第4話 魔女の塔にようこそ
俺はトマ師に案内されて風呂を借り(今度はお湯だった。くさいといけないので念入りに洗った。もうくさくないはずだ)、用意された服を着た。
下着の形が少し違う。白いシャツに黒い膝丈のズボン、サスペンダー。サスペンダーなんて七五三以来ではないだろうか。靴下、ブーツも膝丈だ。黒いコートのデザインも何だか少し変わっている。
そんなに長くはかからなかったはずだが、風呂場の窓から差し込んでいた西日らしき光は、上がる頃には薄暗くなっていた。
広がり始める闇は、少し落ち着くと俺の胸に広がる不安を写しているかのようだった。
「クロノ殿」
着替えを終えて風呂場を出ると、トマ師が黒い帽子を渡して言った。俺の髪も黒だからあまり変わらないが、まあ全身真っ黒ってことだ。
「ヨスコッティ殿に聞きましたが、あんたは急に魔女の塔に現れたそうですな。何故また?」
「俺も、わからないんです。気がついたらお風呂……いや、その何とかって塔に」
トマ師は俺にテーブルに着くように促し、お茶を淹れてくれた。カップに赤い液体が注がれ、湯気が上がる。
「わしがまだあんたよりずっと若い頃、師から聞かされたことがある。他の世界から突然やってきた人がおると」
俺ははっとした。
「この世界には時々そういった迷い人が飛び込んでくる時があるそうじゃ。わしが聞いたのはあんたで2人めだが。クロノ殿、あんたこの世界が何だか変だとは思わんかったかね?」
他の世界?世界って、何だ?ここは場所だけでなく、世界まで俺の知らないところだと言うのか?
俺はうまく呼吸ができなくなりながら、言った。
「思いました、思いましたけど、まだ何だかわからなくて」
「そうか。それはそうじゃろうな、まだ」
トマ師はうなずき、お茶を促した。俺は震える手でカップを取り、飲んだ。カップの形は同じように見える。お茶は俺が知るどんなものより香り高く、爽やかに苦かった。
トマ師はまたじっと俺を見て、言った。
「あんたが他の世界から来たらしいことは、しばらく魔女の塔の秘密にしよう。陛下の他には、わしとヨスコッティ殿。ヴァイオレット殿もご存じなのであろう?」
俺はうなずいた。トマ師もうなずき、彼女らだけなら大丈夫じゃ、と呟いた。
俺は思わず尋ねた。
「あの、トマ師。その人、俺より先にこの世界に迷い込んできた人は、元の世界に帰れたんでしょうか」
トマ師は首を振った。
「知らぬ。師はそこまでは語らなかった」
そしてトマ師は俺を見た。
「あんたは、帰りたいのかの?」
俺は返答に詰まった。帰りたい、と即答できなかった。
伴侶も、恋人もいない。離れて住んでいる家族は、それぞれ大変なこともありながら、まあ幸せに暮らしている。
俺は、あの世界に、いてもいなくてもかまわない。
「諦めろというのもおかしいかもしれんが、まあ、流されてみるのも人生ではないかね」
結局はそれしかない。俺はそうですね、とお茶を飲んだ。独特の香りが、知らず気持ちを落ち着けてくれる気がする。
トマ師もお茶を飲み、ふう、と息を吐いた。
「姫様の侍従になるのであれば、知っておいてほしいことは山のようにあるんじゃが……何より、あんたはお聞きなすったか、姫様の、……婚約が残念なことになってしまったのを」
「ああ……はい、その、姫様?が言ってました」
ひどく悲しそうだった。婚約者のことが好きだったのだろう。
トマ師はうなずき、突然、ものすごい目で俺を見た。
「わしら魔女の塔の者は皆、姫様の幸せを願うとる。あんたも、その一員になってもらわねばならん」
俺はトマ師の迫力に押され、思わずうなずいた。トマ師は更に迫った。
「あんたの命を、姫様に捧げるか?」
俺は息を飲んだ。
命。
考えたこともなかった。
が、すぐに、あの目を合わせた一瞬の、無防備な、守ってあげなければ壊れそうな目が胸に浮かんだ。
俺が守れるかどうかはわからないけれど、みんなで守らなければ、あの目は壊れて砕けてしまう。使い道のわからないこんな俺の命で、あの美しい瞳が守れるのなら上出来だ。
俺は目を伏せ、顔を上げた。
「……はい」
トマ師は満足そうに俺を見てうなずくと、またもとの枯れた老人に戻って、皺くちゃの顔をますます皺だらけにして笑った。
「魔女の塔にようこそ、クロノ殿。さて、では何から説明しようかの」
俺の最初の仕事は給仕だった。
3枚の鍵付き扉が区切る魔女の塔への石廊下は、思いのほかガタガタと手押しのワゴンを揺らす。
この廊下、嫌だな。ずっと食器がガチャガチャする。直したいな。それよりこのワゴンの車輪を直した方が早いかな。
俺はワゴンの車輪を見た。木の車輪では揺れるのは当たり前だ。
この世界は俺がこれまでいた世界とは違っているらしい。俺はまた寝ているうちにヨーロッパにでも来てしまったのかと思っていた。パスポートも持っていなかったけれど。
世界が違うなら、ゴムのタイヤとかはないのだろうか。
渡された鍵を使い、扉を開け、閉める。鍵はそれぞれ別で、束ねることは禁止されていると教えられた。一度に落としたり、盗まれたりしないようにするためだ。
カードキーや生体認証なら楽なのに。そういうのはないのかな。
もたついて、食事がすっかり冷めてしまった。
俺は白い扉をノックし、できるだけ大きな声で言った。
「クロノです。ごはんです」
扉が開かない。あれ、何か間違えたのかな。
俺はもう一度、もっと大きな声で繰り返した。扉は開かなかった。
どうしようと思って取っ手を動かすと、白い扉は簡単に開いた。何だ、ここには鍵はないのか。
白い扉を抜ける。その部屋、俺が処刑されることを覚悟し、命拾いして倒れそうになったこの部屋には、今は誰もいなかった。
俺は少し拍子抜けしてその部屋を見渡した。
部屋の奥に少し高くなっている部分があり、そこに細身だが豪奢な椅子が置かれている以外は、割と何もない殺風景な部屋。
やっぱり窓はないんだな。そして、誰かが隠れるようなスペースも。
改めて見ると、驚くほど簡単な間取りだった。
豪奢な椅子と、広間。窓もない。隅の壁際に簡単な小さな机と、椅子が2脚。この部屋は、これだけ。
入口の反対側の壁に扉が2つある。こちらはまた鍵付きだ。鍵だらけで面倒だ。
手前の扉を開けると、奥は階段だった。下はなく、上に続くものだけ。
奥の扉を開ける。のぞき込むと、そこはエレベーターホールだった。
良かった、ワゴンを担いで階段を登るのかと思った。
ここのボタンは上向きの三角のものしかない。さっき階段も上行きしかなかった。ここが最下層か。
ボタンを押し待っていると、音もなく目の前の金属の格子扉が左右に割れ、隙間に吸い込まれていった。俺の知るエレベーターの仕組みと同じだ。
俺はやっとほっとし、嬉しくなり、ワゴンをエレベーターに押し入れた。
行き先のボタンを押そうとして、戸惑う。表示が何もない。ボタンがただ5つ縦に並んでいる。
俺はトマ師にもらったメモを開いた。
食堂は4階。
俺は迷わず下から4つめのボタンを押した。
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