永生の夢

伊島糸雨

1


 研究室にこもり続けていると、時間も空間も境界を失って、一筋の直線を成すようになる。一定の空間で昼も夜もなく死体と向き合うのは楽だった。およそすべてが自己完結するために、余計な思索に気を回さずに済むからだ。環境は単純である方が良い。複雑に入り組んだ仕組みに針を通す時は、特に。

 身体の線に沿って沈み込んだソファから起き上がると、全身から小気味の良い音がパキポキと鳴った。強張った筋肉を解し、視界を覆ってばさつく髪を掻き分けつつ、放置されて冷たくなったコーヒーを流し込む。

 壁際に無理やり設置した小型洗濯機から皺のついたシャツを取り出し、脱いだものと入れ替えて下着の上に羽織った。ボタンを留め、消臭剤を振りまいたタイトスカートに脚を通す。少し痩せたせいか、腰のあたりがいくらか余ってダボついた。

 デスクに散乱した紙を押し退け、キーボードを露出させる。凹凸を押し込み、瘤が後方にせり出した研究開発用コンピュータのスリープモードを解除すると、スキャンされた人の頭部と新型代替脳オルガネートの三次元モデル、今後実装予定のプログラムの試作品が画面いっぱいに表示された。

 問題は依然として解決していない。およそ一ヶ月の試行錯誤が生んだ進展は、当初予定したものより遥かに小さかった。画面を睨み、論理過程を書きなぐった紙を丸め、頭を抱えて冷たいデスクに額を擦り付ける。そんな時間を重ね続けている。私は完全に行き詰まっていた。

 コーヒーを継ぎ足し、湯を注いだ粥状の完全食を口に運ぶ。電灯の蒼白が、幽鬼じみた顔を画面にちらつかせた。上半身を寄せたり引いたりして、まじまじと見つめてみる。まだ顔も洗っていなかった。

 洗面台目指して重い腰を上げかけたところで、鉄扉のロックが解除される音が響いた。時計を見ると、もう八時近い。他の職員も登院してくる頃だ。時間感覚が曖昧だと、自分の思考や行動がどれくらいの時間を消費するかも不明になってくる。社会性を削減することの弊害だった。

早上好ツァオ・シャン・ハオ蔡紀明ツァイ・ジーメイ。お前は本当に懲りないね」

 鉄扉が開き、ハイヒールの鋭く硬質な足音が後に続く。扉を後ろ手に閉めながら、劉香薇リウ・シャンウェイはため息を吐いて言った。「いい加減休みな。効率落ちるよ」

 私は椅子に勢いよく座り直し、「もう地に落ちた」と呻いた。彼女は苦笑した。呆れているのだ。

「だと思った。今日届く素体のチェックをしたら、二、三日休むように」

 命令ね、と付け足し、自分のデスクへと足を運ぶ。彼女の机上は私のそれとは違って綺麗に片付いており、ここの研究者が疎かにしがちな化粧や装いにも必要十分なだけの手がかけられている。そう言った人間的な細やかさは、チーム全体をまとめる役柄には必要な気質なのだろう。

「進捗は?」数束の書類を整理しながら香薇が尋ねる。私は背もたれに体重を傾け、「微妙」と言った。何度シュミュレートしても、必ずどこかで変異が起きて自壊する。稼働限界も安定していなかった。

「最大何日?」

「試算では四十九」

 香薇は動きを止めて考え込む様子を見せた。「七七チー・チーか……?」

 〝七七チー・チー〟とは、大乗仏教において死者が来世に向かうまでにかかる期間のことだ。七日が七週繰り返されるので、〝七七チー・チー〟という。これが現実に関わる可能性などは、昔であれば検討されることもなかったはずの荒唐無稽な論理だが、〝正常〟が尻尾を巻いて逃げ出した今ではだいぶ事情が異なる。ありえないことはあり得るし、起こりえないことも起こり得るのだ。

