第四話 ここに居させて③
菜知の家にお邪魔してから三日目の晩、真琴はまた物件の情報誌を広げていた。
実は昨日から取り寄せた情報誌を見ていたが、気にいる物件がなく、難儀していた。
その様子を菜知はコーヒーを飲みながら眺めていた。
退屈になったのか、関係のない話題を切り出す。
「まさか私に女の子の友達ができるだなんて夢にも思わなかったよ」
「そんなにですか……?」
「どこに行っても私は一人だったからね。そういう星の元に生まれたのさ。奏もそう。でも、真琴。君は違う。君はたくさんの人に囲まれて、愛されているね」
それは確かにそうだった。思い返せば、家族、会社、奏、出会ったばかりの菜知にまで……真琴は常に誰かの好意に支えられていたことを実感する。
奏は周囲の人々から褒め称えられ、愛されているかのように見えたが、誰も奏の本心など見ようとしていなかったし、奏もまた人に心を開いていなかった。
しかし、自分にだけはいつも感情を真っ直ぐ伝えていてくれたと思う。
こんな意地っ張りで頑固な自分を、可愛いと、好きだと言ってくれる。
方向性が間違っていることはあれど、真琴の人生最大の不運の時に、傍に居て助けてくれたのは紛れもなく奏だった。
奏に関して、一緒に暮らし始めて、ひどく怒りを覚えることもあれば、愛しく感じる瞬間というのも確かに存在する。
自分の感情や考えがまだ整理できていないが、未熟で甘えてばかりだったことは強く実感することになり、いたたまれない感情になる。
――どうしてあの時に奏の目を真っ直ぐ見てあげられなかったのだろう。
奏は今何をしているだろうか、彼は傷ついているだろうか、自分のことを嫌いになってしまっただろうか――……
形容できない感情が、形となって、気がつけば頬を伝っていた。
「あれ、真琴?」
「す、すみません……っ、なんか、色々わかんなくなっちゃって……」
「そう」
菜知は多くを語らず、そっと真琴を抱き寄せて、頭を撫でた。
菜知のそういった挙動があまりにも奏に似ているものだから、さらに彼のことを思い出した。
もう一週間ほど触れていない彼の体温がたまらなく恋しいと思い、胸が張り裂けそうになる。
こんなにも奏への気持ちが自分の中に育っていたことに真琴は驚いた。
離れて初めて実感した感情。これは確かな感情なのだと認識する。
「まだ分かり合えない所はいっぱいあるけど……奏とちゃんと話してみようと思います」
「うん」
「明日、奏の家に戻ります」
「そうか。それは嬉しいやら悲しいやら」
「迷惑かけて、振り回してすみませんでした。でも、一条さんがいてくれて本当に良かったと思います」
「まったく、可愛いことを言うじゃないか」
* * *
翌日、菜知の家から職場に向かい、その日一日の労働はしっかり果たした。
定時を迎え、真琴は菜知の部屋に置いていた衣類の荷物を引き取ると、奏が待つ家に帰る。もう奏は帰っている時間のはずだ。
菜知のマンションを出る前、最後に彼女が真琴の背中を押す。
「今は居たいと思う場所に帰れば良いのさ。難しく考える必要なんてないさ」
三日ぶりの奏の家に到着して、ガチャリと鍵を回して玄関を開ける。
部屋の全ての電気が消灯されており、物音ひとつしない。
奏はまだ帰宅していないのかと思い、玄関の電気をつける。すると、そこには奏の靴が揃えてあった。
嫌な予感がして腹の底が気持ち悪い感覚になる。
怖がりな真琴は全ての電気をつけながら、恐る恐る家の中を進んでいくと、リビングのソファに奏が一人、微動だにせず、ただただ座っていた。
「こんな真っ暗で何してんの!? 変なことがあったらどうしようって心配したじゃない!」
「真琴……? 幻覚……?」
「本物よ!」
どすん、と勢いよく奏の横に座り、眉を吊り上げながら奏の顔を見る。
