浜梨
青笹まりか
1.
私は、運が悪かったんだと思う。ずっと私は、両親から恵まれていると錯覚していた。楽器奏者だった母は闘病しながらも私を気遣ってくれ、政治家である父もこちらへ帰ってくるときは、いつも美味しいケーキを買ってきてくれた。そんな愛情を受ける度に、私はとても幸せを感じたのだった。でもその分、事態が急変した時の衝撃は酷い。
それは、私が小学三年生の時だった。母が突然、病死したのだ。母は、私を産んだ直後から体調を崩したらしい。それを申し訳なく思って泣く度に、母は優しく抱きしめてくれた。だからこそ、亡くなった時の喪失感といったらなかった。死体安置所に横たわる母を見て、私は悲しすぎて泣けなかった。遅れて父もやってきて、私の横に並んだ父は、母の布の被せられた顔を見て膝を折って泣いていた。どうすればいいかわからず、右往左往していると、父の視線がこちらへ向く。
そして、その表情に、私は震え上がった。
私を憎み、恨み、蔑むような表情に、私は混乱した。その後、父は私の腕をへし折れるかと思うくらい強く握ってきた。そして、私にこう言ったのだ。
「お前さえ生まれなければ、母さんが死ぬことはなかった。お前さえいなければ‼」
そして、父は私を壁に向かって突き放した。ガン、と背中に衝撃が走る。その時、私はこう悟ったのだ。ああ、そっか。お父さんが私を愛していたのは、全てお母さんと関ってたからなのか、と。父が愛していたのは、最初から母だけだったのだ。母が私を愛していたから、愛してくれていただけなのだ。そう、私は九年間、虚偽の愛を受けていた。その事実に、幼い私は苦悩した。それから、私は分からない。
——愛って、なんなのだろうか。
その翌日から私は父の姉である叔母に引き取られた。彼女とは幼い頃から関係があり、宿題も手伝ってくれたり、父が不在の時に泊めさせてもらっている。そして私は父のしつけにより、県内一の女学院へ通っていた。これもすべて、母を喜ばせるためだ。決して、私のためではない。その証拠として、その翌月から父は学費を払わなくなった。だから、代わりに叔母が払うことになったのだ。叔母は苦しそうなのに、笑顔で私を育んでくれた。だから私は、高校受験で県立高校に特待生として入学した。学費免除に加え、受験料もかからない。これは全て、叔母のためだ。
そして、入学して三年。私は高校三年生になり、初めて恋をした。彼を見ていると、胸がカッと熱くなり全身が熱を帯びていく。まるで太陽に照らされた春のつぼみのような、じんわりと漠然としたこの感覚。これが恋なのかはわからない。だって、これは私にとっての初恋だったのだから。恋を知らないのに恋と決めつけるのはよくないけれど、友人いわく世間ではこういうものを「恋」と言うらしい。
きっかけは、至ってシンプルだった。
「……上手」
春のある日。そう、どこかからか聞こえた。慌てて私はリードを口から離して辺りを見渡す。彼は、教室と廊下の間に位置する窓から、ひっそりとこちらを伺っていた。確か、クラスメートだったか。一瞬幽霊を連想させる登場の仕方に、私はやや苦笑いするしかなかった。
「えっと、これのことかな?」
そういって、私は楽器を掲げた。この楽器の名をオーボエという。二枚の木片を音源とするダブルリード楽器で、ぱっと見黒い縦笛だ。ベルは円錐になっており、クラリネットよりもキーの量が多い。音は柔らかく、まるでアルト歌手のような音色、と専ら呼ばれていたりする。ギネスブックでは、世界一難しい木管楽器とされているらしいが、私はオーボエ以外を吹いたことがないのでよくわからない。そして、このオーボエは母の形見の楽器だ。だから、このオーボエを。私はとても大切に吹いている。本当は吹奏楽部に入りたかったのだが、この高校にはなかった。なので、私はこうして時々ひっそりとした場所で吹いているのだった。彼は楽器を目で追うと、こくりとうなずく。それから、僅かに開いた窓の隙間に指を差し込むと、心地の悪い音を立てながら半分ほど開けた。先ほど全く開けられなかったので、思わず感嘆の息を漏らすばかりである。そして、そこから現れた男子生徒の容貌に、私は見惚れた。天色の瞳に、透き通るような肌。瞼に柔らかくかかる濡羽色の髪。氷の神様の子供を思わせるような、神秘的な風貌だった。やや放心状態の私を気にせずに、彼は興味津々そうにこちらを伺っている。
「オーボエ、いつからやってるの?」
「あ、えっと。小学三年生からやってるよ。ピアノもまあ、お稽古でやってたけどね」
「音大目指すの?」
その問いに、はにかんでいた私は一瞬硬直した。彼を直視出来なくて、教室においてある
「お金が足りないんだったら、学費免除狙えばいいんじゃない?」