「私もその可能性は考えたけど、まだなんとも言えない」

 私は正直に答えた。明らかなデータ不足だった。新しい技術を組み上げ実用化させる最初の段階で足踏みしている。推論を行うための情報がもっと欲しいところだ。

「素体を一つ貰いたいのだけど」無駄だとわかっていたが、物は試しと要望を伝えた。「この工作狂ワーカホリック。休めって言ったでしょ」香薇は馬鹿を見る目をしていた。

「そもそも、他の試験で軒並み使うから、空きが出るかはわからないよ」

 素体──僵尸に加工される前の死体──をよく使うのは、運動制御に用いる擬似神経伝達液リキッド秘面紗ヴェールの改良、僵尸の耐久性向上といったハードウェアの研究で、それらはすべて他の班が担っている。私が担当しているのはソフトウェア、仮想言語による代替脳の自律制御だ。

 代替脳は、外部からの刺激を異常性を持った信号に変換して死体ボディを制御するもので、僵尸技術の根幹をなす装置でもある。代替脳は通常、一つの命令には一つの動作でしか応答できないため、「歩け」という命令には歩行の信号、「○○を持て」という命令には物体を持つ動作の信号という形の逐次処理的な変換を行う。現在はこの点を補うべく、目的に応じた一連の命令をプログラムした外部装置、秘面紗ヴェールを使用するのだが、依然として、自身の状態を把握して動作を変更することができないという問題は残ったままだった。

 そこで、それを解決しようというのが私の研究、再帰器官リカーシヴ・エンジンの記述内記述による自己言及と内省自律機能の実装だ。単純な応答を繰り返すのみの現行僵尸チァンシーに変わる新型の開発。最小限の命令を端緒に自ら論理を重ね、状況に対して最適な判断を下せるようにするのが目下の課題だ。

「次回確保できるように申請はしておくから」

 香薇は最後にそう付け足すと、それで終わりという明確な意思表示として、弁当を広げて朝食を摂り始めた。彼女にとって食事は聖なるものだ。邪魔をすると面倒なことになる。

 手元の粥の存在を思い出し、私も掬って口に運ぶ。すっかり冷めて、味もよくわからない。



 脳幹府生命科学研究院のうかんふせいめいかがくけんきゅういんのビル高層から臨むイェレベスの景色には、ある種の醜悪な美しさがある。整然と計画された多重円状の都市内部には生者と死者が混在し、往来を行進する。予定された格差と、平等な実力主義の極北が為す秩序ある不平等によって支配され、人は死を遠ざけつつも死者を恐れることはない。

 数多の矛盾を秘めた街だ、と香薇は評した。終業時刻を過ぎ、帰り支度を済ませた彼女と、ガラス張りの廊下から街灯りを見下ろしていた時のことだ。摩天楼が規則正しく林立する中央官公庁区と、その外周の上級生存区、さらに外周の一般生存区に、僵尸チァンシー産業区。細く小さな光の色は、渾然一体となって瞬いている。

 のちに〈終末現象カタストロフ〉と呼ばれる異常災害の連鎖が世界各地で発生したのは、今から半世紀ほど前のことだ。数多の都市、無数の人々が命を落とし、人類は種の存続のために最後の楽園を建設した。生命循環都市イェレベスは、独立共同体都市コミュナポリスと呼称される五大都市の一角にあたり、約一万五千㎢にも及ぶ大地は、全都市で最大だという。

 すべての発展の根底には僵尸技術の存在があり、私たちの日常は他者の死に依存している。建築、工業、物流……インフラのほぼすべてが僵尸によって機能しているため、僵尸のメンテナンスや改良は常に優先度が高い。

 相変わらず遅々として進まない再帰器官の構築を一度保留、他のメンバーに任せ、他班に呼ばれてその手伝いをした。中でも秘面紗は、代替脳がその機能を十全に発揮するために欠かせないものでもあるので、私が関わる意義はそれなりに大きくなる。

 秘面紗はデータの読み書きが可能な特殊な繊維で編まれており、そこに労働種別のプログラムが記述されている。僵尸の用途に合わせた動作、応答の変更は、秘面紗の換装によって実行可能だ。額に穿たれた幾つかの穴に端部のプラグを差し込めば良い。

「新型用に護衛型を作ってみたんだが、使う機会あるか?」

「このご時世にボディガードつけることはそうそうないと思うけど……相性はまぁ、悪くないと思う。護衛兼執事とかなら、もう少し需要があるかも」

戦闘執事コンバット・バトラー? 終末前の映画みたいだな。面白そうだ」

 秘面紗班班長のホァンは僵尸に妙なロマンを見出していて、需要と無関係のものを作ってから相談を持ちかけてくる。腕はいいが、そのぶん生み出されるガラクタの量も多く、香薇は私と並べて「悩みの種」としてあげている。彼と比べたら私はまだ可愛いものだと思うけど。

