競馬を語る

 誰にも声をかけられることなく下りてくることができた。


駒興こまおきさん、ご飯でも食べに行かない?」

 もうじき夕飯時になることだし、話の続きをそこでしようと思って誘ってみた。


「お酒を飲んでみたいので居酒屋に行きたいです」

 意外な一言だったが、期待には答えねばなるまい。


「りょーかい」


 返事したのはいいが、どこの店に行くという具体的な案はない。とにかく知り合いと鉢合わせようなところにしなければならない。見つかって邪魔されてしまってはかなわん。


 まあ、あと数時間は公園で酒盛りに興じていることだろうから、どこに行ったとしても安全だと思うが。


   *

 

 およそ10分くらい歩くと、歓楽街に入る。その大通りから一本入ったところに『無頼庵ぶらいあん』という店がある。


 料理も酒も美味くて安い。それにもかかわらず客の柄も悪くないし、たぶんここならお気に召してもらえるだろう。


「ここにしようか」


「はい。おしゃれなお店ですね……よく来られるんでるか?」


「時々、かな」


 引き戸を開けて暖簾をくぐると、個室に通された。


 俺はいつも一人で来てカウンターで飲み食いしているのだが、マスターや隣の客と語るわけでもなく、傍から見ればいかにもな「ぼっち」呑みである。


 そんなわけで、俺が後輩を伴っているのを見たマスターや顔見知りのバイトの表情に驚きの色が浮かんでいたのは気のせいではあるまい。


 お酒のメニューを指さして、駒興さんは俺に尋ねた。


「どれがおいしいですか?」


「うーん、あまり酒には詳しくないからなあ……」


 悲しいかな、俺は酒の知識に疎い。好みにも偏りがあるから知らないものの方が多い。バーでバイトでもしていればよかったのだろうが、この性格で客商売はしたくない。


 どういった味のものにしようか思案していると、


「では、先輩は何をお飲みになりますか?」


 煮え切らない俺に対して、駒興さんは質問を変えてきた。


「ビールにしようかな」


「わたしもそうします。『とりあえず生で』っていう習慣にも興味ありますし」


 無理をさせてしまったかもしれない。



 程なくして、冷えたジョッキに注がれたビールが運ばれてきた。

 さっそく乾杯して、ビールをごくりと飲み込む。

「けっこういけますね。この苦みには口直しが欲しい気もしますが」

 駒興さんは初めての酒に対する感想を口にした。

「そんなもんさ。ほら、ちょうどいいタイミングで料理が来たよ」

 ビールと同時に頼んだ大根サラダが来て、それから堰を切ったように料理が運ばれてきた。


 酒を飲みつつ飯を食っていると、話に花が咲き始めた。


「先輩はいつから競馬を知ったんですか?」


「親父が見てたから何となく見てたね。たぶん中2くらいだったかな。まあ確実に言えるのは……のめり込むきっかけを作ったのはこの馬だね」


 語りながらある栗毛馬の写真をググって見せる。画像フォルダから探してもよかったのかもしれないが……まあ、見られたくない画像の1つや2つくらい、誰にでもあるだろう?


「きれいな馬ですね……『オルフェーヴル』ですか」


 彼は歴史的名馬にそぐわない表情をよく見せる。


「かわいい顔してるでしょ。でもね、こいつはメチャクチャ強いんだよ」


 そう言って引退レースの有馬記念ありまきねんの動画を見せた。


「ずいぶん後ろの方を走っていますけど、これで勝てるんですか?」


 第1コーナーのあたりでは、彼女の表情に疑いの色が見て取れた。


「まあ見てなって」


 オルフェーヴルは第3コーナーあたりから捲っていき、第4コーナーで先頭に立って8馬身差をつけて勝つのだが、オルフェが前に出るにしたがって駒興さんの表情も明るくなっていった。


「すごい、ぶっちぎりじゃないですか!」


 駒興さんの目が輝きだした。


「だけど、この馬の魅力はこの速さだけじゃない。これも見てもらいたい」


 次は阪神大賞典はんしんだいしょうてんの動画を見せる。


「今度は先頭に立つのが早いんですね……って、ええ!? コースアウトしてませんか?」


 オルフェーヴルの逸走に対して、駒興さんは予想以上に感情移入して狼狽えていた。


「まだレースは終わってないよ」


 そう言いながら俺は口角が上がってしまうのを止められない。この映像は何度見返したことだろうか。結末は分かっているのに、怖いもの見たさで繰り返し見てしまうのだ。


「………………」


 駒興さんは開いた口がふさがらない様子だった。競走中止みたいな止まり方をしておきながら再加速して、先頭に並びかけたのだから無理もない。


「これが『オルフェーヴル』という馬だ。俺がこの馬に惚れ込んだ理由、お分かりいただけたかな?」


「はい、レースを見てこれほど驚くなんて、正直思っていませんでした……」


 俺もそうだった。共感してくれて実に嬉しい。


「わたし、『ディープインパクト』って馬の名前は聞いたことがあったんですけど、オルフェーヴルとどちらが強いのでしょうか」


 これは抱いて当然の疑問だとは思うが、難しい質問だ。ハッキリ言って答えに困る。けれども、駒興さんは身を乗り出して俺の目をじっと見てくるものだから、話題をそらすことができない。


