第106話 嫌われたくはないけど
赤いお茶を2人分淹れる。
ヴィオさんとヨスコさんはまだ帰らない。楽しんでいるのだろう。
「あのね、クロノ、さっきはごめんなさい、つい気安くて、その」
「わかってるよ」
サリーさんがまだ弁解しながら泣きそうな顔をしている。俺はどうせお父さんだし、それだけ意識されていないということなのだろう。
しかしサリーさんにとっては大問題らしい。
「ごめんなさい、そうじゃないの、私、ごめんなさい」
「わかるよ、大丈夫」
俺は逆に心配になってきた。
大人なんだし、礼儀も大事だけど、少しくらい男性を誘えるようになった方がいいのに。こんなことくらいでこんなに動揺して、ちゃんとお嫁に行けるだろうか。
ちらりと見ると、サリーさんはしかめっ面で真っ赤なほっぺをむにむにしている。あまりの可愛らしさに笑いがこぼれそうになるのを、俺はぐっと我慢した。
もちろん俺は、こんなサリーさんの方が安心だ。
「ヴィオさんとヨスコさん、明日はきっと午前中は起きられないね。マリベラさんの相談は、お昼過ぎからじゃないと無理かな」
時計を見て話しかけると、サリーさんはようやく言い訳をやめてそうだね、と応じた。
「赤ちゃんさえ大丈夫なら、落ち着いてゆっくり相談してもらえる方がいいわ。どうか、お願い」
マリベラさんの処遇についての判断は、俺はヴィオさんとヨスコさんに任せるつもりでいる。
マリベラさんのこともまわりの状況も、彼女たちの方がよく知っている。きっとサリーさんに一番いい判断をしてくれる。だから俺はできるだけ、2人が判断するための材料を用意する。
それに絶対必要なのが、サリーさんの意向だ。
「サリーさんはどうしたい?マリベラさんのこと」
そこだけはしっかり確認しておかなければならない。
俺が尋ねるとサリーさんはうつむき、お茶のカップを触りながらしばらく考えて、言った。
「私はやっぱり、ベラには幸せになってほしい。だから、できれば噂が間違いで、ゴーベイ様が赤ちゃんを連れて迎えに来てくれたらいいなって思う。でも、もし、もしも、そうでなかったら」
サリーさんは細い指でカップをきゅっと握った。
「ベラの話をよく聞いて、何がベラのためになるか一緒に考えたい。何よりも、赤ちゃんにはさびしい思いをさせないでほしい」
「うん。わかった」
サリーさんをマリベラさんに会わせる約束はできないけれど、サリーさんの考えは尊重したい。俺はうなずいた。サリーさんがありがとう、と少し笑ってお茶を見つめる。
また少し言葉が途切れた。
あとは、何を話したらいいのだろう。こんな、不意に訪れた、ふたりきりの穏やかな時間に。
……ああ、そうだ。大事なことを忘れていた。
「サリーさん、夜会服姿、すごくきれいだった」
俺はやっと言った。
「あんなにきれいな君と踊れて、嬉しかった」
サリーさんは顔を上げ、泣き出しそうに微笑んだ。
「ありがとう。嬉しい」
そしてサリーさんも少し考えるようにして、俺を見た。
「私、クロノに渡したいものがあるの」
「何?」
サリーさんはやっと楽しそうに笑った。
「内緒。明日にでも渡すわ。ちょっとびっくりするかも」
何だろう。俺は考えたが、わからない。でも、サリーさんの表情を見るに、悪いものではなさそうだ。
このまま今日が終わればいいのに。
きっと、この場で話したいようないい話はこれで出尽くした。それでもサリーさんが席を立たないと言うことは、やっぱり。
言いにくい話も、しなくてはならないのだろう。
怖々とサリーさんを盗み見る。サリーさんは笑顔を消して、静かに真っ直ぐに俺を見つめている。
どうして君は、そんなすがるような、儚いような目で俺を見つめるのだろう。
その淡い瞳を見つめていると、サリーさんの心が伝わってくる気がする。
サリーさんも、この優しい時間が心地よくて、壊したくなくて、このままでいたくて。しかしどうしても、話さなければいけないことがあって。
迷っている。
サリーさんが目を伏せた。
俺は黙ってサリーさんの言葉を待った。
少しして、サリーさんが再びそっと俺を見つめた。
まだ迷い、それでも心を決めた、きれいな、淡い色の、大きな瞳。
「クロノ、立ち入ったことかもしれないけれど。聞いても、いい?」
サリーさんが消え入りそうな小さな声で言う。
「クロノ、どうしてベラに会いに行ったの?どうして、あなたからベラのにおいがしたの?」
俺は膝の上の手を握った。その質問は予想はしていたけれど、俺はすぐに返事ができなかった。
小さな声が、続ける。
「ベラと、何をしていたの?」
俺はサリーさんを見つめた。
俺は、君に嫌われたくない。
でも、嘘もつきたくない。
聞かれたことだけ答えるのであれば、話をしていただけ、少し距離が近かったからにおいが移っただけ。こう説明しても嘘ではない。
でも、この答えは、誠実でないと思う。
俺は全て正直に話して、君に判断を委ねるべきだ。嫌われたくは、ないけど。
「会いに行ったんじゃない。人のいないところに行きたくてフロアを出たら、マリベラさんが追いかけてきたんだ。今日は、話をした。それだけだよ。……少し、その、距離が近過ぎることもあったけど」
話すうちに、俺はやはり顔を伏せてしまった。サリーさんの目を見ていられない。
「今日は、って?他でも、会っていたの」
サリーさんか静かに問い返す。逃げ出したくなるが、正直に話さなければ。
「少し前から、夜会で会うと声をかけられてた。俺は名乗ったけど、彼女はずっと名前は言えないって言ってた。だから彼女がマリベラさんだって知らなかった。わざと黙ってたんじゃないんだ」
サリーさんがそう、とうなずく。サリーさんの雰囲気は穏やかなままで、怒っているような様子はない。
「ベラとは、踊ったの」
「……うん。みんなのいるところでも踊ったし、テラスみたいなところで、2人だけでも踊った」
「2人だけで?」
「うん」
少しだけ息を飲んで、サリーさんが静かに俺を見る。
「あなたが誘ったの?」
静かな声。それでも、淡い色の瞳は揺れていた。
俺は覚悟して首を横に振り、言った。
「誘われたから踊った。でも、2人で踊った時、キスした」
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