第144話 マッパ!!!!!

 罠を仕掛け終えたら変なくしゃみが出た。眠っていたサリーさんが目を覚ましそうになり、慌てて脱衣所に向かって走ったらタオルが取れた。


 俺は安堵のため息をついた。タオルがついにはらりと落ちたのがここで良かった。

 脱衣所に飛び込んだ途端だった。それは扉を閉めるか閉めないかのうちではあったが、この部屋には眠るサリーさんと俺しかいない。俺の尻を拝むハメになった不運な人間はいなかったということだ。俺にとって幸いなことに。


 やはりタオルは保持力に非常に問題がある。最後の一枚として、尊厳を守る砦として、残念ながら信用はしかねる。

 パンツが恋しい。あの安定感はまるで空気のように、なくして初めてわかる、なければならないものだった。次に履いたらもっともっと感謝する。


 罠を仕掛けたことで、少し安心した。

 ただ裸で待っていても寒いし、せっかくだから風呂に入ろうか。シャワーを浴び、湯船に浸かれば、パンツがなくて当然と思える時間を過ごせるはずだ。そうして何とかパンツが戻るまでやり過ごせれば。

 俺は浴槽にお湯を張ることにした。

 お湯を出すと、音で侵入者に気付けない。俺はお湯を張りながら、脱衣所の扉を細く開けて入り口を見張った。そういえばそろそろ二十分は経つと思うんだけど、トミヨ君たち、まだかな。


 お湯が貯まったので蛇口を止め、再度入り口の方をよく確認してから風呂に入る。念のため、扉は全て細く開けておいた。

「……あー」

 あったかーい。

 俺は思わず手足を伸ばした。寒かったなあ。

 それでも誰か来たらわかるように極力音は立てず、警戒は怠らなかった。だって俺しかいない。遅いなあ、あいつらめ。


 ずっと浸かっていたいくらい気持ちいい風呂だったが、俺はそこそこで切り上げて風呂を出た。部屋の方に変わった様子がないことを確認し、また脱衣所から見張りながらお湯を抜く。起きたらサリーさんも使うかもしれないからきれいにしておかないと。

 服さえあればなあ。

 元の世界ですら縁遠い場所だったのだ、異世界でこんなところにくる機会なんてもう二度とないだろう。せっかくだからいろいろ見ておきたかったなあ。何の役にも立たないだろうけれど。

 俺は風呂を軽く流した。あとは服さえ来てくれれば。


 ……そう思ってからですら、もう二十分は過ぎたはずだ。何が超特急仕上げだ、二十分で終わるだ。終わらないじゃないか。

 俺は立っているのにも疲れて、体を拭いて湿ったバスタオルを床に敷いて座った。もう体が冷えてきている。

 寒い。

 服、まだかなあ。

 膝を抱えていたら悲しくなってきた。何で素っ裸にされて、こんなに待たされなきゃいけないんだろう。


 その時ようやく、かちり、と鍵の開く音がした。俺はおかえり、と声をかけようとしてはっとした。

「……誰もいないようっすね」

 部屋をのぞき込んだ黄土色の制服の男が、部屋の外に向かって声をかける。トミヨ君ではない。

 俺は偶然、その男が反対側を向いている時に顔を出したので、見つからなかったようだ。俺は音を立てないように気をつけながら急いで脱衣所を片付け、扉の影に隠れて様子を伺った。


「姫殿下だけっす。よーくお休みっすよ」

 男は数歩だけ部屋に入り、伸び上がるようにしてベッドを確認すると下品な笑い方をした。風呂場は確認すらしないようだ。ヨスコさんが絶対にしない、させない奴。この黄土色、きっとこいつは大した腕でないか、うぬぼれ屋だ。

「そうか、わかったからお前は早く出ろ、僕の妻だぞ」

 廊下からきんきんと甲高い声がする。あの声は。


「いいな、僕が呼ぶまで誰も来るんじゃないぞ。外で待機だ。セーラレインは僕のものだ、あの声も聞かせたくないからな。時間がかかるかもしれないぞ、気を抜くなよ。特にあのメガネは絶対に近づけるんじゃないぞ!」

 叫びながら黄土色の男と入れ替えににゅっと顔を出したのは、やはり王子だった。俺はもうここにいるけどな。

 王子は部屋の鍵を掛け、いそいそとサリーさんの眠るベッドへ向かった。俺はそっと投石紐スリングと剣を取った。あの野郎、何かしでかしたら斬る。

 俺はそっと脱衣所の扉の後ろに立った。


「セーラレイン、やっとこの時が来たね!」

 王子はくるくる踊りながら歌うようにひとりごとを言っている。その間にネムリイバラの罠がひとつかわされてしまった。

 そういえばネムリイバラって、どれくらい即効性があるんだろう。確認するのを忘れていた。俺は剣を握りしめて後悔した。そんな大事なことを忘れるなんて。毒が回るまで時間がかかったら意味がないじゃないか。

 やっぱり斬るしかない。俺は剣をそろそろと抜いた。


 刃が露わになる。

 これで、人を。


 俺は急に怖くなった。

 ここまできて。自分の尻を蹴りたいくらいだが、体が震えて汗が吹き出す。

 大切なものを守りたいなら、覚悟を決めなければならない。取り返しのつかないことになるなら、大切な人を犠牲にするより自分が苦しんだ方がマシだ。

 わかっているのに体が動かない。心臓が耳元で打っているみたいだ。汗で手が滑る。俺は腰に巻いたタオルで何度も手を拭った。


 王子が鼻歌を歌いながら金色の服を脱ぎ始める。

「うひひ、セーラレインのお味は、どんなかなっと」

 たるんだ腹と品のない言葉に、殺意がよみがえった。それがスイッチになったかのように恐れが消え、震えが止まり、煮えたように熱かった頭の芯が冷えていく。

 俺は汗を拭ってタオルをそっと床に置いた。動きの妨げになりそうなものは身につけない。


 俺の身上は不意打ちだ。大した腕がなくても守りたいものを守るには、それしかない。

 不意打ちを成功させるには、迷わないこと。以前、カズミンがそう教えてくれた。

 決めたらやる。やり抜く。そして、一撃で決まらなくても諦めず、攻撃を続ける。間を置かず、相手に考える隙を与えない。何が起こったかすらわからない内に容赦なく叩きのめす。


 卑怯でも何でもいい。そうしなければ俺は俺の大切なものを失うのだ。


 俺は細く息を吐きながら、自分の体を確認した。剣を握る手、裸足で踏み込む足。メガネは、呼吸は。

 人を斬る腹は据わったか。

 改めて考えるとやはり怖い。しかし、この恐怖は超えられると思う。超えられなかった時の方が恐ろしいから。

 俺が躊躇したせいでサリーさんに何かあったら、怖い思いをさせたら、取り返しのつかない傷を負わせてしまったら。


 俺は再度、細く長く呼吸した。

 最後のネムリイバラが王子を止められなかったら、斬る。

 サリーさんが寝返りを打ったようだ。布団が少し動いた。俺は息を飲んだ。その辺りにネムリイバラがあったはずだ。


「セーラレイン、怖くないからね。僕が優しーく教えてあげる」

「……ん……」

 サリーさんがまた少し動く。王子がぼふ、と布団に手をかける。俺は祈った。ちょうどその辺りにネムリイバラを仕掛けてある。動いていなければ、即効性があれば。


 王子がベッドに膝を乗せた。ベッドが軋む。

 俺は短く息を吸い、止めた。

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