第一話 愛などなくとも③

「んで! 先輩って私のこと完全にナメてるけど本当は私のほうが一枚上手に立ち回ってやってんのよ! そう思わない!?」


 茹蛸のように顔を真っ赤にし、呂律が回っていないのにも関わらず声を張って話しているのは真琴の方だった。

 あろうことか真琴の方が先に酔っぱらってしまい、しかも日頃のうっぷんを発散し始めた。


「真琴、ねえもう酔っぱらってるの? 弱くない?」

「弱くないわよ! 奏はさっきから全然飲んでないじゃない! ずるい! 飲んでくれないなら出てく!」

「わかった、飲むから、落ち着いて」


 相手の勢いに負けて缶ビールに口を付けた。その間に真琴は二本目を開け、その勢いは留まることを知らなかった。

 奏もペースは遅いがちびちびとビールを口に運んでいた。

 真琴は二本目も勢いよく飲み干したあと、ふらふらと立ち上がり冷蔵庫の方へ向かったかと思うと、帰ってきた際にはまた缶ビールを二本持っていた。


「いや、さすがにもう次の一本で最後にしよう、ね、良い子だから…」

「違うわよ、こっちは奏の! それ、開けてから随分経ったでしょ。もう新しいのに変えちゃえば――」


 そう言って奏の缶ビールを持ちあげると、それは全く減っている様子がなかった。

 飲むペースは遅かったが、こんなに残っているはずはない。フタを開けた時と全く変わっていない量のビールが残っていた。

 奏は口を付けるフリをして、全く飲んでいなかったのだった。

 自分は本性を曝け出し、歩み寄ろうとしたのに結局彼はそれを無下にしていた、そう感じた真琴はまた目を真っ赤にし、今度は涙が零れそうなくらい潤んでいた。

 真琴の嫌がる反応を楽しむきらいがある奏だが、本気で悲しむ顔は見たくないのだ。

 真琴のうるんだ瞳を見て、奏は諦めたように息を吐き、小声でなにかを呟いた。


「ねえ、どうなってもしらないよ?」


 真琴の手から自分の缶ビールを再び取り戻し、ゴクゴクゴクと喉をならしながら半分ほどを飲み干した。

 缶ビールをダンッと机に勢いよく置いて、そのまま下を向いて動かない。

 真琴はあまりに素早い一連の行動に驚き、ただじっと見ていた。

 俯いたまま動かない奏の背中にそっと手を添えて、顔を覗き込もうとするも、どんな表情をしているのかは見えない。

 その直後に奏は体を起き上げ、勢いよく真琴の手首を掴む。

 気が付けば真琴の眼前には奏の顔しか映らないほど近くにいた。

 そしてそのまま押し倒されるようにソファに横たわった。

 奏は見たことのない表情をしていた。目はとろんと焦点が定まらないようで、頬もうっすらと赤みを帯びている。口は緩んだように少し開いたまま動かない。唇はビールに濡れてキラキラと光っていた。

 奏は真琴以上にお酒に弱かったのだ。

 異常な近さに身の危険を覚え、真琴は少し酔いが醒めた。

 でもまだ先ほどまでのアルコールは完全に抜けきらない。体に力が入らないし、思考も上手く定まらない。体があつい。

 日頃から奏の人格は理解できず、敬遠していたが、正直のところ、その美しい顔だけは好きだった。

 その顔が熱を帯びてこんなに近くにあるので、どこを見てよいかわからず恥ずかしさでいっぱいになるも、目を逸らすことができずに、真琴の丸い目は大きく見開いて釘付けになっていた。


「真琴、かわいいね。世界一、かわいいよ」


 奏はさらに距離を縮めてくる。

 片方の手は真琴の手首をがっちりと握ったままで、空いている反対の手が伸びてきて、真琴の頬を優しく撫でた。

 ただその瞳は真琴の瞳をじっと見つめて離さない。

 ソファに押し倒すようになったその体制は、真琴の体に奏の体がぴったりとくっつき、相手の体温と重量が微かに伝わる。

 身動きひとつ取れないどころか、視線を逸らすことさえできない緊張感が走った。

 ――まさかこの完璧超人の弱点がお酒だったなんて! 奏は自制していたのに自分が煽ったのだから何も言い訳ができない。

 お互いの鼻先が触れるくらいに近づいた顔は、それでもなお瞳をじっと見つめたままだった。


「真琴だけを愛してる」


 吐息がかかる。甘く、擦れた小さな声で愛を囁く。

 この男はいつも恥ずかし気もなくそのようなことを言ってくるので、真琴は慣れっこだったのにも関わらず、この状況での愛の告白には緊張と羞恥で頬が紅潮せざるを得なかった。