 昼食を抜いて午後、素体が届いたと連絡があり、班長で集まって確認に向かった。搬入されてすぐの素体は、生命科学研究院地下の保管室に収められている。年齢や死因、状態に加え、生存級など個人情報のチェックをした上で、割り振りが行われ、その後に研究室へと運搬される。

「どこか余ったりしないかな」

 歩きながら黄に尋ねると、彼は飄々と肩を竦めた。

「無理だろうな。他のどの班も自分たちので手一杯だ」

 今回は諦めな、と励ますように笑う。「ごもっとも」私は素直に頷いた。

 保管室には既に香薇が待機しており、解剖台の上には計五つの素体が顔を隠して横たえられていた。室内に入ると同時に、「それじゃあ、始めようか」と香薇が口を開く。

「早速割り振り、と行きたいところだが、一件連絡事項がある。蔡紀明ツァイ・ジーメイ

 急に指名されて困惑する。「私ですか」と言うと彼女は頷いた。

「本来、ここに並ぶのは四体のはずだったんだが、急遽一体追加された。紀明ジーメイ、お前宛だ。どうしても生命科学研究院僵尸開発部の蔡紀明に渡してくれとのことだったらしい。検査で不審物は見つかっていない。心当たりはあるか」

 私は並んだ素体を見て黙考する。人の肉体が道具として扱われる現行社会において、自らの死体の行く末を案じる理由は基本的には存在しない。なぜなら、誰がどうやったところで、よほど状態が悪くない限りは各地の工場で僵尸に加工されるのがオチと決まっているからだ。死後に希望を残す余地などというのは、とうの昔に取り払われている。

 何より、そこまでして肉体を預けようという人物に心当たりはなかった。ただでさえ人付き合いが浅いのに、ここ数年はそれがより顕著になっている。研究者とくらいしか会った記憶はない。ただ、所属と名前がすべて明示されているのは奇妙だ。私のことをある程度知っている人物ということになるが……

「さすがにそれだけでは、何とも。顔と名前がわかれば思い出すかもしれないけど」

「それもそうだな」

 香薇は私を手招きして奥の解剖台の前に立った。布に覆われた身体の線は細く、なだらかに隆起した胸部が女性であることを示している。「状態はかなり良い。わかるといいが」彼女はそう言って、蛍光灯に照らされながら、面布をめくった。

「名は李瑶月リー・ヤオユエ、二十七歳。一般生存者だ」



 すべての素体が上階にある実験室の保管所に搬入された後、私は香薇と二人で喫煙所を訪れた。外壁に面しているためか、ここもまたガラス張りになっていて、見晴らしは良い。彼女は銀色のケースから煙草を二本取り出し、一方を私に手渡してから口に咥えた。順にライターで火をつけ、先端のゆるやかな燻りを静かに見つめる。

「まさか、僵尸チァンシーの頭をかち割って代替脳を啜るとはな。驚いたよ」

 苦笑する横顔に、私は頷いた。代替脳は当然、生者が摂取することなど想定していない。一部に強い毒性が含まれるため、慎重に扱うのが原則となっている。

 宙に吹き付けた煙は薄く、瞬く間に霧散する。涼やかな後味が口内でひりついた。

「気が狂った、とか」

「かもしれない。真相は電気信号とともに失われてしまったがね。今頃どこにあるかもわからない」

 そう言って皮肉げな笑みを浮かべる。私もそれに倣うように、わずかに口角を上げた。

「友人だった?」

高級中学こうこうの時は」

 私はそこで区切り、李瑶月リー・ヤオユエという記号のついた記憶を探った。

「卒業からもう何年も会ってない。でも、私がここで働いているのは知っていたと思う。ここに来て最初の年に一度、道端ですれ違いざまに話をしたことがある」

 あれは雨の降る日のことだった。僵尸産業区への視察の帰り、上級生存区を通った際に瑶月ヤオユエの方から声をかけてきた。「蔡紀明ツァイ・ジーメイ」私の方は気づきもしなかった。彼女の声は、心なしか弾んでいた。

