2

 家に着いた時には、既に夜の十時を回っていた。


 誰もいないはずの家に、明かりが灯っている。それだけでほっとした。


 玄関チャイムを押してみる。鍵は持っているが、押してみたくなったのだ。


「はーい」インターフォンから聞こえてくる声は、本人のものとは少し違った。


「ただいま」


「おかえり。どうしたの?」


「いや、出迎えてくれたりしないかなと思って」僕は照れているのを隠すために、視線を上に向けた。こちらからは見えないのに、向こうからは見えている。このシステムはフェアではない、などと考えてしまう。防犯上正しいのだが。


「しないよ。早く入ってきなよ」


「はい……」


 僕は持っていたスペアのカードをインターフォンに翳し、カメラを見つめた。三秒ほどで僕の顔を認識して、鍵が開く音がした。


「ただいま」


「おかえり」


 沖田楓はカウンターキッチンの向こう側から手を振った。


「悪いね、来てもらっちゃって」


「いえいえ、何か大変だね、友和も。あ、先にお風呂借りちゃったよ。服も適当に借りちゃった」


 彼女はその言葉どおり、僕の地味なトレーナーを着て、すっぴんでキッチンに立っていた。普段は化粧もバッチリで、派手な服を好んで着ている。付き合って一年になるが、さっぱりとした性格で一緒にいて心地良い。多少強引で我儘なところもあるが、自分が割と大人しいタイプなので相性は良い。と僕は思っている。


 バイトの休憩時間に元の家での出来事を簡単に報告したら、急に家に来ると言いだしたのだ。一応遠慮したのだが、聞き入れてはもらえなかった。両親がいなくなったことも話していたので、心配をかけてしまっていたようだ。


 着替えを済ませてリビングに戻ると、テーブルにはしっかりとした和食が用意されていた。白米、味噌汁、焼鮭、肉じゃが、卵焼き。食べてみると、どれもとても美味しい。


「楓って、料理上手だったんだね」


「なにその意外そうな顔は。こう見えても、我が家の台所はずっと私が回してきたんだからね」


「いやごめん。でも、すごく美味しいよ」


「でしょう? もっと言って」


 彼女は中学生の頃に病気で母親を亡くし、父親と二人で生きてきた。考えてみれば

家事全般何でもできるはずだ。デリカシーのない発言をしたことを恥じた。


「でもまあ、正直気合入れた。だって初めてだもんね。手料理なんて」


「うん、ありがとう」


 正直、少しだけ涙が出そうになった。たった五日間ではあるが、自分が寂しさを感じていたことを強く認識した。


「お父さんは大丈夫?」僕は楓に訊ねる。現在彼女の父親は入院中だった。転んで足を骨折したらしい。


「うん、今日もここに来る前にちょっと寄ってきたけどね、まあ元気なもんよ。足だけだからね。暇でしょうがないみたい」


「そう、なら良かった」


「それより、友和のご両親のことよ。もっと詳しく聞かせて。昼間の話もね」


 そう言う彼女の顔は、心配というより面白そうな話を期待しているように見えた。だが、それは気のせいだと思うことにした。


 急に引越が決まった日のことから順に話した。丁度一週間前の、今日と同じ金曜日のことだ。


 その日はバイトが休みで、大学から真っ直ぐ帰宅した。すると既に、父も母も慌ただしく荷造りを始めていたのだ。何事かと訊ねると、翌日引越だから荷物をまとめろと言う。理由は「家を買ったから」だった。抵抗しようにも、家の物は粗方片付けられていて、冷蔵庫の電源すら抜かれていたのを見て、本気なのだと思った。次の日には大きなトラックが来て、次から次へと荷物を積み込んでいった。その時は必要最低限と言われていたため、細かい物は後から取りに来られるのだろうと思っていた。新しい家、つまりこの家に着くと、引越業者の人がほとんど運び入れや家具の配置までやってくれたので、僕らはその日のうちに不自由なく生活を始めることができた。ここで僕は父に疑問を投げかけた。研究のための部屋がないが、仕事は元の家でやるのか、と。答えは「そうではないが、大丈夫だ」と言うだけだった。日曜は朝からバイトだったが、特に変わった様子はなかった。そして月曜日、大学も午後の授業のみで、バイトも休みだったため、僕は昼前まで寝ていた。話があるからと起こされてリビングに来てみると、大きなトランクを持った両親が僕を待っていた。そして、今日でお前も二十歳になったのだから、これからは一人で暮らせと言われ、止める間もなく出て行った。


