皐月賞(後)
「このレースに賭けてみます」
駒興さんは唐突に宣言した。
そんなこと言っても、ここは競馬場でも
しかし、金銭トラブルは生じさせたくないので、口座があるのか訊いてみると、
「実は、ネットで馬券を買えるって聞いたので、誕生日に手続きはしてたんです」
と、返ってきた。
「でも、予想しようにもどこから手をつけたらいいのかわからなくて……。血統とかタイムの見方とか、ひととおりの勉強はしたんですけど、ハズレが怖くて馬券は買えませんでした」
そりゃ、お金を失いたくないからそうなるわな。
「血統、成績、パドック、調教……。全部挙げてたらキリがないから、無理に全部絡めて考えなくったっていいんじゃないかな。気楽にいけばいいよ。余ったお金で楽しめばいいんだから」
もっとも、これは言った当人ができていないことなのだが。
そんなアドバイスをした後で、当てる当てる。ビギナーズラックなど信じてはいないが、彼女には才能がある。
珍名馬の単勝や複勝1点100円買ってみる、みたいな可愛らしい買い方を想像していたが、流しだけでなくフォーメーション・マルチまで使いこなして当てていた。勉強はしていた、と言っていたが、これに俺は舌を巻くばかり。
「天才はいる」
――悔しいが――と、続けようとしたところで、
「何か?」
元ネタを押さえていないと面白くない発言だったと思い直し、口をつぐんだ。
皐月賞のパドックを見た。みんな仕上げて出てくるから何も分からなかった。
何年も競馬を見ていながらこれである。勉強量や経験が腕前に直結しないから競馬が賭け事として成り立つのだろうが、俺は動物のお医者さんの卵なんだからもう少しなんとかならんのか、と思うところではある。
そして本馬場入場の始まりだが、いつものGⅠとちょっと違うことに気がついた。
「あれ、今回は曲が違うんだ」
皐月賞は八大競走なので入場曲が特別なのだが、今回はさらに特別で、いつもは『グレード・エクウス・マーチ』のところが『スーパー競馬』のテーマに代わっている。全く馬券とは関係のない要素だが、射幸心を煽る……もとい、競馬を盛り上げる舞台装置として本馬場入場曲は欠かせない。とはいえ、ここまで気にして競馬を見ている人間は少数派だろう。
当然、初めての人はひとり盛り上がっている俺についていけずキョトンとしている。
阪神のレースを挟み、皐月賞のゲート裏では出走馬たちの輪乗りが行われていた。
そして、旗振りのおっさん《スターター》がゆっくりと歩いてくる映像が映し出された。
旗を振ると、
「すごい歓声ですね! まるで競馬場が一つになったみたい」
ファンファーレの合間に挟まる「オーイオイ!」とも「ヘーイヘーイ!」ともとれる合いの手に対する感想だろう。
「そうだね……」
確かにそうだ。盛り上がる気持ちは分かる。だけど俺はこれを真似したくない。
*
以下、口に出したいけど抑えた愚痴だ。
近年、少々盛り上がりすぎ、というか盛り上がり方の方向性がおかしいのではないか。
俺は断言しよう。このクソみたいな「オイオイ」と呼ばれる風習は無くなればいい、と。
最後の直線で自然に湧き起こる歓声、アクシデントで自然に発生する悲鳴は分からんでもない。だが、自分が馬券に金を投じていて、その馬の気分を害する可能性のある行為にどうして及ぶことができるのか。俺にはそれが分からない。
「どんな妨害にも屈しないのが一流」そんな意見もあるだろうが……。
競走馬の強さに対する捉え方は人それぞれだ。異論は認める。
それでも俺はこの悪しき風習を許せない。
*
そうこうしているうちにゲートインは進み、全馬揃って、扉が開いた。1番人気・サートゥルナーリアは好スタートを切った。そして6番手くらいの、前が開いたらスっと出られそうな良い位置につけたのをみて、彼を軸に置いた予想をした俺は胸を撫で下ろす。
毎日杯の勝ち馬・ランスオブプラーナが先頭を走りレースを引っ張っていき、1
最後の直線。4角で外から押し上げたヴェロックスが先頭に立つ。これを目標にサートゥルナーリアもさらにその外からスパートをかけた。また、最内からはダノンキングリーが脚を伸ばす。アドマイヤマーズやダディーズマインドも食らいついて来ているが、どうなるか……!?
残り200メートルのハロン棒を通過。
そして、この3頭がもつれ合うようにゴールイン! 俺にはサートゥルナーリアがアタマ差先着していたように見えたが……、果たして判定はどうなるか?
着順掲示板は1着が12番=サートゥルナーリア、2・3着は写真判定と示され、同時に審議の青ランプが点っていた。
俺が持っていたのはサートゥルナーリアからの3連単流し。入線順に確定してくれたら的中するのだが……。
「何があったんでしょうか?」
時速70kmは出ていると思われる最後の直線で起きたことだ。レースを見るのに慣れていないと解らないのも無理はない。
「多分、サートゥルが斜行したからだと思う。サートゥルとダノンの間にヴェロックスが挟まれる格好になったのがまずかったんじゃないかな」
俺だって主催者から発表があるまで断言はできないので曖昧な回答になった。テレビではレースを横から見るため、画面の手前・奥への動きが分かりにくいのだ。
「このあとどうなるんです?」
「もし妨害がなければ被害馬が加害馬に先着していたって判断されると、加害馬は被害馬の後ろに降着。今回だとサートゥルが1着じゃなくなってダノンかヴェロックスの後ろの着順になるね」
降着のルールはうまく説明できん。メジロマックイーンの18着降着とか、今と降着のルールが違うみたいだし、全てを解説できるほど整理しきれてない。
「ヴェロックスからの馬連なんですけど……」
「今のままだとダノンキングリーが2着っぽいけど、もしかするとサートゥルが繰り下げかも」
「それなら当たりですね。サートゥルナーリアは気の毒ですけど……」
こんなやり取りがあったが、結局のところ 1着はサートゥルで確定した。
駒興さんは「外れちゃいましたね」と言うと、トートバッグを手に取って、
「今日はありがとうございました」
メインは終わったわけだし、確かにここが頃合だろうか。
「こっちこそありがとう。
気を遣わせていやしないかと冷や冷やしていたけれども、ふと発したこの言葉は決して嘘ではない。
「頭を使ったのでちょっと疲れちゃいました」
「……ごめん。1日でほとんど全部のレース見るって詰め込みすぎたよね」
この子が何も言わなければ最終レースに突入するところだったのだから、俺は何と気配りに欠けている男なのだろうか。
「先輩のおかげで競馬への理解がだいぶ深まりました! 楽しかったです」
そう言ってくれても、俺は彼女に気を遣わせたんじゃないかという懸念がぬぐえない。
駒興さんが階段を下ったのを見送って、
「さて、最終だ」
終わったことで悩んでも仕方がない。
福島の締め切りは3分後に迫っていた。
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