第180話 俺が、君にふさわしい男になったら
炎が飛び散る。町が燃え始めた。
サリーさんは座り込んだまま空を見上げ、歌った。にわかに空がかき曇り、大粒の雨が降り出す。着火剤を使っている焼夷弾の炎は消え切らなかったが、延焼は最低限に抑えられそうだ。
続いて霧が出てきた。目の前も見えないような濃い霧に、戦車のキャタピラの音が止まる。
「ただの雨と霧だから、どれだけ足止めできるかわからないけど」
サリーさんが呟く。もう、その魔法がやっとなのだ。
歩く力もないサリーさんを助けながら手探りで進み、2人で濡れた階段に座って身を寄せ合う。
雨宿りしたって仕方ないような雨の中、深い霧に包まれて、俺とサリーさんは2人きりになった。
「雨が止んだら、私の魔法は終わりよ。もう何もできないわ」
サリーさんがうつむいた。時々辺りを探っているような、戦車の軋む音がする。
「今ならまだ逃げられるわ。クロノ、行って。私はできるだけ雨を降らせるから。今、霧を見通す目の魔法を」
魔法をかけようとしたサリーさんの手を、俺はそっと止めた。
「行かない。一緒にいるよ」
「行って。私ね、他の誰よりも、あなたに助かってほしいの」
「行かない。俺も本当は、サリーさんだけ助かってほしい」
サリーさんは少し笑って、俺の胸に頬をくっつけた。
「こんなこと、人に聞かせられないね」
「誰も聞いてないよ。みんな避難したはずだ」
「クロノにも逃げてほしいのに。でも、嬉しい」
サリーさんが指を絡めるようにして俺の手を握り直し、呟く。
「中止命令、まだかな」
サリーさんの手は雨で冷えて冷たくなってしまっている。俺は少しでも雨が当たらないように、サリーさんの肩を抱いた。
戦車はまだおとなしくしているようだ。あちらこちらで時々、砲塔が動く音が霧の中から聞こえる。
「もう、間に合わないのかな」
ひとりごとのようなサリーさんの声に、俺は答えずに空を見た。雨はまだ激しいが、少しだけ弱まり始めたようにも感じる。
サリーさんはまた少し歌った。サリーさんの歌声はきれいだが、どこか悲しい。
「怖いよ、クロノ」
歌をやめ、サリーさんが俺にしがみついた。もう疲れ果てているのか、その手の力は弱い。俺はサリーさんを抱きしめた。
「一緒にいるよ」
言いながら、しかし俺はサリーさんをどう置いていこうか考えていた。
ここは安全だろうか。戦車が動き出したら、建物が崩れたら、火があがったら。
俺は戦車の砲身を剣で切ることを考えていた。俺が戦車を無力化するなら、それしか方法はないんじゃないか。
深くは考えない。だって考えれば考えるほど無理だとわかってしまいそうだから。
だが、この剣なら。俺は無理やり期待した。
サリーさんのお祖母さんと、王様が使ったこの剣。王様のサリーさんを守りたいという思いが託されたこの剣なら、状況を切り拓いてくれるのではないだろうか。
サリーさん、一緒にいたい。一緒に死ねるのなら、それはある意味、俺の最高の幸せだ。
でも、それだけは絶対にさせない。サリーさんは何があっても、守る。
「サリーさん、やっぱり広場に戻ろう。雨が上がったら、ここでは逃げ場がなくなるかもしれない」
「うん」
俺は空を見上げて言った。サリーさんは素直にうなずいた。雨がまたさらに弱くなってきた。
サリーさんが霧を見通す目の魔法をかけてくれた。
魔法は弱く、視界は少しだけマシになったくらいだった。サリーさんの力ももう殆ど残っていないのだろう。
手をつないで、燃える湖の音を頼りに霧の中を進む。霧はまだ濃く、砲塔は動いても、まだ俺たちに狙いを定めることはなかった。
サリーさんの足取りが重い。
「サリーさん、抱っこしていい?」
「うん」
俺は許可を得て、サリーさんを横抱きに抱え上げた。初めてのお姫様抱っこは、付与魔法のおかげか意外と簡単だった。
