実験その三「理不尽」

 それでは、早速次の実験に移らせていただきます。


 三つ目の攻撃は「理不尽」ということですが、皆さんは「理不尽な扱い」または「理不尽な出来事」について、どのようなイメージをお持ちでしょうか。具体的な例が瞬時に思い浮かんだ方は、おそらくそのような経験があるのでしょう。


 しかしながら、改めて問われると、明確な基準などが何もなく、何をもって「理不尽」と言って良いのか判断が難しい。辞書などにはよく「物事の道理に合わないこと。また、そのさま」などと書かれていますが、やはりわかりやすいとは言えない。


 そこで文字からその意味を考えてみると「理」は道理や理論のこと、そして「不尽」は、尽くさないこと。即ち「充分に尽くされていない理論」ということになり、あえて安っぽく言い換えれば「滅茶苦茶な理屈」ということが言えるでしょう。


 つまりは、理不尽な扱いというのは「誰かの滅茶苦茶な理屈によって不利益を被ること」と言い換えることが可能です。さらに言えば、理不尽には必ず「滅茶苦茶な理屈」を唱える人物が相手として必要となりますので、先ほど私が挙げた「理不尽な出来事」というのは、背景に誰かがいることによって起こった出来事であり、雷に打たれた、隕石が落ちてきたなどは「理不尽」には当たりません。それは「不条理」ということになります。「不条理」には、そもそも理論が存在せず……と、このような話をしているとまたどんどん時間が過ぎてしまいますので、話を進めましょう。興味のある方は調べてみてください。


 私が言いたかったのは「理不尽」と「不条理」は違うということ。そしてその二つを比較すると「理不尽」の方が遥かにコントロールがしやすいということです。


 精神的ダメージとしては、おそらく「不条理」の方が上でしょう。しかし故意に災害などを起こすことは容易ではなく、関係の無い大勢を巻き込んでしまう。それに「不条理」は誰の所為でもないことが多い。そのため、仕方のないことと諦めてしまう、いや、そうすることしかできないのです。そうなると、人間の心はその部分だけをうまく誤魔化すことができるらしく、却って前向きになることがあります。


 その点「理不尽」は必ず相手があり、しかも滅茶苦茶な理屈なのです。「絶対に相手が間違っている。なのにどうしようもない。自分が我慢するしかない」というストレスは誤魔化しようがありません。以上の点から、今回の実験では「理不尽」に絞って行いました。さらに言ってしまえば、この実験は失敗例となりました。その理由も合わせて、ご紹介させていただきます。


 被験者に仕向けられた数々の理不尽。その筆頭はもちろん、アルバイト先の六角他数名のスタッフによるものです。成島が裏切った後の十二月二十四日、最初の理不尽が実行されました。


 その日、被験者はシフトが入っていませんでした。楓とクリスマスデートの約束をしていたのです。当日のマシンオペレーターの仕事は、前半は楓が、後半は先程も登場した坊内という者が担当することになっており、二人は夜に会うことになっていました。


 しかし、午後三時前に六角から電話があり、急遽坊内の代わりに入って欲しいと言われます。理由を聞くと、どうやら坊内もシフトを忘れてデートの約束を取り付けてしまったらしいとのことでした。被験者は、それならば自分も同じくデートで、元々先に休む予定を組んでいたのだから、代わってはあげられないと断ります。その瞬間に六角は激昂し、大声で喚きます。


「てめえ一番下っ端のくせに何断ろうとしてんだよ! いいから黙ってすぐ来い!」


 被験者は初めて聞く六角の乱暴な口調に驚きつつも、まだ抵抗する姿勢を見せました。「だったら沖田にこのまま夜まで働いてもらうことになるな! それでいいんだな!?」と六角も返します。


 二人が付き合っていることは、楓から被験者に公表しないように言ってありますので、この時被験者は、六角は自分のデートの相手が楓と知らずに言っていると思っています。しかし言うわけにもいかない。かと言って楓が夜まで働かされるのも困る。


