第117話 時を経た先に
それじゃあまた、と名残惜しそうなサリーさんと一緒に、俺はお妃様の部屋を後にした。
袋を持ったので、剣を持つのが大変になった。実家の母もそうだったが、母親というものはみんな、帰り際に、男の俺でも重いほどのリンゴを持たせないと気が済まないのだろうか。
仕方ないので手にした剣を腰に下げようとしたら注意された。鞘が王様の色のままだから良くないそうだ。
「鞘は作り直さないとね。とりあえず白で隠して、自分の色の印をつければいいんだけど」
シャツの襟飾りのスカーフで巻いてみた。少しはみ出したけれど大丈夫そうだ。あとは黒い何か。
俺はいつも持ち歩いている、サリーさんからもらった黒いリボンを鞘に結んだ。大切なものには大切なお守りをつけたい。
剣を下げてみる。やはり練習用の剣より動きやすく感じる。あれより長く、重さもあるのに不思議だ。いい剣というのはこういったものなのだろうか。別の意味でなら、重くてたまらないけれど。
剣の位置を確認していると、サリーさんは少し笑った。
「クロノ、似合うよ」
俺は別の意味の方の重さを改めて感じながら、苦笑した。
「俺みたいのが持つのが申し訳ないよ」
「まだそんなこと言ってるの」
くすくす笑って、サリーさんは俺を見上げた。
「それ、捨ててなかったのね」
サリーさんが小さく呟く。
「どれ?ああ、リボン?当たり前だよ、大事なお守りだから」
考えなしに答えて、俺ははっとした。
「あ、あの、ええとその、そう、縁起、縁起がいいから、その」
なるべく無難に聞こえるように言葉を継ぎ足したいのに、出てこない。
しつこい男だと思われただろうか。気持ち悪いかな。
恐る恐るサリーさんを見ると、サリーさんは笑顔だった。
「行きましょう」
やっと笑顔を向けてもらえた。俺はもう他のことなどどうでもよくなった。
軽やかに歩くサリーさんを少し見つめ、俺も歩き出した。
これ見よがしに、サリーさんがすまして居住区の入り口を守る衛士の間を通り抜ける。何とも言えない顔で2人が礼をしている。少し気がすっとした。サリーさんも笑った。
若い衛士のみんなも持ち場につくなり帰るなりしたようで、廊下はいつものように静かになっていた。途中、巡回中らしいイトー君に会ったので、軽く挨拶だけして塔に戻った。サリーさんの晴れやかな笑顔を見て、イトー君も嬉しそうだった。
塔に続く廊下の鍵を開けると、待ちきれないようにサリーさんが話しかけてきた。
「リンゴ、良かったね。みんなで食べようね。うさぎのリンゴにしてね」
サリーさんが俺の持つ袋を見ながら嬉しそうに言う。サリーさんが嬉しそうだと俺も嬉しい。
「アップルティーの作り方も習ったの。後で教えるね」
城を歩いている時は、人の目もあるので、姫と侍従が親しく話をすることなどできない。やっと塔に帰ってきて、サリーさんは俺と話がしたそうだった。俺はなるべくゆっくり扉の開け閉めをした。
「クロノはお父様と何の話をしたの?」
「え、ええと……俺はサリーさんの犬、みたいな感じだから、どこまでもついていけって」
自分を犬呼ばわりするのにはさすがに抵抗があった。サリーさんが笑う。
「お父様は本当にクロノを信頼しているのね」
俺は剣を渡された時のことを思い出した。
それは、本当にそうなのかもしれない。好きの意味は違うけれど、同じ人を心から思う同志だから。
「良かった、クロノとお父様が仲良しになってくれて」
そんな繊細な男心も知らず、サリーさんが明るく笑う。嬉しい。このままずっとここにいたい。
しかしそうもいかないことはわかっているから、俺はゆっくり鍵を開ける。
「サリーさんとお妃様は、何の話をしていたの?」
ずいぶん長く部屋に戻らなかったことを思い出し、俺もサリーさんに尋ねた。サリーさんはまとわりつくように俺のまわりをうろうろして、言った。
「お義母様とお義母様の侍従の、恋の話」
「えっ」
ちゃりん、と鍵が床に落ちた。俺は慌てて拾いあげようとして、また落とした。サリーさんが笑う。
「動揺し過ぎよ。もう、クロノを恋人にしたいなんて言わないよ」
俺はまた鍵を落とした。サリーさんがまた笑う。
「お義母様もね、少し年上の彼のこと、侍従のことが好きだったんだって。小さい頃から一緒で……保護者で、兄弟で、友達で、仲間で、そして恋人だったんだって。もちろん、そういった関係を持ったことはないけれど」
サリーさんの声を背中で聞きながら、俺は鍵を握りしめた。そんなに全ての役割を担った人が、お妃様にいたのか。王様以外に。
大切な人だったんだろうな。
「だから、お嫁に来る時連れてきたんだって」
「そ、そんな人を?王様はいいって言ったの?」
「ええ」
思わず振り返って尋ねると、サリーさんは笑顔でうなずいた。俺は剣をくれた時の王様の言葉を思い出した。
どこまでもついていけ。誰よりも近くあれ。
それが幸せにつながるなら、王様は配偶者のそれでさえ、受け止めるのか。