「……キスしてもいいかな」


 頬に触れている奏の手の親指が、真琴の唇をゆっくり優しく撫でる。

 真琴はパニック状態で思考が追い付かなくなり、何を思ったのか自分でもわからず、小さく頷いてしまった。それは一種の反射行動だったのかもしれない。

 それを確認すると、一層体重がのしかかり、唇には温かいものが触れていた。

 数秒経ったのち、唇は離れた。

 また相手と視線が合ったが、相変わらず目つきは焦点が定まっていない。

 自分の体の中でドクンドクンと激しく脈打つ鼓動を感じる。

 真琴がまだ思考停止しているうちに、視界はまた塞がれ、再び唇に何かが触れた。今度はすぐ離れたかと思うとまた塞がれる。啄むようなキスを繰り返す。

 嫌いなはずの相手とキスを貪っている――背徳感に近い感情がふつふつと心の底で煮えたぎる。なのに、その温かさと柔らかさは心地よく、体が徐々に興奮を覚えてしまう。

 一心不乱の求愛行動に、真琴は奏のことを初めて可愛いと感じた。

 いつもの余裕ある薄笑いはそこに存在せず、あの完璧超人が本能のままに唇を求めている。

 真琴の体は抵抗力を失い、されるがままに身を委ねていった。

 徐々に相手が口づける場所が耳、首筋へと下りて行く。

 真琴だってもう子供ではなく大人の女性ということを自覚しているので、この流れは覚悟を決めるしかなかった。

 奏の唇が鎖骨のすぐ下あたりまできたとき、ゾクっとしたのも束の間、相手の動きが止まった。

 三十秒ほど経っても動きがない。動かなくなった相手を見やると、小さな寝息が聞こえてきた。


「ここまでしておいて……」


 がくんと力の抜けた成人男性の体重が重くのしかかる。

 真琴はやるせない様子で、ゆっくりと男の体を押しのけてその場を脱出した。

 倒れこんだ奏の顔を覗き込むと、本当に眠っていた。

 よくよく考えると、奏の寝顔を見るのは初めてだったかもしれない。

 見ているだけでドキドキするような、美しい寝顔だった。

 どれだけ真琴が近くで見つめていても、奏は身動きせず眠り落ちたままだった。


「私じゃアンタを運べないんだから」


 繊細な睫毛を人差し指の背で掬うように撫でながら軽く息を吐く。

 それでも自分のせいでこうなってしまったことは自覚しているので、奏の寝室から布団を持ってきて、ソファに横たわる奏にかけた。

 テーブルに乱雑に置かれた複数の空き缶を片付ける。

 自分も今日は寝る準備をするため、そのままシャワーを浴びに行った。

 寝る直前にリビングを覗いてみたが、奏の様子は変わらずだった。


*  *  *


二月六日(同棲三日目)


 真琴まことが目を覚ます。

 時刻は朝六時を少し過ぎたところで、キッチンからは物音が聞こえる。

 ぼーっとした頭でのそのそと布団から出て、キッチンへ向かう。

 キッチンからはリビングも一望できるのだが、昨日運んだ布団はすっかり片付いており、かなでが朝食の準備をしていた。

 その光景を見た瞬間、昨夜の出来事を思い出し、体が固まってしまった。


「おはよう、真琴」


 奏はいつも通りの薄笑いを向けていた。

 この反応は昨夜のことを覚えているのか、覚えていないのか、わからない。

 覚えていたとしても、知らんぷりをしてこちらの反応を面白おかしく楽しむような男と認識しているのだから油断ならない。

 どうしていいのかわからず、何も言わず固まっていると続けさまに声をかけてくる。


「どうしたの」


 本当に不思議そうな目で見てくる。なんとなくの勘だが、これは覚えていないのだと感じた。

 あんな少量で自我を失うほど酔っ払い、暴走し、果ては寝落ちしてしまった男だ。記憶に残っていないほうが当然だ。

 真琴はそろりそろりと動き出し、椅子に腰をかける。


「今日は仕事に行くの?」

「そうだね」

「そう」


 いつも通りの端的な会話をするも、終始変わらぬ反応なので、真琴もいつもの調子に戻ることにした。

 朝食を終え、リビングで朝のテレビ番組を眺めていたら、奏はすっかりスーツに着替え終えていた。

 ここ連日ずっとオフの姿を見ていたため、仕事モードの姿が見るとギャップに少しだけ心が動きそうになった。悔しいけれども、ルックスだけは好きだと改めて思う。

 特に声をかけることもなく淡々と出社の準備を進め、玄関へ向かっていく奏を目で追う。

 玄関まで送り出すべきかどうか迷ったが、恋人なわけではないのだからそこまでするのもおかしいだろうと思って、目線だけは玄関先を見据えていた。

 奏は黒の革靴を履き、玄関のドアに手をかけた瞬間、こちらに振り向き話しかけてきた。


「キスってオキシトシンが分泌され、幸福度が上がるから沢山した方が良いらしいよ」


 そのまま流れるように扉を開けると外のまぶしい光が入り込んだ。

 奏はそれだけ言い残し、外の光へ消えていってしまった。

 ゆっくりと自然に閉じゆく玄関扉を見つめたまま、真琴は呆然と固まった。

 彼は昨夜のことを覚えていた――!

 ホラー映画のようにゾっとした感覚が全身を包む。

 いつも通りのフリをして、最後の最後に爆弾を落とすなんて、本当に意地が悪い。

 昨夜のことは忘れているだろうという真琴の勘は見事に外れていた。

 十分真琴の反応を楽しんだうえでの確信犯であった。

 昨夜、真琴は自分でキスの許可を出し、結果何度もキスを重ねてしまった。

 旧知の仲だからこそ、彼が用意周到に外堀から埋めていく性癖の人間であることを存じている。

 これからどのようなことが待っているのだろうか……顔色だけがどんどん真っ青になっていくが、今も視線は玄関扉に釘付けのままだった。


*  *  *

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