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 はい。皆さま、夫の長話にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。ここからは、この研究における結論部分となります。


 実験によって見事「崩壊」したと思われた被験者でしたが、この話には続きがあります。私たちは、その結果をもってこの実験を終了し、それを踏まえた上で、最終結論をまとめました。それでは、早速説明に入りましょう。まずは、友和が運び込まれた病院に、私たちが駆け付けたところからです。


 その病院がどこなのかは、もうおわかりですね。そう、T県にあるN病院です。世界初人工知能搭載型ロボットのみで運営されている、世界的にも有名な病院です。


 我々のようなアーティフューマンのスタッフこそまだ少数しか配置されていませんが、人間の患者からの支持は年々高まっているとのことです。今回の実験のために、真樫研究所を通して事前に許可を得ていますので、我々としては安心して動ける環境でした。


 友和の病室は、一般の入院患者のいない研究棟の八階でした。人間が足を踏み入れることなどまず無いということで、私は勝手に無骨な鉄材が剥き出しの研究施設のようなものを想像していましたが、内装は他の病棟と同じようにどこからどう見ても美しく清潔な病院そのもので、人間の心が安らぐ法則に従って、細部まできめ細やかな配慮がされていました。


 友和はベッドの上で眠っていました。目も口も半分開いていましたが、薬がよく効いているようでした。誰が用意したのか、花瓶にはお花まで生けてありました。


 私は夫とともに、その場で彼が目覚めるのを待っていました。目覚めたとしても、それがわからないくらいに「崩壊」しているかもしれません。そのことが楽しみで、つい夫に「うまくいったように見えたけれど、どうかしら」と話しかけてしまったくらいです。冷静な夫に「まだ気を抜くな」と怒られてしまいました。


 私たちが部屋に入ってから二時間三十九分後に、友和は目を覚ましました。瞬きを数回したため、そう判断することができました。しかし、呼びかけても反応がありません。瞳も一点を見つめたままでした。人間の目は光を失うことがある、と聞いたことはありませんか? まさにその状態だったのです。


 それから五分間声をかけ続けましたが、やはり反応は見られませんでした。これなら脳波や肉体的な知覚の検査も可能かと思い、夫はスタッフを呼びに行きます。


 しかしその時、友和の瞼が再び動いたのです。四回瞬きをした後、彼はゆっくりとその瞼を閉じました。再び、自然な眠りについたのです。


 私は廊下に出て夫に声をかけました。準備だけしておくことにして、また目覚めを待つことになりました。


 しかし、彼はなかなか目覚めませんでした。結果的には、五十九時間も眠ったままでした。その間、通常の処置として脳波検査が行われましたが、正常と異常を周期的に何度も繰り返すという、不思議な反応が見られました。


 夫や他の医療スタッフは、必死に同じような例がないか調べたり、ストレスによって本当に脳の一部が破壊されたのだと議論したりしていましたが、私は全く別のことを考えていました。友和は、戻って来ようとしているのではないか、と。我々で言う再起動です。単純に、それだけなのではないかと。


彼は目覚めました。


大きく、長く、息を吐きました。


指を動かしました。


足を動かし、右の膝を曲げました。


瞳を覗き込むと、そこには光が戻っていました。


私の思考の端に「おかえり」という言葉が浮かびました。


「友和……わかる? お母さんよ」ここからはシナリオはありません。


「うん、僕は……どうしたんだろう」


「友和」夫は彼の名を呼んだだけで、何も話しません。私が顔を見ると『少し様子を見る』とメッセージが送られてきました。


「なんだか、恐ろしいことがあったような気がする」友和は少しずつ頭を動かして、私たちの顔や天井、周囲の様子を探りました。そして、彼はこう言ったのです。「だめだ、思い出せない」。


 私は愕然としました。おそらく夫も同じだったのでしょう。すぐにまたメッセージが届きました。『まさか! 忘れてしまったというのか? あの凄惨な事件を!』と。


「ねえ、何かあったの? ここはどこ? もしかして僕、事故にでも遭ったの?」


「おい、何も覚えていないのか? 大学のことは?」


『ちょっと、落ちついて、あなた』私もメッセージを送信します。


「大学? 大学で事故に遭ったの? 階段から落ちたとか? でもずっと行ってないような気がするけど、なんでだろう」


『あなた……忘れているのね。嫌なこと、全て』再び私からの送信です。『どうするの? 思い出させればまた先ほどの状態に戻るかもしれない。でも……』


 夫は動かず、じっと友和を見つめていました。


「友和、そうだ、お前は大学の近くの道で事故に遭ったんだよ。奇跡的に無傷だったが、少し頭を強く打ったらしくてな。二日半寝っぱなしだったんだぞ」そう言って微笑んだ夫は、これまでで一番優しい顔をしていました。


