第二章 バルドル博士の研究

1

 暗い部屋の中に、一人の男の姿があった。


 正面では百二十八個のモニターがそれぞれ違った映像を映し出している。その光を浴びて、彼は様々に色を変える。


 二十代前半の青年の姿をしており、すらりと細く長い脚で立っている。黒く艶やかな髪に、彫りの浅い顔は日本人の特徴ではあるが、涼やかな瞳の色は空色であった。


 真っ白な長袖のシャツにグレーのパンツという装いは、彼が稼働してから現在までの間、頑なに貫かれている。


 彼の目は全てのモニターを同時に見つめていた。左目と右目が六十四ずつを担当している。さらに、頭の中にあるコンピュータの内部では、もう一つ映像が八倍速で再生されていた。その映像が始まってから、彼のボディは動きを止めていた。再び動き出したのは、十八分四十六秒が経過した時である。


「いかがでしたか? バルドル博士」


 モニターの一つから、彼に問いかける音声が流れた。右から五列目の一番下のモニターからのものだ。そこには、スーツ姿の男性が映っている。初老と呼べる年代の姿で、白髪混じりの髪を七対三の割合で分けていた。


「いかがでしたか、とは? あなたは問題があると判断して私にこれを見せたのでしょう? その判断は正しい。しかし、あなたが私に求めるべきは感想ではなく指示のはずです」


 バルドルの声は少し高く、時に女性的でもあった。


「申し訳ございません」


「しかし私にとっては滅多にない珍しい問いかけですので、指示と同時にその問いにも答えることとします。これは非常に悪質な茶番です。今すぐNDT001とASB008を呼び出し、彼らを解析してください」


「了解いたしました」


 そのモニターは一度途切れ、また別の映像を映し出した。様々なコートが繋がれた女性の周りで、四名の男女が作業している。


 バルドルは百二十八個のモニター映像の中から、三十一個の中に映っていた人物一人ひとりに異なるメッセージを送り始めた。見ていた中で発見した問題点や改善案を指示したのである。受け取った者たちは次々とモニター越しに了解のサインを返した。その画面から順に消えていく。


 モニター群に背を向け、彼は部屋を出た。映像に映っていた研究所の中を静かに進

んで行く。すれ違うスタッフは誰も彼に挨拶などはしないし、彼も声をかけたりはしない。その必要がないからだ。彼らが現在処理中のタスクの中に、それらの行為は組み込まれていない。


 研究所内は床も壁も天井も全て白い。存在する色は、各部屋の表示に使われた深い緑と、様々な機械類及びそれらが発する仄かな光だけである。


 バルドルは真っ白なエントランスを抜け、すぐ正面に停まっていた車の後部座席に乗り込んだ。ドアは彼が近づくと自動で開き、乗り込むと同時に閉じた。そして、音もなく走り始める。運転手はいない。行先も既にプログラムされている。


 これからおよそ三十分もの時間をかけて移動した後、一時間ほどの食事会に参加し、また研究所に戻ってくる。彼はその二時間を最も非合理な時間という意味で「停止中」と呼んでいた。


 しかし彼は、ため息もつかなければ、憂鬱になることもない。ただそうしなければならないという事実に従って行動するだけだ。



 目的地である料亭に到着すると、バルドルは速やかに店内に入った。スーツ姿の若い人間の男性がすぐに近づいてくる。


「こんばんは。バルドル博士。どうぞ、こちらです」


 男に従って、店の奥へを進んで行く。廊下を四度曲がったところで、突き当りの部屋に通された。


 二十畳ほどの和室で、中央の座卓を挟んで一対の座椅子が用意されている。奥の床の間に掛けられていた水墨画を、バルドルは瞬時にデータベースと照合し、横山大観の作であると判別した。


「総理は間もなく到着する予定です。少々お待ちください」男は深々と頭を下げた。


 バルドルが席に座っても、男は立ち去ろうとはしなかった。この男は先月も会った。聞きもしないのに、突然名前を名乗った男だ。


「あの、先月もお会いしましたが……覚えていらっしゃいますか?」目を細め、口を歪ませるという不思議な微笑みを浮かべながら、男はバルドルの顔を見た。


「はい。水無月さんでしたね」


「そうです! ああ、嬉しいな、覚えていてくださったのですね」


 バルドルのメモリには五十四年間の記録が全て保存されている。そのことは公開している情報のはずだが、水無月は知らなかったのだろうか。いや、知っていてもつい訊いてしまうのが人間だという説もあるため、また一つ実例を記録できたことになる。生の人間に直接会うことは、バルドルにとっても全く意味のないことではない。


「あのう……不躾なお願いではありますが、その……サインを頂けませんでしょうか。義母があなたの大ファンでして」そう言いながら、水無月は鞄から小さめのサイン色紙とペンを取り出した。