 会話の内容は本当に些細なものだった。

「今どうしてる?」

「生命科学研究院で僵尸の研究を。そっちは?」

「言論と芸術のライセンスを取ったところでね。これから本格的に活動を始める予定」

 紀明は変わらないね、と彼女は言った。そっちもね、と私は返し、そこで別れた。

 それきりだった。瑶月の存在は私の日々から消失し、今に至るまで浮かんでくることもなかった。本当に、気にもとめていなかった。私と彼女の時間は学校で終わりを迎え、あとはそれぞれの選択をしながら死ぬまで生きるだけだと思っていた。

 彼女は自分が上級生存者として在り続けることを微塵も疑っていなかったし、私もそれは同じだった。李瑶月の存在価値が落ちるわけがない。一般生存者はもちろん、尸者にならなおさらだった。

 そうして瑶月の姿を思い返していると、「ああ、そうだ」と香薇が声を漏らした。そして懐を探り、こちらに一枚の紙片を手渡してくる。「これ、渡しておく。発見された時、手に握っていたそうだ」

 受け取って開くと、乱雑な字でたった一文、こう書いてある。

 死体は生命科学研究院僵尸開発部の蔡紀明へ。

 私は顔を上げて香薇を見た。彼女は虚空に視線を彷徨わせ、何を考えているかは推し量り難い。私はもう一度遺された言葉に目を向け、震えて歪んだ文字をなぞった。

「瑶月が何を期待したのかは正直わからない。ただ、気がかりなのは……」

「どうして〝一般落ち〟していたのか、だろう」

 香薇が呟き、私は灰を落としながら首肯した。「そして、なぜ自殺したのか」

 イェレベスの住人は、誰しもが自身に付与された社会的価値に支配されている。生存級──上級生存者や一般生存者といった属性は、社会に対する貢献可能性の指標の一つだ。これを定める〈生存法〉は、一定以上の貢献が期待できる人間に生存権を付与し、一方で、疾患や障害、それ以外の様々な理由によって貢献可能性が極端に低い者や秩序を著しく脅かす罪を犯した者を 〝尸者〟と見做す。尸者とされた人間は薬剤投与によって素体化され、僵尸へと加工される。

 上級生存者は高貢献性人材と呼ばれ、生存権を有する人の中でも能力の高い者が選ばれている。ほとんどの上級生存者は官公庁や研究機関に所属し、一般生存者よりも幾分厚い生活保障を受けることができる。私たちもまた、その区分に属する人材だ。

 生存級は基本的に生涯変わることがないが、例外として〝一般落ち〟というものがある。これは上級生存者が何らかの要因によって、一般生存者へと級を落とされることを指すものだ。私と会った時、瑶月は上級生存者であったはずだ。にもかかわらず、最終的な生存級が一般になっているのは、空白の期間に何かがあったと考えるのが妥当だろう。

 李瑶月は、十代の私にとってある種の特異性を持った存在だった。有り体に言うならば、親友、だったのだと思う。どうしても言葉が曖昧になるのは、このことについて適切に表現可能な語彙を今の私は持てないからだ。複雑なことを表すのに単純化してしまっては、内容が正確に伝わらない。そういう類の──少なくとも私にとっては──関係だったのだ。

 私は煙と沈黙の中で意を決し、香薇に向き直った。「明日からしばらく休みをください。それと、試作僵尸持ち出しの許可を」

 香薇はこちらを一瞥してから、「三日。申請書は自分で書いて、私が帰るまでに出すように」

 それから窓の外に視線をやって、どこを見るでもなく呟いた。

「ちょうど清明節チンミンジェーだ。本来は先祖供養の祭日だが、死人相手という意味じゃ、まぁ、似たようなものだろうさ」

 ギリギリまで吸った煙草を灰皿に押し付ける。私はほとんど口をつけなかったが、彼女の後を追って吸い殻を投げ込んだ。



 急遽僵尸のセッティングをすることになったとチームの皆に伝えると、彼らは特に不平を言うでもなく手を貸してくれた。私が班長になる前から一緒にやってきた夏蕾シア・レイ曰く、「あなたが不器用なのはみんな知ってる」とのことだが、私はそんなに危なっかしいだろうか。「対人関係のこと」それは確かにその通りだ。彼らは私のことをよくご存知らしい。