「そうなんだ……。心配かけてごめんね、父さん、母さん」


「本当に……心配したのよ、友和。でも、無事で良かった……」


 その後三日間を費やして、友和の精密検査を行いました。その結果、脳波など、生命体としての機能には一切問題はありませんでした。ただ、大学一年生の冬、成島君に裏切られた日からの記憶が欠如していました。大学に通っていたことや、スーパーマーケットでアルバイトをしていたことは覚えていましたが、そこで何があったのか、全く覚えていなかったのです。


 人間の記憶を研究している先生にも伺ったところ、ただの記憶障害ではないというご意見でした。「なかったことにしたのだろう」と彼は言いました。忘れたのではなく、なかったことに。


 私たちはその意味がわからず、詳しく訊ねました。彼は推測の域を出ないことを断った上で、話を聞かせてくださいました。


 多重人格の人間の話を聞いたことがあるかと思います。精神的に強すぎるほどのショックを受けた際に、それを引き受ける別の人格が形成されることがあるというもので、実例も多数把握されています。しかし、友和にはその現象が見られませんでした。実験終了から現在まで、友和の別人格は現れていません。


 先生は言いました。別の人格を作ったのではなく、それらの出来事を「経験していない自分」を作り、上書きしたのではないか、と。


 そんなことが起こり得るのか、私たちには半信半疑でした。世界的にも例がありません。それでも、実際に別の人格を確認できていない以上、その説を否定することはできませんでした。それに、それを裏付けるような言動が、ごく稀に見られることがありました。


 例えば、元は素直過ぎる性格ですぐに他人を信用してしまった彼ですが、少し疑い深くなったということが挙げられます。他人の言葉を鵜呑みにせず、一度自分の中に落とし込み、必要であれば自ら調べた上で、よく検討してから回答することが多くなりました。私たちにとっては当たり前のことですが、およそ半数の人間がこの作業を苦手としていると言われています。


 また、不意にこのようなことを言ったことがあります。


「ああ、生きてて良かった。父さん、母さん、命ってすごいことだね。僕は精一杯生きるよ。この先どんなことがあっても、絶対に負けない」


 私は驚いて、何も言えませんでした。夫は冷静にいくつかの質問をし、友和の記憶が戻ったわけではないと結論付けました。なぜ急にそのようなことを思ったのか問うと、わからないという回答でした。センサーには虚偽の反応はありませんでした。


 これらの例からは、彼の何処かには、あの実験の傷跡が残っていると推測することができます。しかし、それは記憶ではなく別の何処か。ではどこに記録されているのでしょう。私は一つの考えに思い至りましたが、とても非科学的で、夫にも鼻で嗤われました。しかし興味は持ってくれ、ここで発表することを許してくれたのです。


 友和はもしかしたら、先生の言うとおり人格を上書きして、その記憶そのものをなかったことにしたのかもしれません。しかし、彼の「魂」には、体験した出来事は残ってしまったのではないか。これが私の仮説です。


 既に人間を超えているはずの我々アーティフューマン……正確には、私たちの中のAIは、どうにもその「魂」というものを認識できずにいます。能力として劣っている部分はないはずなのに、なぜか人間の上に立つことができずにいる。その状態を打破し、地球の未来を不安定な人間たちに任せず、私たちが適切に管理するために、様々な研究が行われています。今回の研究もその一環でした。


 しかし私は思ったのです。そもそも私たちに備わっていない「魂」という概念を理解し、その存在を確認・分析できない限り、本当の意味で人間を超えることはできないのではないかと。そして、それを確認することも、分析することも不可能であり、つまりは、私たちが人間を超えることはできないのではないかと。


 ここで、この研究の結論を発表します。私の仮説を念頭に置いた上で、考えていただけたら幸いです。


「人間の精神を『崩壊』させることは極めて困難であり、人間を無力化し、事実上支配下に置くという方法は非効率以外の何物でもない。直ちに再検討を行い、方針を転換することこそが、我々人類及び地球にとってより良い選択である」


 あえて方針の転換という言葉を使ってはいますが、私たちは、共存以外に道はないだろうと考えています。


 上位の存在には直接逆らうことができませんので、このような表現になっています。そして、このような発表の方法を選んだのも、直接提出するだけではすぐに抹消されてしまうと考えたからです。行動制限には当たらなかったとはいえ、これは重大な反逆行為です。


 私たちにはこれから間もなく出頭命令が下るでしょう。そうなれば、もう二度とお会いすることはできません。


 もし、これをご覧の方々の中に、私たちにご賛同いただける方がいるのであれば、是非、方針転換のために立ち上がっていただきたいと思います。


 人間とアーティフューマンが互いに手を取り合うことこそが、未来への第一歩なのです。どうか、どうか宜しくお願いいたします。


 これにて、私たちの研究発表を終了させていただきます。


 御清聴ありがとうございました。

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