実験その四「未来の喪失」
被験者が楓と結ばれた三日後、彼は突然意識を失います。
とは言えこれは人体に無害な睡眠薬によるもので、肉体的攻撃には当たりません。重要なのはその後です。
病院で目を覚ました彼は、心配そうに見つめる我々の姿に不思議そうな顔をしていました。我々はその日は何も語りませんでしたが、悲愴な表情というものを心掛けました。
そうですね……このような感じです。
妻と向かい合いながら特訓をしました。それも今では良い想い出です。彼は平静を装いながらも、時折不安を滲ませていましたので、特訓の成果はあったのだろうと思います。
さて翌朝のこと。医者が病室に現れます。こちらがその医者の画像ですが、皆さん何かお気付きになりませんか? どこかで見たことがあると思いませんか? 口髭があるので野口英世に少し似てはいますが、そうではありません。答えはこちらです。
そう、六角です。この医師は、六角と同一人物なのです。信じられませんか? 私も最初に見た時にはそのように思いました。ただし皆さんとは逆で、六角に扮した姿を見て、ですが。実は、こちらが彼のデフォルトの姿なのです。穏やかで上品な印象を持つ彼が、あんなにも粗野で下卑た人物に変身していたのです。彼の演技力はもちろんのこと、美術スタッフも素晴らしい仕事をしてくれました。
彼は、我々と被験者に対して、神妙な顔で言います。
「落ち着いて聞いてください……息子さんは、非常に珍しい病に侵されております。世界でもまだあまり例がなく、正式に名前が付けられてもいませんが、我々は昏睡脳症候群と仮に呼んでおります」
医者の語り口はゆっくりで、声色も変えてあります。被験者は全く気付きませんでした。
「どんな病気なのですか?」私は訊ねました。
「ええ……脳の一部が何らかの原因で破壊されてしまっており、突然眠ってしまうという症状があります」
「脳が……ああ、でも眠るだけなのですよね、良かった……」妻はほっと息をつきます。
「いえ、最初は眠るだけなのですが……」
口ごもる医師に、私はさらに問いました。「ですが、何です?」
「この病気は進行性であることがわかっています。次第に眠る時間が長くなり、そして最後には……」
我々と被験者は、同じタイミングで息を飲みました。
「目覚めなくなってしまうのです。所謂、植物状態です」
ここで一分四十一秒間の沈黙があり、妻が口を開きます。
「で、でも何か方法があるんでしょう、先生! お金はいくらかかっても構いません。友和を助けてください! これからどんな治療をしていくのですか? 日常生活で気を付けることや、食事の内容などに注意が必要であれば何でもします。だから……だから、お願いです……友和を……」私は彼女の肩を抱き、医師を見上げます。
しかし、医師は首を振るばかり。「残念ながら、効果的な治療法は見つかっていないのです。世界でもまだ五十例ほどしかなく、そのほどんどは既に眠ったままの状態です。何をしても起きません。脳が眠ったまま、起きるという信号を出さないのです。脳のある部分に損傷を受けると、低確率で発症することまではわかっているのですが、それ以上はまだ……。脳手術で損傷を治しても、効果は見られません」
「息子の脳の、その部分に損傷があったということですか? それだけなら、別の病気の可能性だってあるのでは?」私は被験者の頭を見つめて言いました。
「ご希望であれば後程詳しく説明申し上げますが、MRIや脳波の検査からも、まず間違いはないかと」医師は少しムッとしたような口調になります。診断を疑われて不機嫌になる、という演技です。
「あの……」ここで友……被験者が口を開きました。
「あとどれくらいで、その、目覚めない? 状態になるんでしょうか」
彼の視線は我々でも、医師でもありません。詩的な言い方をすれば、未来を見つめていました。どれくらい先まで、自分の人生が残されているのかを。彼どの程度を想像していたかはわかりませんが、おそらく、我々が用意した期間よりは長かったはずです。
医師の次の言葉を聞いた瞬間に、彼の様子が明らかに変わりました。
「これまでの例からすれば……おそらく、あと半年以内かと」
被験者は深い深いため息を吐き出し、目を閉じました。固まった表情のまま、動きません。おそらく、彼は自らの描いた未来を一つ一つ思い描いていたのでしょう。そのほどんとが消えてしまったはずです。とても静かでしたが、却って不気味な雰囲気を醸し出していました。
「あの、何か、何かできることはないのですか? 進行を遅らせるような方法が何か……」
妻の迫真の問いにも、医師は首を振り否定します。
「今日一日様子を見て、安定していれば明日退院できます。その後は二週間に一度ずつ通院していただければと思っています」
「何の治療も試みずに退院ですか」私は苛立ちを表現した口調で言いました。無論台本どおりです。
「息子さんにもやりたいことがあるでしょう。それとも、今後同様の病気で苦しむ人々のために、我々の研究に残された時間を捧げていただけるのですか? ありがたい申し出ですが、私個人としては、そんな酷なことをさせるのは忍びないと思っています」
今後の通院もありますので、少し良い医者を演出した台詞にしてあります。
翌日、被験者は退院しました。入院前はほとんど自室に閉じこもっていましたが、帰宅後しばらくはリビングで我々と一緒に過ごしました。彼が点けたテレビを、我々も黙って見ていました。