 額から頭部を切断し、脳を取り出した上で、最新版の再帰器官リカーシヴ・エンジンをインストールした代替脳オルガネートを入れる。分けてもらった擬似神経伝達液リキッドを送りこみつつ、秘面紗ヴェール用の穴を開ける。代替脳と擬似神経伝達液リキッドはどちらも生体と見分けるために淡い青色をしており、素体の皮膚は次第に青褪めていく。秘面紗のプログラムには、面白がった黄が旧式の記録型をくれたので、それを採用することにした。もう廃盤になった古い代物で、発話に対する紙媒体への記録を可能にするものだ。「昔の探偵みたいでいいだろ」というのが黄の弁だった。完全に趣味だ。

 申請を済ませ、他の職員が帰ってからも私は残り続けた。休みは明日からだ。香薇が来るまでにここを出ていれば、特に問題にはならないだろう。

 夜も深まり日を跨いだ頃になってようやく、簡易的な最終調整を終えた。研究室も外部の廊下も静まり返り、最低限の照明だけが点々と灯っている。こうして一人でいると、まるで巨大な生物の腹の中にいるようだと思う。異常災害に関する文献の中に、機械で構成された超巨大特異生物の報告が載っているのを見たことがある。イメージの源泉はおそらくそこで、そのあたりの詳細については、特異生物部の職員が詳しいはずだ。彼らの報告書もいくつか載っていた。

 ガラスで区切られた実験室の壁面に、一体の女性型僵尸が吊るされている。首から下を黒い運動補助衣に包み、いつでも稼働できる状態だ。

 顔を覆う秘面紗ヴェールを持ち上げると、濁った瞳がぐるりと回る。

 高度防腐処理エンバーミングの施された青白い肉体には、生前の痕跡が所々に刻まれている。それらが示すのは未来の不在だ。死は過去の残滓によって象られ、喪った言葉によって記述される。

李瑶月リー・ヤオユエ、私が見える?」

 声に応え、ぎこちなく首が曲がる。錆びの浮いた機械のように、役目を終えたはずの身体をゆっくりと軋ませる。身体は機能を喪失し、眼球の奥にはどんな像も結んでいない。プログラムに沿って、所定の動きをこなすだけだ。

 世界は不可逆に、滅びは滅びの形を保ち続ける。死も屍も無為自然を体現し、私たちはハリボテの劇場で人形遊びだ。気がつくと私たちは座席にいて、出口のないその箱の中で、役者と観客を兼任している。

李瑶月リー・ヤオユエ

 もう一度名前を呼ぶ。かつて、才知に裏付けされた密やかな驕りを湛えていたその眼は、自らに紐づけられた記号に応えることもない。肉体と名前は切り離され、この肉塊は二度と、私の知る女にはなりえない。

 どうして死んだのか? その問いすらも空虚なものだ。それがどれだけ無意味なことか、子供だって知っている。私のような人間であれば、なおのこと。

 けれど、李瑶月の死であれば、話は別だった。

 僵尸チァンシー

 動く死体。あるいは、屍を労働資源として再利用する技術。

 私たちは都市の一部として生まれ、死してのちにもその一部として生き続ける。ゆえに、死とは魂の喪失で、精神の欠落で、意識の磨耗であるという。

 けれど、私たちの誰も、魂の行く末を知らない。

 遺された身体に幾度触れ、切り開き、言葉を生んだはずの脳を弄くり回しても、真実の一片すらも与えられることはない。そしていつしか、何もかもが曖昧に砕かれた今の世界で、真理を求めることがどれだけ途方もなく愚かであるのか、私たちは思い知り、伸ばした手を下ろしていく。退廃を偽り、未知を欺くことこそが、延命の手段であると理解する。

 迷える羊、彷徨える骸。終末を憂い生命を循環させる都市の風景は、陰陽の混淆を体現し、いつまでも終わらない夢を見せる。

 秘面紗ヴェールを下ろす。もう、その死体には、懐かしき日の面影もない。

 誰もが見知らぬふりを繰り返し、やがて盲目になっていく。

 死者の顔を隠すように、私もまた、目を覆いながら今を歩む。

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