俺はサリーさんを抱いて、足を早めた。雨が弱まっている。
「私、クロノのお嫁さんになりたかったな」
「え?」
俺の首に手を回したサリーさんが囁く。足が止まりそうになった。思わずサリーさんを見てしまう。
ものすごく至近距離だ。
サリーさんは大きな瞳で真っ直ぐに俺を見つめた。
「ねえクロノ、無事に帰れたら、私をあなたのお嫁さんにして?」
サリーさんは笑おうとした。しかしうまく笑えず、顔を隠すようにして俺をそっと抱きしめた。
俺は少し足を止め、サリーさんに寄り添った。
「……うん」
俺がうなずくと、サリーさんは俺を抱きしめたまま、驚いたように体を固くした。
俺はすぐにまた歩き出した。雨が弱まり、霧が流れ始める。
言葉を続けない俺に焦れたように、それでもはっきりさせるのが怖いかのように、サリーさんが俺の耳元で小さく囁く。
「クロノ、本当?帰れたら私を、あなたのお嫁さんにしてくれるの」
「うん」
俺は歩きながら答えた。
「もちろんだよ、俺が君にふさわしい男になったら」
「何それ。あなたが言うの?」
サリーさんがやっと笑う。俺も笑った。
「もう、十分ふさわしいと思うんだけどな」
サリーさんが甘えるように頭をこすりつけて笑う。俺も笑いながら、俺の言葉で元気が出たなら、もしかして少しでもサリーさんの魔力が回復したりしないかと願った。だが、残念ながらそんなに甘くはないようだ。
広場に着き、サリーさんを下ろす。
湖はまだ燃えている。ここまで来ると炎がぼんやりと見え、燃え盛る熱が近い。
サリーさんが離れないので、寄り添って座り込んだ。
「クロノはどんな人なら私にふさわしいと思うの?」
「そうだなあ、若くてカッコよくて優しくて頭が良くて、サリーさんのことを何よりも大事にしてくれるお金持ちの王子」
「そんな人いないよ。いたらもう誰かのお婿さんだわ」
流れるように答えたら、サリーさんが吹き出した。
「いると思うけどなあ。サリーさんみたいな掘り出し物が。探すよ」
「褒め言葉だか失礼なのかわからないわ」
サリーさんが笑いながら俺を見つめた。
「私はあなたがいいのに」
サリーさんがそっと俺を引き寄せる。俺も逆らわず、求められるままキスをした。今はふたりきりだ。それなら、恋人なら、別れる間際にはたくさんキスをするだろう。
「好きだよ、サリーさん」
「私も、クロノが好き」
キスの合間に告げると、サリーさんも笑顔で答えた。雨に濡れた唇が冷たい。心配になる。風邪を引かないでほしい。
霧の流れが見える。じきにもっと薄らぐだろう。今はそれでも視界はまだ1メートルもないけれど、戦車の砲塔がよく動くようになってきた。音が切れ間なくするようになってきたから。
「じゃ、行くよ」
「えっ?」
このまま戦車が来るに任せると思っていたらしいサリーさんが、驚いて俺を見た。俺はサリーさんを離して走り出した。優しい手を振り切るには、勢いが必要だ。
俺は足を止めずに振り返った。いくらも離れていないのに、霧を見通す目で見ても、サリーさんの姿はもう霧に霞んでぼんやりとしか見えない。
「待って!」
「やれるだけやってみる。待ってて」
「いや!クロノ、行かないで、一緒にいてくれるって言ったじゃない!」
サリーさんが叫び、立ちあがろうとしてよろけた。
「待ってて、ダメならすぐに戻ってくるから」
俺はわざと明るく言った。もちろん、すぐに諦める気はない。
俺の背中に、サリーさんが叫ぶ。
「絶対に帰ってきて!約束したわ、私をあなたのお嫁さんにしてくれるって!」
「俺が君にふさわしい男になったらね!」
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