「うぅん……」時折相槌を打ちながら話を聞いていた楓は、最後に唸った。「出て行く時変わった様子は……って、それが既に十分変わってるわよね。何か気づくことはなかったの?」


 僕は首を横に振った。


「うちの両親、普段からあまり表情豊かじゃないからね。二十年以上前の旧式だから、って自分たちで言ってた」


「うーん、でも何かあると思うんだよなぁ。ちょっと出て行く時を再現してみてよ」


「ええっ、やだよ」


「いいから! 第三者の目で見れば何か発見があるかもしれないんだから!」


 僕は仕方なく、一人三役でその時のやりとりを再現した。


「どうしたの。話って何? っていうか、何その恰好? 旅行でも行くの?」


「友和、誕生日おめでとう」これは父の台詞、と注釈を入れる。


「おめでとう、今日で二十歳ね」


「ああ、ありがとう」


「さて友和、お前ももう大人になって二年が経過したことになる。そろそろ自立するべきだと我々は考えている」


 僕は意味がわからずポカンとしていた、と楓を見る。彼女は頷いた。


「父さんと母さんは出て行くから、今日からはあなた一人でここで暮らしなさい」


「え、ちょっと待って、冗談でしょ?」


「冗談ではない。独立するんだ。友和」


「父さんと母さんはどこで暮らすの? 元の家? まさか離婚するとか?」


「どうなるかはまだわからないけど、元の家じゃないし、離婚もしないわ」


「再会は期待せずに、強く生きるんだぞ」


「なんだよそれ! 急にそんなこと言われても納得できるかよ! 理由は……? そうだ、出て行く理由は何なんだよ」


「お前が大人になったからだ」


「正確には二十歳になったからだわ、あなた」


「意味がわからない。なんで大人になったら両親と離れて暮らさなきゃいけないんだ? そうじゃない家はいっぱいあるだろ」


「急でごめんね、友和」


「混乱させてすまない。だがこれが最適解なのだ。さあ、もう行こう、ちゑ」


「はい、あなた。元気でね、友和」


「いや、ちょっと待ってよ……!」


 正面に座って聴いていた楓が、ふと立ち上がって、僕の隣に座った。指でそっと、僕の目尻をなぞった。泣いていたのだ、僕は。


「あ……いや、泣くほどのことじゃないんだ。確かに僕ももう大人だし、自立するべきかなって……」


 彼女はにっこりと微笑んで、僕の頭を撫でた。


「ごめんね、無理やり再現なんかさせて。でも私、謎解けちゃったかも」


「え、本当に?」


 楓は僕から離れて元の席に戻ると、一つ咳払いをした。


「では、名探偵沖田の推理を披露しましょう」その台詞が既に胡散臭い、という言葉は飲み込んで、僕は姿勢を正した。


「ええと、さっきの話で感じた違和感は二つあります。まず、ご両親の住む場所を訊いた時、まだわからないと答えたこと。それと、お父さんの『最適解』という言葉です」


「なぜ敬語」


「黙って聞く! この二つから見えてくるのは、ご両親も想定外だったってことよ。引越をしたのはいいけど、何らかの理由があって、自分たちだけはここにいるわけにはいかなくなったの。だから住む場所もまだ決まってないけど、出ていくしかなかった。そしてその理由は『最適解』という言葉にあるわ。こういう表現は失礼かもしれないけど、ご両親はアーティフューマンだった。つまり何かの問題に対して、何通りものシミュレーションを瞬時に行うことができるわけでしょ? つまり色々考えたけどこれしかない、って結論が、友和を置いて出て行くことだったわけよね。となればその理由は、急な引越のことも考えると、この家なら安全だと思ったからじゃないかな。でも自分たちがここにいると、安全じゃなくなる。本当の目的は、友和を守ることだったのかもしれないわ。逆の発想よ。自分たちが出て行くことが最善ではなくて、友和を残して行くことが最善だったってわけ」


