第二話 君は勝手ばかり②
職場に着く頃にはいくらか心は落ち着いていた。
ここでやることは火事事件の前後で何ら変わりはない。
先輩にパシられながらも淡々と自分の仕事をこなすだけだった。
お昼の十一時を回った頃、受付スタッフの女性が真琴を訪ねてきた。
「本田さん、お客様が来られています」
なんだろうと思って受付スタッフの方を見やると、その後ろにはにこやかな笑顔を浮かべ、高級感あるスーツに身を包んだ長身の男が立っていた。
「な!?」
何でここに、と問いたかったのにも関わらず、驚きすぎてその頭文字しか発声できなかった。
社内には滅多にいないような美青年が来客したものだから、その場にいた他の人々も男のほうを無意識に目で追っていた。
その男――奏は真琴の前までつかつかと歩み出すと、目の前でピタっと止まり、右手に抱えていたお弁当を差し出す。
「はい。お弁当。忘れて出て行ったから。それと朝はごめんね。」
〝普通に周囲に聞こえる声〟で平然と話しだす。とびきり甘く爽やかな笑顔を携えて。
呆然としている真琴の手にはそのままお弁当が手渡され、彼は待機していた受付スタッフの元へ歩み出した。
奏は受付スタッフの後ろをついて行き、その場を立ち去った。
奏の姿が見えなくなると、その場に残った人々の視線はジロリと真琴の方へと向いた。
一連の流れを見ていた同僚が、いそいそと駆け寄って来てコッソリ声をかけてきた。
「今の人、本田さんの彼氏!? すごいカッコいいじゃん! お弁当って!? もしかして家無くしてからあの人の家に住んでたの!?」
「あの人、彼氏じゃないですから!」
恐れていたことが起こった。
職場の人々にまで、奏の存在と同棲が知れ渡ってしまった……――!
「ええ~? 本当に~?」
真琴が普段から強気で意地っ張りな様子なのは職場の人たちにもお馴染みだったので、同僚は真琴がただ恥ずかしがってはぐらかしているかのように感じ取っていた。
野次馬のようにおもしろがる同僚をはねのけるようにして、誰とも目を合わさず、自席に戻った。
そしてスマホを取り出し、すぐさまメッセージアプリで奏に怒りの抗議文を送りつけた。
奏が真琴の日常に侵食してこようとしている。
真琴は、いつか自分達のルーティーンが周囲に知られてしまうのではないかと恐れている。
恋人でもなく、大嫌いだと宣言している相手と、夜な夜ないやらしいキスに耽っている。
周囲に不純異性交遊に乱れる女なのだと思われたくなかった。
自分で言うのもなんだが、真琴は今まで、人間関係には真っ直ぐで、不純異性交遊とは無縁だったし、それを許すような性格でもなかった。
だから自分でもなぜこのような状況に陥っているのか理解できないくらいだった。
しかし、彼との甘い時間は理性で抗えないような引力で引き寄せられ、止める事ができないのだった。
行為に耽っている瞬間は、その背徳感でさえもスパイスになってしまうくらいに。
* * *
その日の夜、奏が帰宅すると、真琴はまだプリプリと拗ねた様子を見せた。
奏にとってはその姿さえ可愛く、愛おしく見えたので、慣れた様子で真琴を見つめていたが、〝いつもの時間〟になっても、真琴の機嫌は治らなかった。
「真琴まだ怒ってるの? ほら、おいで」
「今日はしない」
「え?」
「明日も明後日もしない!」
真琴の物言いはまるで拗ねた子供ように頑なだった。
奏は捨てられた子猫のように、潤んだ瞳で真琴を見つめる。
真琴はこの目に弱かったので、一瞬たじろいでしまった。
しかし意思を強固にして、きゅっと口を真一文字に結んでそっぽを向いた。
「真琴、僕が悪かったから機嫌を直して? そんな冷たい事言わないで?」
「……」
「真琴のこと、大好きなんだよ」
「……」
「だったら僕に挽回のチャンスを頂戴。明日の休みは真琴がきっと気に入る所に連れてってあげる。ね、お願い」
あまりにも眉を下げて困ったような表情で見つめてくるので、自分の方が大人気ないことをしているような気になった。
真琴は結局お人好しなところがあり、必死にお願いする奏を無下にはできなかった。
奏の必死のお願いは、本気で参っていたのか、それとも真琴がこういうことに弱いと知っていてわざとやっているのか、それを見抜ける力は真琴にはない。
「……わかった」
真琴の間一文字に閉じていた唇がようやく開き、奏の下がっていた眉も元の位置に戻る。
しかし結局この晩にルーティーンは行われず、その一日を終えた。
* * *
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