第3話
仕事中、いきなりだった。
「何をやっているんだ!」
上司が怒鳴っていた。
「え?」
誰に言っているのかわからなかったが、目が僕を見ていたものだから、反射的に答えてしまった。
「は、い?」
「今それをポケットに入れようとしただろう。!」
「は?」
手に持っていたものは、職場の備品だった。
こんな物持って帰ってどうするのだ、僕が盗むわけがない。
最近備品がよく紛失すると、皆が話していたのは聞いた事があった。いろんな話題の中の一つとして特に気にもとめてはいなかった。
その犯人が僕だと彼は言っているのだ。
「冗談じゃない!僕はそんな事してません」
「ポケットの中を見せてみろ!」
悔しくなって、エプロンのポケットの生地が裏返して外側にベロンと出るくらい引き出して見せた。たくさんの埃やらクズが落ちていった。
それを見ながら、周りは何やらコソコソと話し出し、僕は目眩を感じてその場でよろめいて棚に手をついた。
「どうした、大丈夫か?
何も取ってないんだな、
そうか、わかった。
まぁ、気をつけろよ。」
と、謝りもせずに去って行く。
周りの皆も、何事もなかったように業務を始めた。
誰がそんなでたらめを吹き込んだのだろう…嫌な気分でたまらなくなった。
今日は、あの二人、というかお婆さんと猫だから一人と一匹か…は、いるのだろうか。
期待している自分が可笑しくなった。
いたところで撫でるでもなく、何をするわけでもないのに、いて欲しいような気がしたのだった。
いた!
お婆さんの背中がいつも以上に丸く見えた。屈伸運動でもしていて前に倒れてしまいそうなほどの曲がり具合で昼寝をしていたのだ。
そして相変わらず、猫はそばにいた。赤いリードに繋がれて、昼寝から今目が覚めたところらしく、大きなあくびを一つして、舌でペロンと口の周りをひと舐めしてから、左の前足で顔の毛づくろいを始めていた。
僕は、また隣のベンチへ腰を下ろし、その仕草を眺めていた。
「器用なもんだな。それで綺麗になってるのかい?。」
「当然よ!」
とでも言っているように、片目で僕をチラ見した。
少し雲が多くなってきた。さっきまで晴れていたのに。
確か今朝の天気予報では、午後「一部地域では雨の可能性」の予報も出ていたようだ。
そのせいかは分からないが、毛づくろいは念入りに続いた。しばらく眺めていたが、雨が降らないうちに帰らなくてはと席を立った。
それからも、度々僕と猫の共有時間は不定期に続けられた。
お婆さんの耳がとっても遠い事が暫くしてわかった。公園を散歩している人が話しかけているを見たときに、全くといって良いほど会話が成り立っていなかった。大声で叫ぶように話しているところを何度か見かけたのだった。
だから、僕はお婆さんが起きている時でもベンチに座って、聞かれる心配がないという安心感から猫にいろいろ話しかけるようになっていた。
仕事の愚痴も聞いてもらった。必ずといっていいほど、聴き終わった最後に僕の足元に甘い声で鳴きながら擦り寄ってくる。
慰めてくれてるのかな…
ある日、いつものようにベンチに座りながらつぶやいた。
「僕は、間違っているのかな…」
猫は僕の顔をしっかりと見ていた。
「煩わしい事が嫌いだったんだ。今までずっと繋がりを避けてきた。それでいいと思ってきた。なのに、最近虚しくなってきたんだよ。そんな風に思った事がなかったから、戸惑っているんだ。どうしたらいいのか…」
「本当は、わかってるんじゃないの?」
と、声が聞こえたような気がした。猫は、僕の足にすり寄っていた。
「わからないよ…僕には…」
そう言いながら柔らかい毛を撫でていた。
猫と会うたびに、心の尖った角が少しずつ削り取られていくような気がしていた。
その効果が顔に出ているのか、最近職場で挨拶をされる事が多くなっていった。僕も、以前はあんなに嫌だったのに、ちゃんと返せるようになっていた。まだ、笑顔まではいかないけれど。
不思議だった。
どうすれば良いのか分からなかった事が、自然にできてしまっている。
みんなあの猫のおかげなのかな。
もしかしたら、あのお婆さんは魔法使いで、猫はその使いなんじゃないかと、勝手な想像をしてみた。満更嘘ではないかもしれない。
共同作業中、僕はそばにいる人に話しかけていた。
「先にやるのはこれですよね!」
「あ、ごめんなさい、置く場所間違えました。こっちが優先なので…」
「ありがとうございます。」
「いえいえ!」
こんな会話が以前できただろうか…なんて簡単な事だったのだろう。
皆の態度も明らかに変わってきた。休憩時間に、ある人がお菓子のおすそ分けをくれたり、今度飲み会をしようと思ってるから一緒にどうかと誘ってくれたりしたので、本当に魔法の威力なのかな。
一番の変化は、人と関わることが煩わしいと思う気持ちが無くなっていたことだった。
魔法使いか…あのお婆さんなら黒いフード付きのマントが魔女って感じで似合いそうかも。背中の曲がり具合が絶妙だな。使いの猫はやっぱり黒猫だよね。あの猫は赤茶だからちょっと雰囲気が出ないかなぁ。なんて想像してみては楽しくなっていた。
そんな、ある日の事だった。
いつものそのベンチに花が置いてある。
僕はその花が気になって気になって
近くを通った散歩の中年男性に声をかけていた。
「ああ、それ?いつもそこにいたお婆さんが亡くなったらしいよ。僕も人から聞いたんだけどね、家は目の前のあの平屋らしいよ」
あの優しそうな笑顔のお婆さんが亡くなったなんて。信じられない。魔女が死ぬなんてあり得ない。
フラッとその家の方に行ってみた。閉ざされた玄関に「忌中」の紙が貼ってある。同じような紙を昔見たことがあった。僕の大叔母が亡くなった時田舎の家でみたのだった。今時には珍しい事だったが、お婆さんに家族がいるのであれば、きっとその方も高齢なのだろうと想像ができた。
猫は?
猫はどうしたのだろう。
家は、外から見た限りでも暗く静かに閉ざされて、人は中にはいないようだから、そっと人に寄り添うのが好きなあの猫が一匹でいるとは思えなかった。
誰かと一緒にいるのであれば良いのだろうに、もし、誰もいなくなってしまったとしたら…そう考えたら胸が締め付けられた。僕は、飼うことはできないから、図々しく「ください」なんて言えるはずもない。
何日かした雨の日、僕はリードに繋がれていないその猫を公園の隅で見かけた。もしや、捨てられたのではないだろうか。
猫は泥まみれで、見事な毛並みもバサバサになり見るも無残な姿だった。
それを見たら涙が出て来てたまらなくなった。
「どうしたんだ。行くところが無くなったのか。」
そう、声をかける僕の声は震えていた。
汚れるのなんてお構いなしに抱き上げ、
「こんな冷たい雨の中で…可哀想に…」
上着を覆いかぶせて包み込み更に強く抱きしめた。
暫くして「にゃぁ」と、弱々しく泣き始めた猫は、その後は溢れ出したように泣き続けた。
僕は拭いても拭いても流れ出す涙を、もう拭くこともしなかった。
「家に帰ろう。僕の家に。」
第3話へ続く…
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