第142話 いかがわしい宿にて(エロはありません)
そこは何というか、ひどくいかがわしげな宿だった。
到着したと言われるまで、俺たちはそこを素通りするつもりでしかなかった。
え、ここ?
この湖は観光地らしく、可愛らしいホテルがあちこちにあったのに。その中でもとりわけ薄暗い裏通りの奥まったところにある、ピンク色がきつい、景観に合わない建物が目的地だった。黄土色の女性が怯んでいる。
「ダメよ、姫殿下をこんなところにお連れできないわ」
「休憩料金が設定してあるから、他のところで休むより安いんだよ。設備も色々整ってるし」
「設備?」
尋ねられて、案内してきた男性が口籠る。俺も察する。
王子の癖にケチで、こんなことにばかり通じているのか。本当に嫌な奴だ。
しかし他に当てはないのでそこで休むことにした。サリーさんの体が冷え切ってしまっている。
俺たちは部屋にサリーさんを運び込んだ。
中は意外とさっぱりとして小綺麗で、女性が抵抗感を覚えるほどのいかがわしさではなかった。設備もベッドやお風呂が広めなくらいで、それ以上過度な充実はしていない。胸を撫で下ろす。
ベッドの上には2組、タオルとバスローブが置いてあった。避けてサリーさんを寝かせようとすると、黄土色の女性が俺を止めた。
「姫殿下のお召替えを。濡れたままでは風邪を引いてしまわれます」
それもそうだ。だが、それは俺たちには手伝えない。
「サリーさん、起きて。着替えられる?」
「うん」
サリーさんはふにゃふにゃと答え、あちこちな手つきでボタンを外し始めた。黄土色の女性が悲鳴を上げる。
「いけません姫殿下!私がお手伝いします!あ、あなたたちは出ていって!早く!」
俺たちは部屋を飛び出した。
部屋の外に出た途端くしゃみが出た。
「大丈夫ですか」
「だ、大丈夫」
ほっとしたら途端に寒くなってきた。俺は震えながら青年に頭を下げた。
「助けてくれてありがとう。お礼が遅くなってごめん」
「いえ、俺もまさかクロノさんだとは思いませんでした」
彼はトミヨ君と名乗った。当然だがいつキシの愛読者だという。
「俺も本当は城に勤めたかったんです。でも俺の時はちょうどいい募集がなくて、ヤード家に勤めました。だけど今朝、早番で出勤してすぐ今日の仕事のことを聞いて、俺、魔女の騎士団はやめなきゃいけないと思った」
トミヨ君はそっと自分の剣に触れた。
「でも、クロノさん。俺、俺、クロノさんを助けたんだ。魔女の騎士団でいてもいいよね」
トミヨ君が必死に俺を見つめる。青年とは言えまだ幼さの残る顔に、俺は笑いたいのをこらえてうなずいた。彼くらいの年だとまだ、アイドルが神様なのだろう。その真剣さは笑ったらいけない。でもおかしい。
「魔女の塔に行く時、クロノさんが出かけてるって聞いて、どうしようと思ったんだ。さっきいつキシを見たら西北部国境警備隊の奴らが写真を載せてて、クロノさんが名誉騎士団長になったことが書いてあった。クロノさん、もう絶対に間に合わないと思った」
トミヨ君が独白する。国境の彼らと違って、彼はひとりでいつキシを読んでいるらしい。話せる相手をようやく得て、止まらないようだった。
「仕事だから、でもこんなことになっちゃって。いざとなったら俺が姫魔女を助けるしかないって思った。でも俺そんなに強くないし、どうしようと思ってたら、やっぱりクロノさんは来てくれた。名誉騎士団長はすごいです」
その呼ばれ方、嫌だなあ。トミヨ君の熱い眼差しには申し訳ないけれど。
「そんなじゃないよ、トミヨ君がいなかったら死んでたよ。本当にありがとう」
ともかく俺は心から感謝した。トミヨ君がそんな、とはにかむ。
トミヨ君は体格も良く、黙っていればいかついくらいだけれど、笑うと少年のようだ。本来ならこんなことに加担することのない、正義感のある素直な子なのだろう。
そこにつけ入るようで心が痛むが、俺は尋ねた。
「ところでトミヨ君。ヤード公からどんな指示が出てる?教えてもらえないか」
作戦を外部に漏らせないのは承知の上だ。しかも俺は彼に見返りを何も用意できない。
しかしトミヨ君は自分が漏らしたことを口外しないよう念を押しただけで、自分が知り得た作戦の詳細を語り始めた。
いつもはヤード邸の警備をしているトミヨ君だが、今朝は普段ヤード邸では見ないような者まで集められた。彼らは特動隊と呼ばれていて、金のためなら何でもやる男たちだという噂だった。
そしてトミヨ君たちは魔女の塔の襲撃、表現としては婚約を破棄されたことを恥じ入るあまり、改めての求婚に素直に応じられない内気な姫魔女の保護、に参加することになった。
トミヨ君たちは特動隊の援護を命じられた。と言ってもあくまで何かあればということで、特動隊はみるみる塔から姫魔女を連れ出した。
トミヨ君は直接的なことには参加することなく、サリーさんにもさっき初めて会ったという。
「ぼんやりふらふら歩いてて、どうしたんだろうってみんなで言っていたんだけど、命令もなかったから」
まさかネムリイバラを刺されたとは思わなかったそうだ。高価だし、麻酔にも使われるそうだけれど一応毒だし、婚約者にするようなことではないらしい。
「後遺症とか、ないのかな」
「なかったと思います。起きた時に毒が抜け切ってないと少し気分が悪くなったりしますが、ちゃんと目が覚めたらもう、大丈夫です」
俺はひとまずほっとした。それならとりあえずこのまま、みんなが来るまで眠らせておこう。
またくしゃみが出た。寒い。
「クロノさんは着替えを持ってきてないんですか」
トミヨ君は予備の制服を借りたのだそうだ。よく見ると確かにあちこちぱつぱつしている。俺の方は着替えも何も、ご覧の通りのものしかない。
「コインランドリーでもあればいいんだけど」
トミヨ君が周囲を見回す。普通のホテルならあるかもしれないが、こういうところはないんじゃないかな。
あとでタオルを借りてできるだけ拭こうと思っていると、扉が開いた。サリーさんの着替えが終わったらしい。
「ありがとう、ええと」
「エリアです」
「エリアさん。ありがとう」
「いいえ、仕事ですから」
エリアさんは黄土色の袖を捲り上げ、下ろしていたはずの髪を縛ってくるりとまとめていた。王子に言い返していた様子といい、本当はちゃきちゃきした人のようだ。
「さ、次はあなたです」
俺たちをまた部屋に入れ、エリアさんは俺を見た。え、何だろう。
何となく叱られるのかと思ってしまい、小さくなる。ちょっとだけ次姉に感じが似ていて、怒られるような気がしてしまう。
「あなたも姫殿下の侍従なのであれば、私たちのお客様です。お客様に風邪を引かせるわけにはまいりません。でも、男性を姫殿下がお休みのところに置いておくこともできません」
「はあ」
「なので、あなたはお風呂に入っていてください。あなたの服はその間に洗って乾かしてしまいます」
エリアさんはビニール袋をぱん!と広げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます