第5話 飾りじゃないから、涙は

 目的の階に到着したようだ。

 音もなく、エレベーターの扉が左右に開く。生活空間が近いから、俺の知っているエレベーターのようにいちいち到着を知らせる音はしないのだろう。

 俺はエレベーターから出て、目の前の扉をノックし、開けた。もうここからは鍵はない。


 部屋は思ったのと違った。

 食堂だからテーブルや椅子があるのかと思ったが、ベッドや鏡台、本棚しかなかった。

 ここには床に布が貼ってあるのか。床に座って食べるのだろうか。

 段差に気を付けて、俺はワゴンを押した。


 さて、これからどうしたらいいのかな。みんなどこにいるのだろう。どうやって呼べばいいのか。


 ベッドの上には黒い大きなうさぎっぽいぬいぐるみが転がっている。誰かの部屋でもあるのか。

 少し落ち着くとドキドキしてきた。俺は身内以外の女性の部屋に入るのは初めてだ。

 何だかあまり何もない部屋だ。

 姉たちの部屋は訳のわからないキャラクターグッズだのマンガだのが置いてあったり、アイドルのポスターで飾り立てたりしてごちゃごちゃしていたが。

 鏡台の上も何もなくて、流行りの化粧品を買ってきては使いかけのまま山のように放置していた姉たちの鏡の前とは全く違っていた。


 ヨスコさんの部屋かな。さっぱりした格好をしていたし、あまり化粧気もなかったようだったから。

 でもうさぎのぬいぐるみを抱いて寝るのかな。

 俺は微笑ましく思い、ぬいぐるみを見た。


「……ん?」

 うさぎから人の足が生えている。


 いや違う、人がいる!


 大きな黒いうさぎのぬいぐるみの陰になっていたので気付かなかった。ベッドに人が寝ている。

 俺は嫌な予感がしてそろそろと後ずさった。

 黒いうさぎのぬいぐるみに紛れ込む黒いスカート、それがめくれてふくらはぎまで見えてしまっている白い足。見たら怒られそうだから隠してしまいたいが、触ったら余計怒られるだろう。


 ああ、何で俺はこう怒られそうなタイミングで彼女の前にいてしまうことが多いんだろう。


 セーラレイン、姫様、サリー。

 いろいろな呼び名を聞いたが、つまりは風呂場で初めて出会い、いろいろ見てしまったあの白い髪の女性。

 俺はなんと呼んだらいいのか。セーラレインとは呼ばないように言われているし、愛称のサリーでは怒られそうだから、無難そうなのは姫様か。


 そう、ここは姫様の寝室だ。


 何故だ、4階を押したのに。押し間違えたのか?上から数える感じ?それとも、トマ師のメモを見間違えた?

 とにかく、バレてしまわないうちにエレベーターホールまで逃げよう。そこからなら何とでもなる。何故この階に来たかと言われてしまったら、間違えたけれど返事がなくてエレベーターホールでうろうろしていたということにしよう。


 ここさえ、ここさえ起こさないで切り抜けられれば……!


 がちゃり。

 ワゴンに積んでいた食器が音を立て、俺は血の気が引いた。

 起きないで、起きないで……!


「誰……?」


 小さな声がした。俺は全ての動きを止めた。

 どうか、どうか気付かずにまた寝てください、神様……!


「行かないで」


 小さな声が続けた。俺は祈るのを中断して、そろそろと顔を上げた。

「こっちに来て、そばにいて」

 え?

 俺は戸惑った。絶対怒られると思ったのに。


「お願い……」

 小さな声は、ひどく弱々しかった。俺はおそるおそるベッドに近付いた。

 やっぱり姫様だった。うさぎを抱きしめ、埋もれるようにして目を閉じている。さっきは頭巾に隠れていた顔が、うさぎに埋もれていない半分だけ、見えた。


 きれいな人だな。

 何てなめらかな頬だろう。白い肌は美し過ぎてまるで人形のようだが、人形はこんなに柔らかそうな唇はしていない。


 目を閉じた無防備な顔をあんまり見つめているのも気が引けて、俺は視線を外した。姫様はあれきり何も言わない。

 ここにいたらいいのかな。何かした方がいいのかな。

 戸惑いながら目を閉じた姫様の顔をちらちら見ていると、閉じたままの目から涙がすうっとこぼれた。

 俺はどきりとした。

「私といて……」

 泣きながら姫様が呟く。俺は困惑して、目を閉じたままの姫様の顔を見た。


 涙の雫がまつ毛に少し残っている。まつ毛まで白くて、長い。濡れた頬は子供みたいにすべすべだ。

 まだかなり若いのだろうか。こうしていると幼くすら見える。姫ともなるとこんなに若いうちに結婚するんだな。

 ……できなかったのか。


 見つめるうち、姫様の閉じた目からまた涙がこぼれる。

 どうしよう。

 少しでも涙を止めてあげたくて、俺はそっと姫様の手に触れた。うさぎを抱きしめている手がぴくりと反応する。

 姫様の手がゆるゆると俺の指に絡んだ。しっとりとして、少し冷たい手だった。

 ドキドキしながら、それでも俺は懸命に思った。少しでも助けになりたい。姫様の悲しみが少しでも軽くなるように。


「どこにも行かないで」

 姫様がすがりつくように、小さく呟く。俺も小さくうん、と答えようとすると、


「……ベラ……」


 ……人違いだ!

 寝言だこれ!


 俺は何とか手を引こうとしたが、起こさずに手を離すことは不可能に思われた。

 まずいまずいまずい!さっきより状況が悪化してる!

 ゆっくり、そっと、と思っているのに、緊張し過ぎて体がうまく動かない。手に汗をかいてきた気もする。

 もう一気に引き抜いて逃げ出そうか。悲鳴をあげられる前にエレベーターに乗れば。いや、止められたら扉が開くと同時にバッサリ、真っ二つだ。


 助けて!誰か!いや誰も来ないで!もうどうしていいかわからない!

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