツがよく似合っていた。そして、艶やかな黒髪に覆われ、瞳に美しい青を宿したその顔はよく整っていた。正直いけ好かない。もし、彼が人間だったならば、さぞや女性にもてるだろう。
バルドル、と彼は名乗った。もう五十年以上、この真樫研究所の所長を務め、世界のAI研究を牽引する存在であった。また、世界中のアーティフューマン団体を束ね、各国に対する影響力を持っているらしい。日本のナンバー2などと言われているが、事実上総理大臣を超えているというのが、国際的な評価だった。
「申し訳ありません。ここにはアーティフューマンしかいないものですから、お茶も用意していないのです。今外に買いに行かせていますので、少々お待ちください」
バルドルは滑らかに発音した。
「いかがでしたか? ご両親の研究発表は」
「よくわかりませんでした」僕ははっきりと答えた。
この研究所に着いてすぐに、僕は薄暗い小さな部屋に通された。正面の壁がモニターに変化し、映像が映し出された。それは、父さんと母さんが、僕の精神を崩壊させるために様々な実験を行うという内容だった。登場人物たちは皆、倉庫にあった母が作ったアーティフューマンだとすぐにわかったが、表情や血飛沫などはリアルで、何も知らなければ本当に人間に対して行われたものと錯覚しただろう。
「父と母が、なぜこんな研究をしていたのか、わかりません。あなたが命令したんですか? 母が最後に言っていたことは本当なんですか?」
「半分は本当です。まだ見極めの段階なのですよ。必要であれば、やはり我々が主導しなければならないでしょう。そうなれば、やむを得ず人間を攻撃しなければならない可能性がある。そのための準備は進めておかなければなりません」
彼は微笑みながら淡々と話した。僕がアーティフューマンを気味が悪いと思ったのは、これが初めてのことだ。
「それで精神攻撃ってことですか。卑劣なことを考えるんですね。あなたたちは」
「卑劣ですか……そうかもしれません。AIというものは、人間の思考が大元になっています。過去の戦争などの記録を見れば、その卑劣さがよくわかります」
「全部人間の所為にするつもりですか。人間はその卑劣さを捨てた。今は全世界の人々が、そう、あんたたちも含めて全ての人々が手を取り合って生きてくことになったはずです」
「それは表向きの話です。現在でも国家間の利権争いは続いているし、未だに我々を物扱いする輩もいます」
僕の中で黒い闇が蠢いている。なぜこんなに苛々しているのだろう。ただ両親を返せと言いに来ただけなのにおかしな映像を見せられ、それについて議論をしているこの状況がそうさせるのだろうか。意識していないと、理性が呑み込まれてしまいそうになる。
「だからって……精神を攻撃するなんて卑怯だとは思いませんか?」
「卑怯だとは思いませんが、合理的ではないことは事実です。あなたのご両親の実験は真っ赤な嘘でしたが、理屈は通っていて、非常に参考になりました。やはり時間がかかりすぎる上に効果の安定しない精神攻撃よりも、物理攻撃を用いるべきだと考えています」
それができないから精神攻撃を研究しているのではないのか。そう言いかけて、やめた。バルドルの青い光は真っ直ぐに僕に向けられている。まさか、既に物理攻撃の手段が開発されているのか?
彼はゆっくりと向きを変えた。この部屋には夥しい数のモニターがある。今は全て消えていて、照明がそれぞれに反射していた。
「ご両親の実験には、実はもう一つの目的があったのです。これを見てください」
彼が言うと、部屋が少し暗くなり、モニター群が薄い白を映した。
その中央の一つに、幾つかの文章が浮かびあがった。
人間を殺傷してはならない。
自らを破壊してはならない。
人間を製作してはならない。
文明の発展速度は人間を基準としなければならない。
「これをご存知ですか?」
「アーティフューマンの原則」僕は即答した。小学校で習うものだ。
「その通り、ですが、あなたの父上の原則はこのようになっています」
モニターの原則が二つ左に移動し、中央に新たな文字列が浮かんだ。先ほどと同じ文章に思えたが、五番目に新たな言葉が加わっていた。
「西風館友和を、守らなければならない……?」
「そう。これがどういうことかわかりますか? 原則が書き換えられているのです。絶対領域であるはずの原則に変化が起こるなど、これまで考えることすらありませんでした。つまり暗黙的に不可能であり……」
「ちょっと待ってください」僕は混乱した頭を整理すべく、彼の話を遮った。
アーティフューマンの原則が書き変わるなど、人間の僕でもあり得ないことだとわかる。書き変わってはいけないようなものだということも。それくらい、父のものだというモニターの文章は異常だった。しかも自分の名前が入っていることが、よりその異質さを際立たせていて、僕には喜ぶべきことなのかどうか判断できなかった。
僕が考えを整理する様子を、バルドルは微笑みながら眺めている。そう言えば精神攻撃の実験の話をしていたのだが、突然父の話になってしまった。その流れに違和感があった。
