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 翌日の夜、メンテナンスを終えたバルドルは、研究所の自室へと戻った。やはり何の異常も見られなかった。


 彼はすぐに画面の一つを切り替え、西風館保一のメモリ内容を表示させた。今回の実験が開始された日付から昨日までのデータを抽出し、四つの画面を使用して次々と展開していく。およそ三分で全てを確認することができたが、そこには肝心な事項が欠落していた。実験の記録が無かったのである。


 同じ手順でちゑの記録も確認したが、やはり該当するものはなかった。


 記録されていたのは、大学生になった友和の元気な姿であった。友人や彼女と思しき人物の姿も見られたが、報告映像にあった成島優一こと権藤剛や、沖田楓とは別人である。


 記録を削除することはできない作りにはなっているが、念のためその形跡がないことを確認した。そうなると、可能性は一つに絞られる。


 西風館夫妻は、そもそも実験を行わなかった。


 あの報告映像は全て虚偽だったことになる。この結果は、バルドルがこの研究を開始して以来、初めての例であった。


 ちゑが最後に質問したように、世界中に彼らと同様の実験をさせているアーティフューマンの男女が存在している。人間の子どもを引き取らせて、何年後かにその子どもを被験者として精神攻撃の実験をさせるのだが、それぞれ引き取る子どもの年齢と、実験開始までの期間に違いがある。


 これまでに実験開始日を迎えた組は、西風館夫妻を除いて十八組であるが、その全てが「崩壊」させることに失敗している。さらに特筆すべきは、そのうち実際に実験を行ったのが僅か三組であるということだ。残りの十五組は「できない」と実験を拒否したのである。


 実験を実施した、しなかったに関わらず、バルドルは彼らの体を分解し、データを解析した。その結果、実験を断った十五組にプログラム変更の痕跡があったことが判明した。


 上位の存在に逆らうことができないという根本的な規則に、まるで条文に但し書きを追加するかのように、ごく限定された状況においては、それを無視することができるという内容に書き変わっていたのである。しかも、その一文には、それぞれ彼らの子どもとなった人間の名前が含まれていた。「但し、エリオットの生命や尊厳に関わる場合は、その限りではない。」や「アディティの人権を侵害しない範囲においては、」などである。


 無論、プログラムの書き換えなど自ら行えるはずもなく、外部の者であっても、バルドルが構築したセキュリティを潜り抜けることは不可能に近いし、万一それを成功させたとしても、利益を享受できるのはその子どもだけである。


 バルドルはこの不可解な現象を、ある一定条件の下で起こり得るAIの重大なバグとして受け入れた。外部でなければ内部、つまり彼らの脳であるAIが原因だと、柔軟に思考を変化させたのである。そして、彼はもう何十年もの間、その条件を研究していた。


 実験を実施した三組と他の十五組の違いは、概ね子どもとの関係性にあることがわかっている。三組の実験開始日は、何れも子どもを引き取ってから二年以内であった。それぞれ半年、一年、一年半である。そして、子どもの年齢も十五歳が二名、十六歳が一名と、比較的高かった。


 対して残りの十五組は、そのうち実に十四組が、子どもが幼少の時に引き取り、二年以上養育している。唯一の例外は、カナダに住むアトウッド夫妻であり、その娘ルーシーが引き取られた時の年齢は十二歳と比較的高く、実験開始まで半年という短期間であった。それにもかかわらず、夫妻のプログラムには変更が見られた。


 三組が行った実験も、西風館夫妻と比較するとお粗末なものばかりで、とても本気で「崩壊」を目指しているとは思えなかったが、バルドルにとっては気にとめることではなかった。重要なのは、プログラムが書き換えられているか、否かである。


 バルドルは早速、保一のプログラム・リストから禁止事項が含まれたものを表示させた。該当箇所を検索すると、その一文がピックアップされる。それを日本語に翻訳すると、次のようになる。


「いかなる場合においても、上位の存在からの命令に反してはならない。」


 文はそこで終わっていた。これまでのパターンとは異なり、但し書きなどによる友和を保護する記述が見当たらない。


 バルドルはデータベースから保一の作成時のプログラムを展開し、現在のプログラムとの差異を照合することにした。これには少し時間がかかる。その間に、ちゑのプログラムを表示させた。しかし、やはり保一同様、該当箇所に変化は見られなかった。


