3

 昨日のことがあったからか、まだ引っ越して七日しか経っていないというのに、僕が前に住んでいた家は、何だか余所余所しい雰囲気を纏っているように感じられた。今日は黒いワゴン車の姿は無い。玄関は施錠されていたが、鍵はまだ持っている。


 僕は元々スリッパを使わない人間だったが、スーツの男たちが土足で上がり込んだ可能性があるため、同行していた楓と成島に薦めるついでに、自分でも履いた。


 成島を呼ぶことに、楓も賛成してくれた。自己防衛機能により受けた電撃に興味があったようで、会うなり彼を質問責めにしていた。


 成島は今日、木製のバットとゴム手袋三組を持参していた。アーティフューマンの自己防衛機能は、武器を持った人間にはほとんど効果が無いという弱点がある。電撃は流れてもゴム製の手袋などをしておけば防ぐことができてしまう。そのため、愉快犯による破壊事件は未だに無くならない。


 ゴム手袋をつけてバットを持ち、スリッパをペタペタ鳴らしながら進む僕たち三人は、誰かに見られたら即通報されるレベルの不審者だっただろう。しかも、スリッパはわりとふさふさのボアスリッパだった。


 不思議なことに、昨日荒らされていたキッチンは、すっかり綺麗に片付いていた。楓は現場保存がどうのと、一人でぶつぶつと呟いていた。


 足は自然と研究室に向いた。昨日も誰かが話しているような声が聞こえたし、手がかりがある場所として思いつくのは、やはりその場所だった。機械が壊されたり、棚のファイルなどが無くなったり、荒らされている様子は見られない。


 最近はあまり足を踏み入れなかったが、小さな頃はよくここで遊んだ。悪戯をして怒られたし、静かに何かを考えている父や、楽しそうに何かを作っている母に憧れもした。思い出した。紛れもなくここは、僕の家だった。


「すげえ……」成島が呟く。彼は何度か家に遊びに来たが、ここに入るのは初めてだ。「自宅が研究所って、かなり特殊な環境だよな。何だか羨ましいぜ」


「本当よね……難しそうな本ばっかり」


「そうかな」内心少し誇らしく感じていたが、僕はあえてそっけなく言った。


「ねえ、お父さんとお母さんは、どんな研究をしていたの?」本棚を眺めていた楓が振り返って僕に訊ねた。


「父は人間心理学の研究をしてた。アーティフューマンが限りなく人間に近い存在になれるように、ってことだったらしいけど、新型の人たちなんてもうほとんど人間と変わらないじゃん。これ以上研究することがあるのかって思ったよ」


「知ってるか? フラ文の泉って新型らしいぜ」


 成島が言う。フラ文とはフランス文化のことで、泉はフランス文学史の教官である。


「嘘だろ!?」


「あんな癖の強い奴がアーティフューマンだなんてな。もう本当に人間だ何だって言ってる場合じゃないよな」


「で、お母さんは何の研究してたの?」大学の話について行けない楓が焦れたように言う。


「ああ、それは……」ここで、僕はささやかな悪戯を思いついた。「そっちの奥のドアを開けてごらん」


 そこは、母が倉庫として使っていた部屋で、隣にある母の研究室ともつながっている。ロボット工学を専門としていた母が作ったロボットやアーティフューマンが沢山置いてあるはずだ。薄暗い場所で見れば、人間が並んで立っているように見えるだろう。驚いた彼女はどんな顔をするだろうか。悲鳴を上げるかもしれない。若干の罪悪感を抱きながら、僕は待った。


 彼女はドアを開け、中を覗き込んだ。


「きゃあ! 可愛いロボットがいっぱい! アーティフューマンもいる!」


 僕の期待は大きく外れた。どれだけ肝が据わっているのだろう。


「母はロボット工学が専門だったんだ。隣は研究室というより、まるで工場だよ」


「見ていい?」彼女は隣のドアノブに手をかけながら、喜々として振り返る。どうぞ、と僕が言い終わらないうちに扉を開けた。


 楓の歓声が隣室から響いてくる。彼女は機械類にも興味があるらしい。今後その手の博物館にでも誘ってみようか。


「はぁ、これ全部お前の母さんが作ったってことか……もう凄すぎて何て言っていいかわかんねえな」遅れて倉庫を覗き込んでいた成島がため息をついた。「あれなんか、素朴な感じで俺けっこう好みかも」