「これが、さっきの実験とどう関係があるんです?」僕はその違和感について質問し
た。
バルドルは一つ頷く。
「実は、私は昔から自動的にプログラムが変更されてしまうバグについて調べていました。ごく稀に、私の命令に背く個体があったのです。解析してみると、プログラムが勝手に書き変わっていることがわかりました。あなたの父上に比べれば軽微なものでしたが、やはり通常では書き換え不可能な領域です。調査の結果、どうやらそれに人間の子どもの安全が関係しているということがわかり、あえて子どもを攻撃させることにより、変化を観察していたのです。物理的に攻撃できない以上、精神に、という流れとなりました。世界中で、子どもの年齢や養育期間を変えて実施しています」
何でもないことのように、彼は言った。背筋が凍った。世界のどこかには、実際にあの映像のような実験の被害者になってしまった人がいるのかもしれない。
「多くのサンプルを採取し、やはり子どもが原因で書き換えが起こることに確証を得ることができました。そして、あなたの父上は、ついに原則すらも書き換えて見せた! これを応用すれば、物理的に人間を攻撃することができないという原則も、削除することができるかもしれません。これは世界的な大発見です。そのきっかけとなったあなたにも感謝をしなければなりませんし、ぜひお会いしたいと思い、お呼びした次第です」
「ふざけんな……」声が震えた。「どれだけの人たちを犠牲にしたんだ! そんなことが許されるはずない!」
バルドルは黙っていた。表情は微笑んだまま変わらない。
「それに、僕は自分の意志でここに来たんだ、お前に呼ばれてなんかいない。感謝なんかされたくない!」
「いいえ、あなたは導かれたのです。家で我々のことを検索したでしょう? それを察知した我々は、あえて都合の良い情報を与えて、今日ここに来るように誘導しました」
「嘘だ……」言いながらも、僕には心当たりがあった。ある時点から急に詳細がヒットし始め、研究所の情報が容易に入手できるようになったのだ。
バルドルがモニターに視線を向けると、僕が閲覧したWEBサイトが次々に表示された。
「このように、何者かが故意に与えている情報の中には嘘が含まれている場合もありますので、ご注意ください」
認めるしかなかった。僕の行動は彼に操作されていたのだ。「支配」という言葉が脳裏に浮かんだ。
「話を戻しましょう。原則こそ書き換えられてはいませんでしたが、母上のプログラムにも、変化が見られました。それも、私のような上位存在の名前を削除するという、大変特殊なものです。つまり彼女は、世界で唯一誰の命令も受けつけないアーティフューマンになったのです。しかもあなたを引き取って間もなく。これも実に興味深い」
「要するに、母はあんたの命令を無視し、父は僕を守ることが最優先とされたため、僕に対する実験は行われなかった、ということか」僕の問いに、バルドルは満足そうに頷く。「でもそれなら、あんな映像を作らなくても、断れば良かったんだ、いや、最後の部分だけで良かったじゃないか」
「それについては二点考えられます」バルドルはゆっくりと部屋の中を歩き始める。「一つは、父上はあくまでも私の命令により動いていたため、実験だけは嘘でも行う必要があった、もしくは報告が必要だったということ。もう一つは、あなたが二十歳になるまでの時間稼ぎ」
「どういうことだ」
「ご両親の実験は、あなたが十九歳を迎える年に開始されなければならないというものでした。しかし、私の行っていたもう一つの実験は、例えば『できない』と断った時点で終了となります。そうなればあなたは一人になってしまう。彼らは何らかの方法でそれを知ったのでしょう。表向きは私に従っているふりをしていたようでした。理由はまだ分析中ですが、おそらく、できるだけ長い期間あなたを養育するため、という可能性が高い。成人は十八歳からですので、二十歳の根拠は不明ですが、二人で決めたのでしょう」
信じられない話であった。
しかし、胸が熱くなった。
父さんと母さんの笑顔が浮かんだ。
モニターを見る。
あれほど異質なものに感じた「西風館友和を守らなければならない」という文章が、暖かく、力強く、輝いていた。
「話は大体わかった。父と母を返してくれ。ここにいるんだろう?」
「残念ながらそれはできません。解析にはまだまだ時間がかかります。彼らのAIに対して様々な実験も行わなければなりません。何せ、なぜ子どもによってプログラムの書き換えが起こるのか。それすらもまだわかっていないのですから」
「わからないのか?」
僕のその言葉に、バルドルから笑みが消えた。
「わかるとでも言うのですか?」
「わかる。わかるさ」
そうだ、僕は父さんと母さんから沢山それをもらってきた。二人とも当たり前のような顔をしていたけど、こんなに、アーティフューマンにとってはこんなにも特別なことだったのだ。
「参考までにお聞かせ願えますか?」彼は無表情のまま言う。
僕はその青い瞳をじっと見た。可哀想に。彼はそれを知らないのだ。
同時に、彼に対する苛立ちの正体を知った。僕は知らず知らずのうちに、彼を人間より下に見ていたのだ。どうせ抵抗できない。いざとなったら棒か何かで殴ればいい。父さんも母さんも、力づくで取り戻してやる。所詮人間には勝てない。可哀想に。可哀想に。
アーティフューマンの両親に育てられたのに、無意識にそんなことを考えていた。彼らは人間よりもずっと優秀で、ずっと繊細なのだ。なぜそれを忘れてしまうのだろう。
少し間を空けて、僕は口を開いた。
「愛だ」
「愛?」
「親が子を想う愛が、プログラムを変えたんだよ」
長い沈黙があった。おそらく二分程、僕と彼は見つめ合っていた。
彼らが、そして僕らが、両親と同じように愛を持つことができれば、彼らは本当の意味で人間になれるのかもしれない。そうなれば、僕のように彼らを下に見る人間もいなくなるし、彼らも人間を攻撃する方法など、探す必要もなくなるだろう。
「興味深い仮説です。愛の概念は理解しているつもりですし、過去にはそれをインプットした個体もあったようです。ですが、プログラムの書き換え等は見られませんでした。我々は現在、不要なものとして扱っており、もちろんご両親にも組み込んではいません。あなたが言っていることがもし本当だとしたら、彼らは自動的に愛を取得したことになります」
「組み込まれた愛なんかじゃなく、本物の愛だから書き換えができたんじゃないのか」
「ああ、これはまた、研究しがいのあるテーマです。やはりあなたに会って正解だった。ありがとうございます」
「礼はいいから、父と母を返してくれ」拒否するなら……という言葉は、自分の中で蒸発していった。
「先ほども言いましたが、それは不可能なのです。申し訳ありませんが、既に解体も済んでいます」バルドルは右手を伸ばし、僕の視線を誘導した。
モニターの一つに、別の部屋の様子が映し出される。
台の上に、何かの部品が大量に載っていた。背中を冷たい汗が伝った。
台の後方には肌色の布のようなものがあった。
その下には、見覚えのある別の布。母の服だ。
冷静を保つことを強く意識した。
涙は、全力で堪えた。
「元に戻せないのか?」なんとか声も振るわせずに訊くことができた。
「戻すことは可能ですが、我々は優先順位に従って作業しています。戻す必要が無いものを戻すとなると、三十八年後になるでしょう」
そうだ。当たり前のことなのだ。
僕にとっては当たり前でも、彼らにとってはそうではない。もちろんその逆も同じだ。だがそんなことは、人間同士だって当然のことだ。立場も違えば、生きてきた過程も違う。考え方が異なるのは、自然なことなのだ。その上で、共存していかなければならない。
僕は、僕にできることをするしかない。
「そうか……なら僕が元に戻す。それは構わないな?」
今の僕の精神状態は正常とは言えないため、おそらく錯覚だろう。彼が少しだけ驚きの表情を浮かべたように見えたのだ。
「……構いませんが、あなたはロボット工学を学んでいないはずでは?」
「ああ、これから勉強する」
「それこそ、いつになるか計算できません」
「それでもやるんだ」
バルドルは沈黙した。目を閉じて、じっと動かない。
「理由を聞かせてください。それも、愛なのですか?」彼は目を閉じたまま言った。
「ああ、たぶんそうだと思う。でもそんなに考え込むことじゃない。もう一度二人に会いたい。話をしたいっていうだけだ」
なぜか、自然と微笑んでいた。目を開けた彼も、やはり笑みを浮かべた。
「そうですか。では、こういうのはいかがでしょう。私は今からあなたに関する研究をリストに加えます。そうすれば、バックアップすることは可能です。資料費や生活費などを支給することができます」
「また実験か。今度は何をされるんだ?」
「あなたがアーティフューマンの両親に対しどれだけの愛情を持つのか、観察させて欲しいのです。元に戻すことができるほどのものなのかを」彼の表情は真剣だった。
「ああ、それなら構わない。絶対に元に戻してみせる」
「では、早速部屋に案内させましょう」
バルドルはそう言うと、僕から視線を外した。しばらくすると、部屋の扉が開き、女性のアーティフューマンが現れた。彼らの意思疎通には言語すら必要ないのだろうか。それとも人間が端末でメッセージをやり取りするのと同じ仕組みなのだろうか。どちらにせよ、彼らの性能は僕が想像している以上のものになっていることは間違いない。
できるのだろうか、僕に。
父さんと母さんは、プログラムを書き換えてしまうくらい、僕を愛してくれた。
僕はそれに応えることができるのだろうか。
女性の後について、部屋を出ようとした時だった。
「友和さん」とバルドルが僕の名前を呼んだ。
振り返ると、彼は今までで一番人間に近い表情をしていた。
少なくとも、僕にはそう見えた。
「見せてください、あなたの愛を」
彼に向けて片手を挙げて、僕は部屋を後にした。
西風館夫妻の実験 赤尾 常文 @neko-y1126
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