手が震えて、鍵がうまく差し込めない。
「……その人は、今もお妃様のそばにいるの?」
カチカチ小さく鳴る音にかぶせるように、俺は尋ねた。彼は今、どんな思いでそばにいるのだろう。
「ううん、こっちで結婚して、国に帰ったそうよ。今はお義母様の甥っ子の侍従をしているんだって」
「えっ」
俺は意外な結末に驚き、またサリーさんを振り返った。サリーさんは笑っている。
「お義母様はこの国に嫁いでいらして、恋なんかしている暇がないくらい、責任と務めを果たしてこられたそうよ。そしてそれは、お父様もそうだったんだって」
ようやく鍵が開いた。扉を開き、閉めて、鍵をかけようとしている俺の後ろでサリーさんが続ける。
「どんなに大変だったが、ついてきてくれた侍従もどんなにその時の心の支えになったか、お義母様は詳しく話して下さったわ。でも、そうやって王と王妃として支え合っているうちに、恋は薄らいで、お父様との間に絆ができていたんですって」
薄らぐ。今の俺には想像もつかない。それが時を重ねるということなのか。
「逃げも隠れもできない唯一の立場の者同士、恋なんかできなかったけれど、戦友として信頼してるって」
戦友。命を賭け、賭けられた仲、ということだろうか。
確かにその絆に比べたら、娘時代の恋などは何も知らなかった頃の甘く優しい思い出として、遠のいていくだろう。
サリーさん。俺はそうなることを望んだ。でも今、改めて自分の向かう先が見えて、怖くてたまらない。
しかし俺のこの思いも、サリーさんが立派なお妃様になっていくのを見守るうちに整理がつくのだろう。それが時を経るということなのだろう。
俺は鍵をかけた。サリーさんが手を後ろに組んで、床と壁の間を見つめる。
「私ね、間違ってた。ヴィオの教えてくれたことも正しいと思うけれど、私は恋をするために結婚するんじゃない。責任と務めを果たすために結婚するんだね」
俺は答えられなかった。言葉が出ない。
「心の伴わない結婚でも、誠実に、真摯に日々をこなしていれば、信頼と絆はついてくる。そう、お義母様はおっしゃったわ。それが、あんな優しいおふたりの姿につながるなら、私もあんな風になりたい」
それは、お妃様しか教えられないことだ。心が伴わない結婚のつらさは、俺が今さら口にする迄もないだろう。本人が一番わかっているし、それでも自分で越えなければならないのだから。俺はサリーさんの代わりにはなれない。
お妃様もだからこそ幸せそうな今の姿を見せてくれて、教えてくれたのだ。
サリーさんはそれを覚悟しなければいけない立場だということ。しかしつらいだけではない。ずっとずっと先にはいつかこんな風に強い絆を結び、思い合って過ごすことができるようになる、ということを。
「だからね私、次に結婚の話が来たら、今度こそそこにお嫁に行くわ」
俺はまた鍵を取り落とした。
サリーさんは微笑んでいた。
「私の結婚相手はくじ引きで決められるんじゃない。たくさんの人が、国のことを一生懸命考えた上で決まるんだもの。きっと国のためになるし、私もそうなるように務めなければいけない。好きになれないとか怖いとか、そんなのはきっと、過ぎてみたら笑って話せるようになるはずよ」
「……王様とお妃様が、きっとサリーさんにふさわしい人を探してくれるよ」
俺は望みを込めて言った。王様とお妃様なら、きっとそうしてくれる。初めから心が伴う、優しい人を見つけてくれる。
サリーさんはそうね、とうなずき、微笑んだ。
「私の相手は議会が決めるの。だけど、みんなきっと、国のためになる人を考えてくれるわ」
俺は鍵を拾いあげた。
それを握りしめ、改めて振り返り、しかし言葉が出ない。
サリーさんは俺を見上げた。
「きっと務め上げるわ。お父様とお義母様の娘だもの」
凛とした笑顔が、眩しい。俺は思わず目を細めた。
サリーさんはふわりと笑った。
「昨日はつまらないことで怒ってしまってごめんなさい。お義母様のお話を聞いて、あなたの嘘の理由、少しわかった気がする。クロノは私が間違えそうだったから、無理に嘘をついたのね。私のために。そうでしょ?」
悪戯っぽく笑い、サリーさんは一歩俺に近づいた。
「約束するわ、私きっと、あなたが望んでくれたような、立派な姫に、そしてお妃様になる。でもね」
サリーさんはまた一歩俺に近づいた。もう一歩、そしてもう一歩。
サリーさんはもう笑っていない。
淡い青の瞳が、不意に全ての肩書きを、立場を、後先を剥ぎ取り、無垢なサリーさんをさらけ出す。
自分の何をも守らず、サリーさんが俺を見つめる。
「今はやっぱり、あなたが好き。クロノ、私、あなたが好き」
リンゴが、腰の剣が、君の気持ちが、君への気持ちが、重い。
棒のように立ち尽くす俺に、サリーさんはそっとキスをした。
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