「え? どれどれ」


 僕が倉庫に入ってまず思ったことは、片付いている、ということだった。以前はもっと乱雑で、ロボットなども重なって置かれていたのだが、今は整然と並んでいる。さらに、アーティフューマンの数が随分減っていた。最後に入ったのは何年も前だったので、ただ単に整理しただけかもしれないのだが。しかし、そのおかげで成島の言う個体も、すぐに発見することができた。天井付近の採光窓からの光に包まれて、黒髪を後ろで一つに縛った女性が物憂げに立っていた。


 僕は壁のセンサーに手をかざして照明を点けた。確かに素朴な女性、という言葉が良く似合いそうだ。服装も地味なものを着せられていた。年齢は二十五、六くらいだろうか。もっと幼いような雰囲気もある。


「こういう子が好みなんだ、成島は」


「お前とはかぶらなそうで安心だよ」


 少し奥の左手にある、母の研究室と繋がる扉が開き、楓が入ってきた。


「いやー、ないねえ、手がかり」


 ここに来た理由をすっかり忘れていた僕と成島は、顔を見合わせた。


「なにじろじろと女の子を眺めてんのよ」


「いや、本当に良くできてるなあと思ってさ。これ全部友和の母さんが作ったんだぜ? すげえよ」


「確かにそうよね……」


 成島のファインプレーにより、楓も頷きながらアーティフューマンを眺め始めた。


「ね、友和……私前から気になってたことがあるんだけど……」


「何?」


「服の下ってどうなってるの? 継ぎ目とか……ちょっと見ていい?」


「あ、それは俺もとても気になります」成島は急に真面目な顔をして手を高く挙げた。


「ダメです。成島君はあっちの男を見なさい。もちろん友和もよ」


「友和は見慣れてるんだろうな」成島が小声で言った。


 確かに見たことはあるが、見慣れているわけではない。作り手にもよるだろうが、母のアーティフューマンは人工皮膚に覆われているため、継ぎ目などは相当注意深く見ないと発見できない。触感も、本物より少し固いくらいだ。


「ほら、あっち向いて!」


 楓の指示で、僕と成島は半回転した。入ってきたドアの向こうに、父の机が見える。父はいつも、あそこで本を読んでいた。


「ごめんね、ちょっと失礼しますよー」


 布が擦れる音の後に、楓の「あぁ」とか「おぉ」とか言う声が聞こえる。


「あれ? え……ちょっと、これ見て」


「はいっ!」成島の反応は早かった。一瞬で踵を返し、楓の隣に移動する。


「どうしたの?」僕はなるべくゆっくりと近づいた。


「ほらこれ、KAEDEって書いてある」


 彼女は女性のシャツを少し持ち上げている。腰のあたりに、確かに文字が書かれていた。掘り込んだものではなく、マーカーか何かで書かれたもののようだった。


「私がモデルってこと?」


「それにしては地味じゃないか? 顔も全然似てないし……」僕はいつも、言ってから後悔する。案の定、楓は僕を睨んだ。


「私が派手だって言いたいわけ?」


「いやいや、楓ちゃんのほうがずっと素敵で可愛いって言ってるんだよ」


 成島のナイスフォローに、僕も頷いた。


「まあそれはそうなんだけどね」彼女は僕から視線を外し、再び女性の腰に目をやった。「ねえ、名前とか書くのって普通なの?」


「いや、初めて見たよ」


「他も調べてみようぜ」そう言うと、成島は素早く隣の女性アーティフューマンに近づく。


「こら待て、女子は私が調べるからね!」


 僕たちは手前から順に調べていった。その結果、何名かの人の名前が書かれた個体と、例えば「銀1」などのように暗号めいたものが書かれている個体があった。結局倉庫内のほぼ全てのアーティフューマンに何らかの文字が書かれており、僕が知らなかっただけで、母にとっては普通のことだったのかもしれない。ただし、人名が書かれたものの中に、僕と成島の名前もあったことは、注目すべき点であった。