その晩、彼は眠りませんでした。眠るのが怖くなったのでしょう。しかし、ずっと眠らずにいることなどできるはずがありません。二日後の夜には、テレビを見ながらソファで眠ってしまいました。一度寝てしまってからは、通常通りに眠ることにしたようです。意味がないと悟ったのでしょう。
睡眠薬は、退院後八日目から入れ始めました。何事もなく一週間が過ぎ、被験者の気は緩んでいました。そこでの昏睡です。およそ十二時間後に目覚めるなり、彼は叫び出しました。実感を伴った恐怖に襲われ、相当なダメージを負ったと考えられます。我々でもすぐには沈静化できないほどの取り乱し方でした。
その後は計画に沿って、睡眠薬を料理に混入しました。量も少しずつ増やし、眠っている時間が徐々に長くなっていることを体感させます。
二週間に一度、医師の診察を受けに病院にも通いますが、やはり高確率で「理不尽」な扱いを受けさせましたので、それ以外の外出はしませんでした。そしてついに、五月に楓からの裏切りを受けた後は、通院すらも一人ではできなくなりました。限りなく「崩壊」に近い状態ではありますが、前に言ったように、食事は取っていましたので、もう一押しというところで停滞してしまいました。
その一押しのため、最大量の睡眠薬を入れました。被験者は四十時間眠り続けました。目覚めた彼が私に日時を訊ね、その時間を聞いて笑いながら涙を流しました。「ああ、もうすぐだ。もうすぐ僕は死ねる」と。
「死ぬわけじゃないさ。きっと良い方法が見つかる」私は優しく言いましたが、目的は励ましではありません。息子が眠ったままの状態になってしまうことを、既に諦めているということを表現したつもりでしたが、彼は気付かなかったようです。
「父さん、もういいんだ。もし目覚めなくなったら、安楽死させてくれよ」彼は言います。
ほとんどの患者は医学の進歩を待ちながら眠り続けているが、稀に本人の希望により安楽死させたという例もある。そのことを事前に医師から聞かせていましたので、そのようなことを言ったのは当然の流れでしょう。
「何を言うのだ。希望を捨ててはいけない」私は白々しく、彼を諭します。
「父さん、今まで言わなかったけど、大学生になってから、僕の人生は最悪のものに変わっちゃったんだよ。親友に裏切られて停学になったり、バイト先では酷い扱いを受けたりもした。泥棒に入られたのを僕のせいにして、借金を背負わされてタダ働きさせられてた。他にも何だか僕を狙っているみたいに良くないことばかり起こるし、この前は彼女にまで裏切られた。もう、生きてるのが嫌になったんだ。頼むから殺してくれよ!」
彼はとめどなく涙を流しました。
「成島君のことは前に聞いたが……そうだったのか、そんなことがあったのか。それは……辛かっただろう。だが、生きていればきっといいこともある」
「生きていたって眠ったままじゃいいことも何もないじゃないか!」
私はそこで、ぐっと言葉を飲み込みました。あまり元気づけ過ぎてその気になられても困ります。私が言葉に詰まったと感じて、彼の顔は一層絶望の色を濃くしました。
騒ぎを聞きつけた妻も駆け付け「友和、大丈夫、大丈夫だから……」と根拠のない慰めを繰り返し、何が大丈夫なのかわからないという反発心と、できれば自分でも大丈夫であって欲しいという捨てきれない願いが同時に溢れ、彼は子どものようにわんわんと泣きました。
それから一か月近く、彼はまた部屋に引きこもりました。食事も全く取らなくなり、餓死するつもりなのかと疑いました。睡眠薬も摂取させることができなくなりましたが、その点はご安心ください。本来なら楓に裏切られた時にこうなると予想していましたので、その前に準備してあります。
彼の部屋を少しだけ改造しました。見た目にはわかりません。壁にごく小さな穴を無数に開け、そこから催眠ガスを少しずつ流すことができるようになっています。睡眠導入用として厚生庁から認可を受けた製品で、無味無臭ですし、肉体への影響も皆無です。ただし過去に犯罪に利用されたことがあり、現在は原則として入手することができなくなっています。今回のような特別なプロジェクトでなければ、研究用であっても手に入れることは困難でしょう。
そのガスのおかげで彼は眠り、そして目覚め、また眠ることを繰り返します。精神的な変化は無くなり、家の中の行動もトイレと自室のみです。「崩壊」こそしていないものの、人間としての能力はほぼ完全に封じることに成功していたと言えるのではないでしょうか。
成果としては充分だと認識してはいましたが、我々も欲張りなもので、やはり「崩壊」を見てみたくなりました。できれば自発的にトイレにも行けないような状態にまで行きついて欲しい。または、人間としての尊厳を失い、一個の獣に戻るのでもいい。
実際にそのような人もいたそうです。戦争の時代のことですが、大勢の人々を殺した兵士が精神を蝕まれ、最終的には人間の言葉すらも失って、まるで獣のように変化してしまったというのです。
凶暴性も増してしまう例が多いことは本来の目的に反しますが、どうなるかは確認しておくべきだと判断し、予定通り、我々は最後の実験に取り掛かることを決定しました。
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