こんなに覇気がなく意気消沈している奏は初めて見た。
「……帰ってきたの」
「本当に?」
「うん。……その、私もたくさん甘えてたくせに生意気ばかり言ってたと思う。ごめんなさい」
「僕も……ごめんね。真琴にどうしても離れて欲しくなかったんだ。真琴の意見を尊重してやれなかった」
「うん。それで、奏さえ良ければ、もう少しだけここに居させてください。ここに……居たいです」
真琴は奏としっかりと向き合って話をした。
恥ずかしくなると目を逸らす癖がある真琴だが、小さく震えながらも、じっと奏の目を見つめてる。
奏はその問いに応えるよりも先に、真琴の背に手を回し、自分の方に引き寄せるようにしっかりと抱き締めた。
「もう離れてほしくない」
心の底から搾るような声で応えた。
「真琴は恋人同士なら一緒に暮らしても良いって言ってた。そのつもりでいるってこと?」
「……それについては……もうちょっと時間をちょうだい……」
「焦らすなんて意地悪なんだね」
「私だってこれでも前向きに検討してるのよ!」
初めて真琴の口から〝脈アリ〟であることを聞かされた奏は少し驚いた顔をする。
真琴の恥ずかしさが限界を突破したようで、やっぱり目を逸らしてしまっている。
その姿を見た奏はより一層真琴を引き寄せ、鼻先がついてしまいそうになるくらい、互いの顔を近づける。
そしていつものように唇を――……
「ストーップ!!」
唇が触れる直前、真琴は奏との体の間に手を挟み、そのまま押し離すように距離を取る。
「……なに?」
「今後、奏との関係を円滑にするためにも話し合うことがたくさんある!」
「どういうこと?」
「まずは、お互いの意見が違った時は勝手な行動をせず話し合うこと! 次に、世間一般の常識に沿った行動をすること! それから……」
真琴は指を折りながら、いくつも注文を加える。
奏はそんな真琴の様子を見て思わず笑みが溢れる。
「ねぇ、わかったから、後でゆっくり話し合おう。キスはダメっていうのは無いよね?」
真琴はまだ話し終えていないのに、奏は待ちきれないといった様子で、顔を真琴の首筋に擦り寄せて、子猫のようにねだる。
真琴はくすぐったくて、思わず高い声が漏れた。
「ひゃっ! ちょっと、まだ……」
「もう待てない」
奏は首筋にそのまま唇を添わせ、撫でるようにゆっくりと動く。
奏の顔が真琴の首筋からそっと離れると、真正面に向き合い、真琴の弱点でもある潤んだ目でじいっと見つめた。
「終わったら、気が済むまで話し合いするんだからね!」
「勿論」
ぶっきらぼうな物言いをする真琴があまりにも可愛らしく映り、奏は微かに笑うと、そのままソファに押し倒し、あつい体を密着させた。
一週間ぶりに、唇を重ね、舌を交えて、お互いを貪り合った。
キスをする度、思考が定まらなくなり、昂る激情を抑えきれなくなる。
しかし、その興奮は以前とは変わりつつあった。
それは背徳感ではなく、存分に愛されることへの多幸感と呼べる心地の良いものへと変貌していた。
その瞳、唇、腕、体温、存在全てを愛しいと感じている。
* * *
一時間ほど前――。
奏のマンションの前に一台の黒のセダン車が停まっている。
空はすっかり暗くなってしまっていたので、その車の中の様子を外からは覗うことはできない。
車の中の人物がマンションの前にある歩道を眺めていると、衣類が詰まった紙袋を携えた真琴が帰宅し、マンションに入って行く様子が見えた。
その人物は、真琴を見つけると少しだけ窓を開き、彼女を肉眼で捉え、ぽつりと呟いた。
「奏……どうしたら帰ってきてくれる?」
【第四話 終わり】
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