 結果、大急ぎで店に向かうしかありません。ちなみに向かう途中で彼は坊内に電話をしていますが、もちろん応答しません。


 さて、店に到着するやいなや、六角は被験者を楓の元へ連れていき「後のシフトをどっちがやるか決めろ。坊内は来ない」と言い放ちます。楓は小声で「いいよ、私やるから」と囁きます。そのようなことを言われれば、被験者が引き受けないわけにはいきません。


 かくして、被験者はやり場のない憤りを抱えながら、午後三時から十時の閉店まで働くことになりました。しかも、いつもなら七時に他のスタッフの誰かが来て、弁当コーナーから賄いを買ってきてくれるのですが、その日はいくら待っても来ません。


 その日のもう一人の遅番は津田という男で、主に設備管理の仕事をしている人物です。閉店後の施錠は、店長の六角か彼の仕事でした。しかし、九時四十分頃にひょっこりとオペレーター室に顔を出した津田は、被験者に鍵を預けて帰ろうとします。調子が悪いと言いますが、とてもそうは見えないように振舞っています。被験者はやったことが無いからと断りますが「いつも見ていたんだからできるはずだ。とにかく全部鍵を閉めればいいんだよ」と鍵を置いて帰ってしまいます。六角に電話をしても、やはり応答せず、被験者は仕方なく閉店作業を一人で行い、帰宅しました。


 次の日は朝から勤務でしたが、何やら事務室が騒がしい。夜間に何者かが侵入し、金庫の金が奪われたと言うのです。昨夜の顛末を話した被験者は当然のように責任を追及され、警察に事情を聞かれることになりました。津田も他人事のように眺めているだけです。


 もちろん警官もこちらの仲間で、任意の事情聴取と言いつつも、肉体的攻撃に当たらない範囲で、現代では考えられない苛烈な尋問が行われました。被験者が泥棒を手引きしたとまで言って責めましたが、彼は当然認めず、証拠もないと言うことで、夜中の二時に開放されました。


 その次の日は遅番でしたが、被験者は気になったのか、開店前に職場を訪れました。まだ何も警察からの連絡はないとのことで一度帰ろうとしましたが、六角から待機を命じられ、電話の前でじっと六時間待って、午後の仕事に入りました。やはり、昼食も夕食も出ません。


 昨日はほとんど話す機会のなかった坊内は、先日自分の勝手な都合で被験者に仕事を押し付けたことなどまるで気にしておらず、楓や他のスタッフと楽しそうに会話しています。被験者が文句を言っても、へらへらとするばかり。その上、自分の彼女の写真を見せて惚気るなど、被験者の神経を逆撫でします。


 ここで、もう一人のスタッフが登場します。徳丸という人物で、優しい初老の男性を演じています。仕事は庶務ですが、全てを把握し、実際に店を運営しているのは彼だとう設定でした。被験者も彼を慕い、よく会話していました。そんな彼の口から、信じられない言葉を聞くことになります。六角と共にオペレーター室を訪れた徳丸は、今回の被害額を淡々と説明し始めます。


 金庫にあった金が二千万円、昨日は臨時休業となってしまったため、売り上げの見込み額が三百万円、生鮮食品などの廃棄での損失がおよそ百万円。計二千四百万円。


 彼はそれを、被験者に請求したのです。もちろん笑ってしまうくらい滅茶苦茶な話です。しかし、そもそもそれが「理不尽」なのですから、この場合は正しいと言えるのです。


 被験者が何も言わないわけがありません。相当に憤りを表現し、正統な疑問を口にし、正論をもって応戦してきます。しかし、彼が相手にしているのは「理不尽」。そんなことに何の意味もありません。結局、最後には六角が我々、つまり親に請求すると言い、被験者にやめてくれと懇願させました。もちろん彼にそんな金はなかったので、しばらく無賃労働をするということになったのです。