「えっと、なんでそこまで勧めるの?」
そう怪訝な気持ちで聞くと、予想外の言葉が返ってきた。
「だって、その才能を捨てるのはもったいないし。それに、もっとたくさんの人に聞いてほしいと思える演奏だったから」
そういった後、彼は僅かながら微笑んだ。きっと、この瞬間。恋に落ちたんだと思う。不器用そうな笑みは、私の頭から離れることはなかった。そのあと彼と同じ中学校だった生徒から聞いたのだが、彼は音大を目指しているらしく、出身中学では伝説の演奏家と謳われているらしかった。そんな彼が上手いと言ってくれたのだから、多分評価は本物だろう。先月の進路希望調査の記入個所を思い出し、私はやや困った。第一、音大なんて父が許してくれないだろう。醜い娘が、愛する母と同じ進路に進もうとしているなど。絶対に阻止する。だが、やるだけやってみようと、一度父に直談判してみた。やはり、答えはNOだった。おまけに、両頬に平手打ちを食らってしまう始末だ。鏡を見るたびに増えていく身体のあざに、私はもう慣れてしまった。そうこうしていくうちに、季節は秋に移り変わっていた。委員会が同じということもあり、彼とは結構交流があった。その際に私は彼の重い責任を負った辛い過去も知って、ますます惹かれていた。
そんな
「うるさい!黙れ!」
連続して頬に走る衝撃に、私は強く目を瞑る。今日学校に、突然父が来た。普段近寄りもしないくせに。来た理由は、進路の強制変更だった。私は、彼と相談して、音大を目指すことにしていた。叔母にも話し、承諾をもらっている。だが、父には黙っていた。絶対に、酷い目に合うから。だから今実際、職員室から離れた場所で平手打ちされていた。何回も叩かれ、私は意識が
―—私、このまま死ぬのかな。
そう思っていた刹那、また掌が目の前に上がった。衝撃音が走り、私は目を瞑った。だが、痛みは感じない。ふと、目を開けてみると、そこには片頬を押さえて立つ彼がいた。父は、もちろん怒りを爆発させていた。
「ああ?お前、この馬鹿娘を庇うのか?ああっ⁉」
その言葉に、彼の手がピクリと動いた。その様子に、私は察した。同じくらい、いや。もっとそれ以上に彼も怒りに燃えていると。
「馬鹿……娘?それを、あなたが言うんですか?」
それから彼は、一気に言葉をまくし上げた。
「娘のせいで母が亡くなった。そう己惚れている馬鹿な政治家が、才能のある娘を馬鹿だというんですか?信じられない。彼女は、あなた以上に輝ける、宝石の原石なんです。俺も、中学時代に彼女のような立場に置かれていたことがありました。だから、今回は間違えない。彼女を、あなたが傷つけるなんて、こちらもいてもたってもいられません。近くになんて、置いていたくありません……!」
彼は、私の手首を引いた。そして、走って走って、いったこともないようなところに連れていかれた。途中まで父が追いかけてきていたが、いつの間にかいなくなっている。長い階段を駆け上がるとそこは、円形をした展望台の頂上だった。夕日が北アルプスを淡く照らし、街の光が淡く輝いている。その光景は、あまりにも美しい。
「なあ」
突然、彼がそう呟いた。その美しい瞳は、前髪によって遮られていた。
「……どうしたの?」
「俺は、あいつから君を守りたい」
そして、私の手を取ると、彼はその鋭い瞳をこちらに向けた。
「……盗みたい」
「え……」
私たちの間に、一陣の風が通り抜けていった。そして、その瞬間。彼はこれまで見たこともないような笑みを浮かべる。
「俺は、君が好き。初めて音を聞いた時から、音に、君に。——恋してた」
私は片手で口元を押さえた。目からあふれ出そうになる涙をこらえようとしたが無情にも涙腺は緩み切っており、頬を伝って地面へと吸い込まれていった。
彼は頭をなでると、私の腫れた頬に手を添える。
「だからさ、すべてを盗ませて?」
私は、声にもならない息を漏らし、頷いていた。
それから、私は訥々と言葉を紡いだ。
「私はもう。あなたの、全てに、捕らわれてるよ」
その後、私たちは大学受験をし、見事合格した。楽典も頑張り、何とか学費免除の対象となった。父はというと、あの日の事件が世間に知れ渡り、二度と公に現れなくなったという。そして、今は父の目を気にすることもなく、大学に通いながらひっそりと二人で東京の街に暮らしている。
初めて言葉を交わした日に、教室においてあった紅鶸色の花。あの花はハマナスといい、別名「浜梨」というらしい。その花言葉は―—。
―—あなたの魅力に惹かれます。
浜梨 青笹まりか @brillante
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