 僕は正直驚いていた。彼女にこんな才能があったとは。正しいのかどうかはわからないが、少なくとも正しいのではと僕に思わせる話し方だった。そしてその仮説は、昼間見たスーツの男たちにも自然と繋がる。


「つまり、僕の両親は何らかの危険に晒されているってこと?」


「その可能性が高いわね。昼間友和を襲った奴らは、きっと悪の秘密結社なのよ。ご両親の研究を盗み出して、一儲けするつもりなんだわ」


「ひ、秘密結社?」


「そう、一部のアーティフューマンたちが世界を乗っ取ろうとしているの。そうだわ、ご両親はそれを阻止する方法を研究していたのよ。だから追われてるんだ」


 もはや推理ではなく妄想が始まっていた。先ほど感心したのは、僕が少々素直過ぎるからかもしれない。それでも、一人であれこれ考えているよりもずっと気が楽で、力強い。


「ところで、ご両親が何か残していかなかったか、とかはもう確認したのよね?」


「え、まあ、ざっとだけど」


「ダメじゃない! 何か鍵になるものが残ってるかもしれないのに!」


「いや、何も無いと思うよ、きっと」


 もちろん僕の主張は受け入れられず、楓に腕を引っ張られる形で、二階にある両親の部屋に向かった。電気を点けた後、彼女は少しの間固まっていた。僕の言った意味がわかったのだろう。部屋の中には、シングルベッドが二つ。それ以外は何も無かったのである。


「うわあ、よく片付いてるお部屋だこと!」


「でしょ。引越の時の荷物もすごく少なかったもんな。二人とも」


「と、とにかく調べてみましょ。ベッドの下とか、あとベッドの下とかもね!」


 半ば自棄になって、彼女はベッドに近づいていく。元々布団は無く、マットレスとフレームだけだったので、調査は三分程で終わってしまった。


「何も無いでしょ」


「無いですねぇー」楓は妙な声色で言った。誰かのモノマネだろうか。右の人差し指を顔の前で立てて、部屋を歩き始めた。「ベッド以外は! そうです! ベッドがあるんですよー、おかしいと思いませんかー? アーティフューマンであるご両親は、眠る必要がないのに、なぜベッドを買ったのでしょうねぇー」


「いや、疲れたり眠くなったりはしないけど、二人の寝室には元々ベッドがあったよ。確かに、言われるまでその理由なんて考えもしなかったけど」


「あ、そう……」ため息をついて、彼女はベッドに腰かけた。マットレスを手でなぞっている。まさか、マットレスの中身まで確認する気なのだろうか。「ねえ」と顔を上げたので、僕は身構えた。


「何でしょう」


「明日、もう一回行ってみようよ、元の家」


「え、危険だよ」


「遠くから見て危険そうだったらやめればいいじゃない。ここに無いってことは、鍵はきっと元の家にあるはずだわ」


 彼女は僕の両親が何らかの手がかりを残していると信じているようだったが、彼らを良く知る僕にしてみれば、そんなヘマをするような人たちじゃない。しかし、彼女の中では既に決定事項になってしまっている。「ね?」などと可愛く首を傾けているが、僕に選択肢は無いだろう。それでも僕は、最後の抵抗を試みた。


「君を危険なところに連れて行くわけにはいかない」


 我ながら決まったかもしれない。彼女は口を開けて僕を見ている。


「じゃあ、一人で行ってくるよ。場所わかるし」


 僕がこの先彼女に勝てることはほとんど無いのだろうと確信した、秋の夜更けであった。

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