皐月賞(中)

 中山競馬場のパドック周回を見つつ、駒興こまおきさんが訊ねてきた。

「獣医の勉強したことが、競馬で役に立ったことはありました?」

 きっとこういう質問が来るだろうと思っていた。

「残念ながら、何もないね」

「この1年間で察してはいましたけど……。身も蓋もないですね」

「馬なんかそう簡単に触らせてもらえないし、そもそも授業で動物を扱うことだって学年が上がるまでなかなか無くて」

「そう、ですよね……」

「でも、パドックの見方なら乗馬やってたらきっとわかると思うよ。なんとなくこの馬はカリカリしている、とか歩き方が硬いな、とか、ちょっと太いな……、みたいな感じで」


              *


 偉そうに言うが俺にも確固たる考えがあるわけではない。馬体の評価に関してはその場の雰囲気と自分の気分で決めているだけだ。

 本来はそのレースに出ている馬を見比べた「横の比較」をするのではなく、それぞれの馬について全てのレースを把握し、「縦の比較」をするべきなのだ。


 だが、俺のスタイルでもいいのではないだろうかと思っている。予想に割ける時間は限られている。予想だけじゃない、その勉強に使える時間も限られているからすべてを極めるのは健全な社会生活を放棄しなければ不可能なことだろう。

 パドックで見る馬体は予想のファクターの1つにすぎず、それだけが全てではない。馬体も血統も調教も前走成績も、いずれも過信することなく上手いこと絡めていくのが大事なことだという話である。


 とにかく(当たって稼げて)楽しめるのなら、理屈はどうだっていいのだ。俺の場合は(競馬自体は楽しんでるけど)当たらないし儲からないから問題なんだけど。


              *


駒興こまおきさんは馬を知っているから、競馬についてもすぐいろんなことを吸収できるよ。きっと、俺よりも早く」

 人に話せるような理論も持ち合わせていないくせに、俺は何を偉そうに語っているのやら。


 高説を垂れつつ、買い目をスマホの画面に打ち込み、

「よし、このレースはこうするか」

 なんて言っていると、入力が終わったのは10時4分。すでに投票は締め切られていた。いささか長話が過ぎたらしい。


 話をしていたせいで間に合わなかったのだと駒興さんは申し訳なさそうにしているが、

「気にする事はないよ。何レースもあるんだから」


 買わないと当たる、なんてことはよくある話。そうなったら気まずくなるけど、ここは笑い話で済むことだ。大した払い戻しが想定される馬券なんか買っていないのだから。


 だいたい、人前で笑い話にもできないような賭け方なんかできるもんか。


         ***********


 買いそびれた中山の1Rは中穴どころをワイドで狙っていたのだが、堅い決着。結果的には締切で助かったと言える。


 俺は基本的に本命党とも大穴党ともつかないような(悪く言えば中途半端な)買い方なので、午前中は当てたり外れたりを繰り返した。外れてもそれなりに見せ場はあったし、盛り上がったとは思う。


 とりあえずトントンで済んでよかったと思っている。馬券中毒者が知り合いに対してよく使うごまかしとして「トントンだった」とか「ちょい負けだった」というのが常套句だが、目の前にいる人に対してこの手は通じない。

 

 また今日は一段と腹の減りが早い。駒興さんが競馬への興味を失わないように場を盛り上げながら観戦するのにエネルギーを使ったのだろう。まだ第5レースも始まっていないというのに、まるでメインレースを(外して)終えたときのような気分だ。


 さて、どうしようか。競馬場ならいろんな店があって、レースを見ながらレースを見ながら食事することだってできるのだが……生憎ここはパッとしない男子学生の部屋。冷蔵庫の中にもメシの材料は無くて、どのみち外に出るしかない。

 俺はこの娘の好みなんか分からない。そもそも外食するにしたって近所の定食屋だのラーメン屋なんかをローテーションしているばかりで、まともな選択肢などありはしない。

 

「昼になったし、どこか食べに行こうよ。何か食べたいものはある?」

 何はともあれ訊いてみるしかない。リサーチ不足で申し訳ないが。

「レースはいいんですか?」

 駒興さんは俺が気を遣っていると思ったのかもしれない。

「これから第5レースまではちょっとお昼休みだし、メインの皐月賞まで先は長いから食べに行っても間に合うよ」

 このままぶっ続けだと身がもたないと話すと駒興さんは俺の提案に納得して、

「そうですねえ……」

 首をかしげながら頭を働かせていた。


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