「禁断の話題に触れてしまったね、駒興さん」


 だが、ここは敢えてわざとらしく不敵な笑みを浮かべてみせる。


「えっ、それはどういう意味でしょうか……」


 当然、駒興さんは首をかしげる。


「時代が違うから単純に比較できないのさ。馬場のコンディションだって違うし、一緒に走ってる他の馬との位置取りの違いなんかも出てくる――これが最強馬論争の難しいところでねえ……同じ時代に一緒に走っていた馬ですら意見が分かれて、某掲示板では20年くらい論争が続いてる馬もいるよ」


「そうなんですね……」


「オルフェはディープほど戦績が綺麗じゃない。ボロ負けしたことだってある。それでも俺はこの馬が最強だったと信じてる。平均値をとったらディープが勝つんだろうけど、『最大瞬間風速』で言ったらオルフェの方が強いんじゃないかと」


 長々と語って喉が渇いたので、俺は残っていたビールを飲み干し、なるほど、と言って駒興さんは俺に倣ってジョッキを空にした。


 俺は芋焼酎の水割りを、駒興さんはファジーネーブルを追加注文して、競馬談義を再開した。


「どの馬が一番強いかを考えるのも面白いんだけど……俺は競馬で馬券以外の楽しみ方をするとしたら、一番面白いのは血統を考察することかな、って思う」


「血統、ですか」


 これは意外な答えだったのか、駒興さんはキョトンとしていた。


「血統表にある名前だけ物語が広がっていく気がするんだ。その馬自身のエピソードから両親、祖父母……そういったご先祖様たちにも物語が広がるわけよ」


「その血統が馬の力に影響を及ぼすんですね」


「そうだね……まあ遡っても遡ってもキリが無いけど、見てるといろんな発見があって面白いものだよ」


「血統って、奥が深そうですね。それだけ膨大な知識についてどうやって先輩は勉強なさったんですか?」


「勉強ってほどのものじゃないよ。元々は馬券に役立てようとして色々調べていたんだけど、ネットの情報を拾ったり、目についた本を買って読んでみたりしてた……とはいえまだまだだね。俺は5代までしか追えてないけど、8代くらいまで遡る人もいるし」


 駒興さんは困惑した表情をしていた。血統については馬券を買ってからでないと興味を持ちにくいだろうし、理解するのが難しいかもしれないな、と反省した。



 もう3・4杯ずつ呑んだだろうか。

 かれこれこの店に2時間くらい滞在しているが、だいぶ酔いが回ってきている。

そろそろお開きであろうか。


「先輩は明日も競馬をするんですか?」


 さっきより小さな声で、駒興さんは恐る恐る探るように訊ねた。

「うん、そのつもりだよ」

「朝からでしょうか?」

「ああ、そのつもりではいるけど……」

 これではまるでギャンブル狂だな。他に予定はないのか、と突っ込まれてもおかしくない。

「もしよろしければ、ご一緒に観戦させてください! 解説も聞きたいです!」

 意を決したように、駒興さんの声が大きくなった。

「よしわかった、10時くらいに俺の家で」

 こうして明日も会う約束を交わしたのだが、まさかこういう流れになるとは。


    *


 ここの勘定は俺が持った。駒興さんはやはりこれを固辞して割り勘にしようと申し出てきたのだが、「誕生日祝い」ということでどうにか押し切った。後輩にいい顔をしよう、という考えよりも、いきなり飲みに誘ったことへの補填がしたかったのだ。


 そういえば初めて後輩に飯を奢るのは初めてのような気がする。まあ、後輩とまともに喋るのも久々だし仕方ないのだが。



 一人で帰らせるわけにはいかないと思って、駒興さんについていった。


 ついていった後何か良からぬことを、などという下心は(まあ、信じちゃもらえないだろうが)微塵もなかった。競馬の魅力を広められたつもりで自己陶酔していたからだ。


 繁華街を脱出するまでの間、柄の悪い奴に絡まれやしないかと俺は内心びくびくしていたが、それは杞憂だった。


 初めて酒を飲んだと言っていたが、駒興さんは酔っているとは思えない様子だった。むしろ頭の中がふわふわしてきている俺の方が危なっかしく思えた。


 繁華街を抜けて大通りでバスに乗り、大学の正門で下車した。


「こっちです」


 先導する駒興さんに俺はついていった。ボディーガードのつもりでついてきたけれど、先に行かせちゃ意味ないな……。


 駒興さんの部屋は大学にほど近い、いかにも家賃の高そうなオートロックのマンションだった。しかも女性限定物件のようだ。


「階段、上れる?」


「だいじょうぶです」


 まあセキュリティからして、男が入っていくのもアレか。


「また明日、よろしくお願いします。おやすみなさい」


「うん、おやすみ」


 背を向けて帰っていくのを自動ドアの手前から見送った。


 駒興さんの後ろ姿が消え、ふと我に返る。


 ……さて、部屋を片付けないと。

 

 

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