第一話 愛などなくとも④

二月六日(同棲三日目)


 真琴まことが目を覚ます。

 時刻は朝六時を少し過ぎたところで、キッチンからは物音が聞こえる。

 ぼーっとした頭でのそのそと布団から出て、キッチンへ向かう。

 キッチンからはリビングも一望できるのだが、昨日運んだ布団はすっかり片付いており、かなでが朝食の準備をしていた。

 その光景を見た瞬間、昨夜の出来事を思い出し、体が固まってしまった。


「おはよう、真琴」


 奏はいつも通りの薄笑いを向けていた。

 この反応は昨夜のことを覚えているのか、覚えていないのか、わからない。

 覚えていたとしても、知らんぷりをしてこちらの反応を面白おかしく楽しむような男と認識しているのだから油断ならない。

 どうしていいのかわからず、何も言わず固まっていると続けさまに声をかけてくる。


「どうしたの」


 本当に不思議そうな目で見てくる。なんとなくの勘だが、これは覚えていないのだと感じた。

 あんな少量で自我を失うほど酔っ払い、暴走し、果ては寝落ちしてしまった男だ。記憶に残っていないほうが当然だ。

 真琴はそろりそろりと動き出し、椅子に腰をかける。


「今日は仕事に行くの?」

「そうだね」

「そう」


 いつも通りの端的な会話をするも、終始変わらぬ反応なので、真琴もいつもの調子に戻ることにした。

 朝食を終え、リビングで朝のテレビ番組を眺めていたら、奏はすっかりスーツに着替え終えていた。

 ここ連日ずっとオフの姿を見ていたため、仕事モードの姿が見るとギャップに少しだけ心が動きそうになった。悔しいけれども、ルックスだけは好きだと改めて思う。

 特に声をかけることもなく淡々と出社の準備を進め、玄関へ向かっていく奏を目で追う。

 玄関まで送り出すべきかどうか迷ったが、恋人なわけではないのだからそこまでするのもおかしいだろうと思って、目線だけは玄関先を見据えていた。

 奏は黒の革靴を履き、玄関のドアに手をかけた瞬間、こちらに振り向き話しかけてきた。


「キスってオキシトシンが分泌され、幸福度が上がるから沢山した方が良いらしいよ」


 そのまま流れるように扉を開けると外のまぶしい光が入り込んだ。

 奏はそれだけ言い残し、外の光へ消えていってしまった。

 ゆっくりと自然に閉じゆく玄関扉を見つめたまま、真琴は呆然と固まった。

 彼は昨夜のことを覚えていた――!

 ホラー映画のようにゾっとした感覚が全身を包む。

 いつも通りのフリをして、最後の最後に爆弾を落とすなんて、本当に意地が悪い。

 昨夜のことは忘れているだろうという真琴の勘は見事に外れていた。

 十分真琴の反応を楽しんだうえでの確信犯であった。

 昨夜、真琴は自分でキスの許可を出し、結果何度もキスを重ねてしまった。

 旧知の仲だからこそ、彼が用意周到に外堀から埋めていく性癖の人間であることを存じている。

 これからどのようなことが待っているのだろうか……顔色だけがどんどん真っ青になっていくが、今も視線は玄関扉に釘付けのままだった。


*  *  *


「どうして、あの時頷いたの」


 あの時――酔った奏がキスの許可を求めた時、真琴は頷いてしまった。

 その結果、二人の唇は重なってしまったのだった。

 奏の声色は落ち着いていたが、その目元には戸惑いが滲んでいた。

 澄ました顔をしていても、きっと彼も昨日のことは理解が追い付いていなくて、心の底では不安を飼っていたのかもしれない。


「それは……その……私もあんまり……」

「真琴、僕は正直に答えたよ」


 奏の真っ直ぐな瞳に圧倒される。

 真琴は相手が誠実ならば自分もそれに応える性分だ。もちろん相手が天敵であってもフェアでいたいと思う。


「私も酔っていたし、突然のことでパニックになってしまったから、自分でも本当に理解できていないの……。でも、そうね、あの時は……キスしても良いかもって思っちゃったの。それがなんでかは、私でもわかんないの」

「真琴はあのキス、気持ちよかった?」

「な!何言ってんの!? 確認は一つだけって……」


 すると奏の右手が伸びてきて、真琴の顎を引き上げる。そして親指で唇を優しく撫でた。


「もう一度したい。今度は酔っていない状態で。だめかな?」


 あの時と同じ、掠れ声で甘えてくる。

 ドキドキと鼓動が早くなる。庇護欲をそそるような甘えた仕草にたまらない気持ちになった。

 初めて真琴は自分の性癖を実感した。

 自分は甘えさせてもらえるのではなく、甘えられる方がグッとくるのだと……――。

 昨夜のキスだって、正直心地が良かった。

 好きでもない相手にキスだけであんなに感じるなんて、余程体の相性が良かったか、もしくは背徳感からの興奮か……。

 何にせよ、今まで感じたことのない激情に突き動かされていたのは事実で、あの時のことを思い出すと今も激しく心を揺さぶられ、体の芯がじわりと熱くなる。

 また同じ経験をすると思うと、胸の鼓動が思考を遮るくらい大きく高鳴り、まともに思考できなくなる。

 緊張、好奇心、情欲、背徳感、いろんな感情がごちゃまぜになり、真琴の震える唇から小さな声が漏れる。


「キスだけなら……いいよ」


 まさかの回答に奏の瞳は一瞬見開いたが、すぐに微笑み、真琴の腰に手をまわすと、優しく抱き寄せた。

 うっとりとするような瞳で真琴のことを見つめたのち、ゆっくりと唇を重ねる。

 しっかりと重なった唇は、貪るようにしてなかなか離してもらえない。

 しかし、強引ではなく、優しいキスだった。

 唇は重なったまま、奏の唇が開こうとする。つられて、真琴の唇も開かれた。すると、奏の舌が真琴の舌に絡みつき、丁寧に舐め回す。


「ん…、はぁ…あ…っ」


 吐息混じりの声が漏れる。

 部屋にはリップ音と二人の吐息だけが聞こえる。


「んん…ぁ、ん…っ、はぁ…っ」


 数分間、二人は唇を貪り続けた。

 ようやく奏の方がゆっくりと顔を離していく。

 恍惚とした表情で、頬は紅潮し、その瞳はギラギラと輝いていた。


「はぁっ、はぁ…」

「真琴の唇、気持ち良い」

「ぅん……」


 奏は最後に一度、短く優しいキスをして、天使のごとく純粋無垢に微笑んだ。

 その男の表情に、仕草に、視線に、真琴は激しく揺さぶられる。

 ――この感情は一体なんなのか。


「約束は守るよ。キスまでだね。……ねえ、これからもいっぱいキスしたいな。真琴さえ良ければ」


 耳元に唇を近づけ、吐息がかかるように甘えた声は悪魔の囁きのように蠱惑的だった。

 完全に腰が砕け、呆けた表情を見せてしまったことがあまりに恥ずかしくて、目を逸らした。

 真琴は今まで数人と交際した経験があり、その全員とキスは済ませていたが、過去のものとは比べ物にならないくらい気持ちよく、熱い興奮を覚えた。

 理性では止められない、本能が依存してしまうような快感だった。

 それは今まで必死に閉ざしていたつぼみが、開花の兆しを見せた瞬間だったのかもしれない。

 奏の言葉に対し、何かに引き寄せられるように、真琴は無言で頷いた……――。


【第一話 終わり】

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