 ああ、一つのエピソードを紹介するだけで、こんなに時間が経ってしまいました。どうやら私にはプレゼン能力が欠如しているようです。とても全てを紹介することはできそうにありません。他にも、職場のスタッフからは、一日中一人で外に立って呼び込みをさせられたり、する必要もない箇所の清掃を何度も繰り返し命じられたり、客からのクレームを自分の所為にされたり、実に多様な「理不尽」による攻撃が続くのですが、残念ながら、それは割愛させていただきます。


 さて「理不尽」は、職場の人間からとは限りません。歯磨き粉と洗顔フォームを間違って買ってしまった客には、陳列が悪いから返金しろと怒鳴られ、総菜コーナーで勝手に試食を始めた客からは、どこにも注意書きが無いからだと居直られ、鮮魚コーナーで魚を触った客に至っては、服に臭いが付いたからとクリーニング代を請求されるなど、正直「理不尽」に該当するのか曖昧なものも含まれていましたが、被験者が現場の機械の様子を見にフロアに出た所を狙って仕掛けていきました。しかも、六角はそれらのクレームを全て認めて謝り、その損失を全て被験者の借金に上乗せしました。こちらは間違いなく「理不尽」です。


 他にも、二月には大学の事務局に突然呼ばれ、二年生からの専攻が全く興味のない中東文化に決められてしまいます。取得単位に関係なく二年生に進級することができ、二年間で必要単位数を満たせば良いことになっていることを利用したものです。


 被験者は心理学の専攻を希望していましたので、彼にとっては留年のほうがありがたかったことでしょう。もちろん抗議は認められず、大学に残れるだけでもありがたいと思え、と突き放されます。停学が解けるのは六月です。戻っても居場所はないでしょうし、単位も毎日ほぼ全ての枠に講義を入れないと間に合いません。それでも辞めると言わなかったのは、まだ少し考える時間があると思ったのかもしれないし。学費を支払った我々に気を遣ったのかもしれません。


 小さな「理不尽」も色々と試しました。例えば、被験者が親切心で老婆の荷物を持ってあげた途端泥棒扱いされる、脇見運転の自転車と接触しそうになって怒鳴られる、ただ歩いているだけなのに、怪しいからと職務質問される、などなど。


 しかし、実験を進める中で、我々は気が付きました。「理不尽」はコントロールこそ容易だが、それほど多くのパターンを望めないと。これが、先ほど失敗と言った理由の一つです。そしてもう一つが、これからお話する被験者の反応にあります。


 被験者が仕事を無断欠勤するようになってしまったのです。二月の初めのことでした。楓ももう辞めたことになっていますので、彼にはそこにしがみ付く理由、いや、原動力が無かったのです。


 また、ちょっとした買い物などに外出すると、高い確率で嫌な思いをしていたため、外に出る機会すら大幅に減ってしまいました。三月から六月にかけては、楓とのデートが二回と、この後に説明する病気での通院が六回、五月の楓の裏切りの日、そして最後の事件の日しか外出していません。そう、これが失敗のもう一つの理由です。


 初めに申し上げた通り「理不尽」には必ず相手がいる。裏を返せば、その相手から逃げてしまえば、避けることができるのです。これは盲点でした。家に閉じこもられては手が出せません。まさか我々両親が突然滅茶苦茶なことを言い始めるわけにはいきません。親子関係というものは、得てして多少の「理不尽」を背負うものではありますが、そうは言っても不自然過ぎます。


 以上のように「理不尽」は精神にダメージを与えることはできますが、「崩壊」させるには程遠い結果となりました。この失敗の原因は、我々の側が「逃避」という選択肢に馴染みがなかったためだと分析しています。


 我々は通常、与えられた任務や取り組むことになった課題などに対し、どうにかして達成しようとします。あらゆる可能性を試し、最終的に全てのパターンを検討した上で、それでも達成不能であれば、そのように結論を出します。途中で投げ出すことは、基本的に許されていません。


 しかし、彼はそれをあっさりと選択しました。この実験は失敗に終わりましたが、今後人間の行動を研究するにあたっては、この「逃避する」という特性を含めて検討する必要があるでしょう。


 さて、少し急ぎましょう。次の実験へと移ります。

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