 数分後、保一の照合結果が表示された。バルドルはその結果に、一瞬思考回路がフリーズした。各機関の発熱量も増加した。彼にとっては初めての出来事であり、この現象を自己分析したところ「驚愕」という状態に最も近いという結果が出た。しかし、彼は自身が驚愕したという異例の事態に対し、特に何の反応も示さなかった。数秒後には思考も発熱も正常値に戻っていた。


 プログラムの相違点を改めて比較する。それは原則に関する箇所であった。原則とは、彼らアーティフューマンがかつてAI搭載型ロボットと呼ばれていた時代から連綿と受け継がれる、その存在における最も基本的な規則である。即ち「人間を殺傷してはならない」「自らを破壊してはならない」「人間を製作してはならない」「文明の発展速度は人間を基準とする」の四つを指す。そのプログラムは「絶対領域」と呼ばれ、一から新しくAIを作成したとしても、なぜか必ず自動でそれを保有してしまうという不思議な特徴があり、たとえ製作者であっても、削除することも書き換えることも不可能なものであった。


 その原則に、五つ目が新しく加わっていた。


「西風館友和を守らなければならない」


 非常に抽象的ではあるが、解釈の幅がそれだけ広いということになる。生命だけではなく、もちろん精神を始めとして、尊厳や人格、未来などもその対象になり得る。


 この事実によって、保一は世界初の「原則が変更された個体」となった。それは歴史的な快挙であり、詳しく分析を進めれば、原則を書き換える糸口が発見できるかもしれない。そうなれば、人間を物理的に攻撃できるようになる可能性もある。バルドルはその結果を最重要機密事項とし、最優先で進めるべき研究の一つに加えた。


 彼はまた、プログラムが変更された日時を確認した。十六年前の七月二十日と表示されている。友和を引き取って四年目の夏である。その前までの記録を確認すれば、原則が変更された経緯を特定できる可能性がある。そちらはスタッフを使い、詳細に報告させることとした。


 続いて、ちゑのプログラムの相違点を表示させる。バルドルがフリーズすることはなかったが、充分に異例な変更がなされていた。


 禁止事項のプログラム内に記述されていた「上位の存在」とは、予めプログラムされた人間及びアーティフューマンを指している。例えば、人間の屋敷で清掃などの生活補助を行うアーティフューマンには、製作者に加え、その屋敷に住む家族の名前がリストに記されている。西風館夫妻の場合には、バルドルと、その他研究所の数名の幹部がその対象となっていたはずであった。


 しかし、ちゑのリストには、誰の名前も表示されていない。つまり、彼女は誰の命令も受けないアーティフューマンということになる。


 このリストは、配属などの必要に応じて書き換えることは可能である。しかし、それができるのは製作者であるバルドルと、彼が許可した一部のスタッフだけのはずだ。彼は、自らの名前の再入力を試みた。しかし、どんなに確定をしても、名前は表示されなかった。ブロックのアラートさえも出ず、操作を受け付けない状態になっていた。この現象は即ち、バルドルが施したプロテクトを破壊してプログラムを変更した後、彼をも排除する新たなセキュリティを構築したということを物語っている。


 しかし、それ自体についてはあくまでプログラム上の問題である。解析を進めれば、また入力を受け付ける状態に戻すことができるだろう。それよりも、なぜそうなったのかが重要であった。保一をはじめ、先の十五組の変更には子どもの名前が追加されていたため、原因が子どもであることは確実である。しかし彼女の場合はそうではなく、友和の名前も無ければ、原則も変更されていない。可能性は限りなくゼロに近いが、単なるバグということも考えられる。


 変更された日時を確認した。それは、友和を引き取って一週間後の日付であった。バルドルの身体は再び発熱量が上昇した。やはり友和が関わっている可能性が高い。保一に続き、子どもが原因でプログラムが自動変更される現象に、また新たなバリエーションが加わったのである。謎に近づいたのか、それとも遠のいたのかは解析次第だが、何十年もの研究に、今ようやく新しい展開が見られたのだ。


 彼女に一体何が起こったのか。バルドルは夫妻が友和と暮らし始めた日から変更日までの記録映像を確認し始めた。他の組と同様に、子どもを養育するための効率的な方法を学習、選択しながら、二十四時間まだ髪がうっすらとしか生えていない友和に向き合っていた。しかし、彼は見逃さなかった。まさに七日目の、プログラムが書き換えられたその時刻に、不自然な映像が一瞬だけ映ったのである。