「友和、実物よりいい男じゃないの?」


「またそういうことをはっきり言う……」


 確かに、僕の名前が書かれた個体は、これと言って特徴はないが、体のバランスが良く、恰好良く見える。


「少なくとも俺よりはずっといいじゃねえか」成島は少し不満そうに言う。彼の名前はぽっちゃり型で背の小さいアーティフューマンに記されていたのだ。


「結局知ってる名前はこの三人だけだったね。どれも全然似てないけど」楓は僕の名前が書かれた個体の肩を叩いた。「六角とか坊内っていうのは、単に友和が知らないだけで、ご両親の仕事の関係者かもしれないわね。でも銀とか病とかの意味がわからない」


 その時、僕の脳裏に昨日見た車に描かれていたマークが浮かんだ。昔、あれと同じものをどこかで見たような気がする。


「で、どうする西風館。とりあえずここに名前があった人が関係者の中にいないか当たってみるか?」


「そう言ったって、どうすればいいのよ。苗字だけしかわかんないのに」


「まずは西風館の親父さんたちの名前と組み合わせて検索してみる。駄目だったら適当に『人間心理』とか『ロボット工学』とかの言葉もいいかもしれない」


「ああ、なるほどねぇ。成島君ってい……頭いいんだね」


「今、意外と、ってつけようとしたよな」


「し、してないよー」


「まあいいか……じゃ、俺ん家に行って調べてみるか」


 そんなやり取りの中、僕はずっとそのマークについて考えていた。


「どうしたの? ぼーっとして」楓が僕の顔を覗き込む。


「いや、何でもないよ。じゃあ行こうか」


 僕たちは建物から出て鍵を閉めた。空き地のような庭に、小振りなオレンジ色の車が停まっている。楓の車である。中古で、自動運転機能が付いていないため安かったと言っていたが、学生の身分ではなかなか手がでない。彼女は高校を卒業してすぐに働いているため、同い年ではあってもずっと大人っぽかった。但し、運転に落ち着きはない。


 成島の家で様々な検索を行ったが、これと言ったものはヒットしなかった。楓は昨晩のように幾つかの仮説を披露したが、どれも確信できるものはなかった。


 楓は夕方に父親の病院に行くため、帰ることになった。僕も駅まで送ってもらった。車や電車の窓から例のマークを探したが、やはり思い出すことはできなかった。


 おそらく随分昔の記憶だ。子どもだったかもしれない。少し怖いと感じたような気がする。


 はっきりと思い出したのは、その日の夜だった。


 風呂から上がって、リビングのソファに座ろうとした時、キャビネットの上の家族写真が目に入った。僕がまだ小学生低学年の頃のものだ。僕を挟んで笑う父と母を見た瞬間、記憶を覆っていた霧のようなものがすっきりと晴れた。


 それは、確か小学校に上がるか上がらないかの頃だった。夜中にトイレに起きた僕は、暗い家の中を歩いてみたくなった。両親が眠らないのはわかっていたし、所々に補助照明が点いていたので、怖くはなかった。


 それを見たのは、母の研究室だった。そっと覗くと、ベッドに何かが横たわっていた。それは父の上半身だった。そう認識できたのは、そのすぐ傍らに、父のズボンを履いた下半身が立っていたからだ。二つは色とりどりのコードで繋がっていた。断面がこちらを向いていた。銀色に光っていた。その中心に白い箱があり、そこにあのマークが黒で描かれていたのだった。


 母は父の横に立ち、体を触っていた。カチャカチャと音がして、怖かった。僕はそっと扉を閉めて自分のベッドに戻り、布団を被った。その日は眠れなかった。


 その頃には既に、僕は人間で、父さんと母さんはそうではないということを聞いていた。なぜ何も食べないのか、と訊いた時に教えてくれたのだ。その時の僕がどう感じたのかははっきりとは覚えていないが、おそらく「そうなんだ」くらいのもので、さほど気に留めなかっただろう。当時から親がアーティフューマンである子どもは珍しくなかったし、教育番組でも、そのような家族が描かれていた。しかし、その日僕は知ってしまった。人間とは違うということが、どういうことなのか。見た目は同じでも、中身は全く違うのだと。


 朝になるのが怖かった。母は毎朝同じ時間に僕を起こしにくる。


 母に布団を剥ぎ取られた時、僕は泣いていた。


 怖い夢を見たの? と母が微笑み、そうだったらどんなにいいかと思った。


 それでも母の声は優しくて、父の手は温かかった。


 僕は、父さんと母さんが、大好きだった。

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