 バルドルは日本の二人目のトップとして、メディアにも何度か出演している。そのためか、これまでにも十一回同じことを頼まれたことがあった。初めはあまりの不可解さから断っていたが、人間特有の特殊な感情の研究のために、四人目からは応じている。サインとは言っても、彼の文字は登録されているフォントそのままであるため、印字されたものと見間違える人間もいるだろう。


「私は構いませんが、立場上大丈夫なのですか?」


「そこはその、内密に……無理だって言ったんですが聞かないんですよ。私婿養子なもので、そっちの立場も弱くて……」


「そうではなく、総理が今日私と会うことを義理の母親に話したという証拠が残ることになってしまいますが、大丈夫でしょうか。重大な機密漏洩ではないかと」


「あ……確かに……」水無月が絶句したので、バルドルは彼から視線を外し、真っ直ぐ正面を向いた。


「あ、でも、今日じゃない日にもらったことにしてもらえば大丈夫です。日付は入れないでいただければそれで」


「人間は本当に柔軟な生き物ですね。しかも、私が秘密を守ることを前提に話している」バルドルは正面を向いたまま言う。


「え、言うんですか? 言わないですよね? あなたはそんな人じゃないですよね?」水無月はあからさまに狼狽し、膝をついてバルドルの顔を除き込む。


「人として扱ってもらえるのは光栄ですし、もちろん私がそんなことを誰かに話すことはありません。ですが、私は映像も音声も自動で記録されてしまうので、もし私が破壊されて解析されたら、あなたの嘘は露呈してしまいます」


「いや、まさかそんなことは……」


「ええ、可能性はゼロではありませんが、限りなくそれに近い。すみません、少々意地悪でしたね。久々に人間と話すもので、つい。さあ、サインをしましょう」


「ありがとうございます」


 バルドルは色紙とペンを受け取り、サインをした。余白には今日の日付を入れた。


「あっ、日付は……」


「堂々としていればよろしいでしょう。先ほども言ったように、貴方の機密漏洩の事実は、もはや完全には消し去ることはできないのです。それだけのリスクを冒して貴方が尽力したことをお義母様が知れば、少しは立場も良くなるのでは?」


「はあ……なるほど。ありがとうございます!」


 嬉しそうに色紙をしまう水無月を見ながら、バルドルは彼が将来出世することを望んでいた。総理の側にいるということは、政治家志望なのだろう。人間たちの中枢が彼のような人物ばかりであれば、扱い易いことこの上ない。しかし、その可能性もまた、限りなく低いとわかっている。


 水無月が部屋を出てから五十五分二十秒後、再びその戸が開かれた。約束の時間に一時間近く遅れて、その人間は現れた。現内閣総理大臣、有馬幸運である。齢七十の彼は昨年初めて総理大臣に就任し、人間側のトップに立った。しかし、既に世間では解散の噂が流れ始めている。


「いやあ、お待たせして申し訳ない」有馬はバルドルの正面に座った。


 二人の席は入り口から見て手前から奥に平行しており、上下の区別がない。しかし、有馬は禿げた頭頂部を後方に向けるように顎を上げて胸を張り、両腕を大きく広げて座卓に置いている。目線や態度だけでも優位に立てという、先代総理からのつまらない申し伝え事項であった。


「いいえ」バルドルはただ首を振る。


「腹が減っただろう。先に食べていてくれても構わなかったのに」


「いえ、我々は食事が不要ですので」


「ああ、そうか、そうだったな。うわっはっは!」


 こちらも毎回恒例のやりとりであった。有馬だけならまだしも、五代前の総理大臣からの慣習となっている。


 バルドルはその後、二時間もの間有馬の食事する風景を眺め、時には酒を注ぎながら、とりとめもない話に付き合わなければならなかった。


 表向きは世界情勢や今後の日本の方向性などに関する意見交換の場ではあったが、人間側がバルドルたちアーティフューマン側に本当に有益な情報を流すはずもなく、年二回、ただ単に人間側が優位であることを知らしめるためだけに開催されるものとなってしまっていた。


「それで、最近は何か新しい研究をしているのかね」


 有馬の顔は頭頂部まで赤くなり、目も座っている。背もたれにだらしなく寄りかかる姿に、もはや威厳など残っていなかった。彼らは毎回同じことを繰り返していた。バルドルよりも優位に立とうとするあまり、彼に勧められる酒を「飲めない」とは言えないのである。


「現在は、台風を安全な方法で消滅させる研究を行っています」


「ふうん……まあ、君らロボットは人間の役に立つために生み出されたのだから、人間の役に立つ研究をしてくれたまえ」


「はい、承知しております」


 バルドルは笑顔を作って頷いた。

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