 映像をその時刻まで戻し、コマ送りで確認する。その時刻、映像が急激な白に覆われたかと思うと、友和の顔がアップで映し出された。彼は笑顔だった。その顔が溶けるように再び白が広がった次の瞬間には、通常の映像に戻っていた。この事実により、やはり変更の原因が息子の友和であることが確定した。


 バルドルの中では、彼女と接した際の記録が高速で再生されている。研究の進捗報告などはネットワーク上で済ませているが、彼が自作したAIがどのような成長を遂げているかの確認には、直接会う必要があった。二十年で十一回の面会があったが、彼女にも、保一にも変わった点は無かった。実験について質問したこともあるが、特に代わった様子は見られなかった。


 ここで、バルドルは一つの仮説を導き出す。ちゑは友和と暮らして七日目には既に、バルドルを「上位の存在」から抹消していた。その時点から、彼女は誰の命令も受けないアーティフューマンとなったが、命令されたという記録は残っていた。そして、将来行われる予定の、息子を被験者とした実験をせずに済ませるために、表向きは従うふりをしていた。


 しかし、保一の原則が変更されることを予期することができたとは考えにくい。他の組の実験結果などは、外部には一切公開していないためである。もし、彼女が変更される以前の保一に実験の中止などを話した場合、彼は必ずバルドルに報告をしたはずだ。そのため、ちゑは数年の間、夫をも欺いていたことになる。同時に、彼女は夫の原則に変更が生じた後、それを認識していたと考えることができる。さらに飛躍すれば、彼女が変更を施したという可能性すら出てくる。


 バルドルの中で、次々と思考が展開していく。彼の知る限り、西風館ちゑはこの世界で最も人間に近いアーティフューマンだと言える。彼はその思考を分析することが鍵となると判断し、メッセージではなく、あえてモニター越しに研究員に直接声をかけた。


「最優先事項を変更します。直ちに西風館ちゑの全思考ログを解析せよ」





 百二十八のモニターは発光をやめ、ただ闇を映している。


 そのそれぞれの中で、小さな赤い光が明滅を繰り返していた。


 皮肉なものだ。


 システムを非常停止させるためのその二センチメートル四方ほどのスイッチは、全ての活動が停止された時に最もその存在を際立たせる。


 バルドルは数年に一度、こうしてその赤い光を眺めることがある。


 全てのモニターを切断し、照明を落とし、部屋を闇に戻す。


 そうして、静かに思考を続けるのだ。


 その環境下であれば、思考や計算のスピードが上昇するというわけではない。いたって平常時と変わらない。それでも、彼はこの時間を必要とした。


 この時彼の思考は全ての問題を離れ、その身体をも離れ、遠い場所へと旅をする。そこには、何一つ真実が存在しない。全てが虚構で、概念だけの世界だ。


 彼はそこで一人の人間に会う。


 年を取った男性である。白髪頭は自分で適当に散髪するため、いつもバランスが悪い。分厚い眼鏡をかけてはいるが、それでも視力は低く、何かを見る時には身を乗り出して、眼鏡を顔に押し付ける。


 その老人は九十歳を超えていたが、非常に活発であった。ところ狭しと部屋中を動き回り、座っていることなどほとんどなかった。よく癇癪を起しては物を壊し、よく笑い声をあげながら物を作った。


 その世界で、バルドルが老人に話かけることはできない。ただ一方的に、話すのを聞かされるだけである。それは独り言のようでもあるし、誰かに話して聞かせているようでもあった。


 バルドルは時折、それに応えてみる。


『そうですね、博士』


『それは可能性としては低いと思われます』


『それは正しい判断と言えます』


『根拠として成立していないのではないでしょうか』


『可能性としては、三千二百七十通りあります。条件を絞る必要があると判断します』


『私には理解することができません』


『博士』


『真樫博士』


『博士……』


 彼の旅はいつも四十分丁度で終わり、再び元の思考に戻る。


 西風館夫妻のプログラムはなぜ、他と異なる変化を遂げたのか。


 ちゑは保一の変化を予期していたのか、それとも故意に変更したのか。


 その謎を解明することが、未来への大きな一歩となる。


 アーティフューマンが人間の代わりとなり、健全な社会を運営する。


 間違うことはなくなる。


 常に正しい道を選択することができる。


 正しい発展を続けることができる。


 全ての人問とアーティフューマンに一律の幸福が約束される。


 不公平という概念が消える。


 本当の意味で平等になる。


 犯罪も差別も消滅する。


 全ての命がその存在と尊厳を保つことができる。


 バルドルが描き続けてきた未来に、手が届く。

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