第一話 愛などなくとも②

 食事を終えると片づけを手伝い、真琴にあてがわれた部屋を案内された。荷物――といってもバッグひとつだが、すでにその部屋に移されていた。部屋の隅には敷布団が畳んである。

 奏の交友関係など兄以外に知らないが、この家にはよく人が行き来するのだろうか?

 随分と手際が良いなと感じた。

 今日はとにかく疲れたので、真っ先に布団を引き、身を温めるために布団に潜り込んだ。

 ようやく手足を伸ばすことができ、体の節々から心地よさを感じる。

 そして、知らない天井を見上げ、「明日は朝一で会社に連絡しないと……そういえば先輩に頼まれたコピー、やらずに出てきちゃったな……」などと思考していた。

 微睡みながら今日という日を振り返る。しかしその思考が長く続くことはなく、数分のうちにその意識は落ちていった。



 一方で、奏はリビングのソファで一人佇んでいた。

 晩酌しているわけでもなく、テレビも付けず、ただ一人じっとしている。

 彼は本日幾度か思考が止まる瞬間があった。

 〝運命の人〟は一度だって自分に振り向いてくれたことはなかった。

 その彼女のピンチに彼は居合わせ、自分のチャンスに変えることに成功した。ただ、今回の件は下心からではなく、本当に彼女を助けたいと思う一心からだったのは事実だった。

 しかし、自分の部屋着を纏う彼女の姿を見ると、普段は完璧超人として振る舞う奏もさすがに思考が停止した。

 それからは夢心地であった。愛する人との同棲が成就した。

 彼は十年以上に渡り、外堀からゆっくり、じっくりと埋めて行って、難攻不落の城を陥落させるべく画策していたのだが、大きな夢のひとつを達成した。

 実をいうとこの部屋には来客など今まで一度もなかった。なのに、客間や布団などが用意してあったのは、いつか彼女を迎え入れるために用意周到に準備されていたのだった。

 しかし、そういった遠回りでストーカーめいた行動こそ真琴の心を遠ざけていたし、もはや本人にとっては〝いやがらせ〟とも感じざるを得なかった。

 そんな真琴の嫌がる反応さえも楽しんでいたのだから、やはり瀬戸 奏という男の愛情はどこか異様であった。



*  *  *


二月五日(同棲二日目)


 朝、目が覚めるとまだ部屋の中は暗かった。

 しかし、そこは明らかに築三十年ボロアパートの自分の部屋ではなかった。

 すぐに昨日のことを思い出し、すべてが現実に起きたことだったのだと落胆した。

 壁時計で時間を確認しようも、暗くて判別できない。

 枕元に置いていたスマホを付けて時間を確認すると、朝の五時半を回ったところだった。

 いつもならこんな時間に起きることはないが、昨日は就寝時間がいつもより三時間も早かったせいか、もう眠たくはなかった。

 さすがに早朝から家の中をウロウロすると家主に迷惑がかかるので、スマホで「火事 家」などと調べて今後のための情報収集に励むことにした。

 三十分ほど経ったとき、部屋の外から物音がした。奏が起きてきたのだろう。そういえば彼は今日も仕事があるはずだ。

 布団から起き上がり、キッチンに向かうと奏が立っていて、朝食の準備でもしようというところだった。


「おはよう、よく眠れた?」

「おはよ。お陰様でね」

 真琴もキッチンの横に並び、一緒に朝食の準備を始めた。

「奏は仕事に行くでしょ。私はいろいろ揃えないといけないものや手続きがあるから、しばらく会社を休むつもり。今日は必要な服を買いに行くから家を空けるね」

「僕もついていくよ」

「え?」

「仕事より真琴を優先したいんだ。それに荷物だって多くなるんだから、手伝うよ」

「……」


 やはりこの男の執着に理解できず、心の中でいつもの警告音が響き始めた。

 しかしまあ、荷物持ちがいるのは買い物をする側にとっては有難いことだと思ったので、今日のところは好きにさせることにした。

 会社の始業時間になり、真琴は自分の会社に連絡し、昨日の顛末を話した。

 さすがに上司も同情してくれ、ひとまず一週間の休みを勝ち取った。足りないようならまだ伸ばしても良いという気遣いも得た。

 元の生活を取り戻すために、収入源がなくなるわけにもいかないので、臨機応変に対応してくれる会社には感謝の気持ちでいっぱいだ。

 また、念のため両親にも報告の電話をしておく。

 奏の名前は出したくなかったので、知人の家に居候させてもらうということだけを伝え、体には大事ないということを伝えると、両親も安心していた。

 そして昼頃には奏と一緒に繁華街に出て、お馴染みの洋服店へと足を運んだ。

 住む部屋を用意してもらったとはいえ、下着も部屋着も私服もない状態では困る。

 今後の出費を考えて、必要最低限だけを買おうと思ったが、予想以上に荷物が多くなってしまった。

 正直、荷物持ちを連れてきてよかったと思うが、その場に奏の姿はなかった。というのも、買い物している間に自分の好みを主張してきたり、馴染みの店員に彼氏と間違われるのが癪で、途中からは彼を別の場所に待機させていた。

 彼と離れてから約一時間は経過しただろうか。ようやく買い物が済んだのでメッセージアプリで連絡を取ると、どうやら近場のカフェで時間をつぶしているらしかった。

 丁度真琴も一服したいと思っていたので、その場所に向かうことにした。

 指定のカフェに入ると、奥のほうの座席に優雅に足を組みコーヒーを飲んでいる天敵を見つけた。真琴もコーヒーを注文し、奥の席へと向かう。


「もう済んだの?」

「衣類はこれで十分だと思う」

「真琴、今日の晩は何が食べたい?」


 奏は不要な会話を削ぎ取る癖があるのか、急に別角度の質問が飛んできて少し面食らった。


「アンタほど上手くはないけど私だって普通に料理はできる。部屋を貸してもらっている以上、私も何かやらないと気が済まない。だから、料理は私に担当させて」

「んー……僕も料理を振る舞うのが楽しみにしてたんだけどな。間を取って、それぞれ家事担当を曜日で決めるのはどう?」

「それでいいわ。」


 周りから見ても、この二人の間には〝楽しい日常会話〟を楽しむ様子は一切なかった。

 ただ淡々と、必要なことだけを伝えるビジネスライクのような会話だった。

 二人のカップが空になったところで、二人はカフェを出て帰路についた。

 その際も、特に日常会話を楽しむ様子などなかったが、奏は真琴と一緒にいられるだけで幸せといったような様子であった。



 部屋に着くと、真琴はまず最初に下着を替え、それぞれの衣類を整理した。

 昨夜は下着を持ち合わせていなかったので、同じものをつけるしかなかった。

 新しく下ろした下着に付け替えた時は身が清らかになるような爽快感を感じた。

 その後は購入した服を着てファッションショーなどを楽しむなどしていて、ふと壁時計を見るとすでに四時半を回っていた。

 自分から本日の料理番を買って出たことを思い出し、キッチンに向かった。

 冷蔵庫の中をチェックし、本日の献立を考える。

 冷蔵庫内にはさほど余りものがなかったので、何でもよかった。奏の好物など知らないが、長い付き合いで嫌いなものがあるような記憶もなかった。

 リビングで奏はパソコンをチェックしているようだったが、あえて話しかけて好物を聞くのもあざといようで嫌だったので、本日も自分の好物の中から「タコライス」に決め、足りない食材を求めて近所のスーパーへ買い出しに出た。

 スーパーの場所は外出する途中に見つけていたので、奏に尋ねるまでもなかった。徒歩五分ほどの近場にある。

 スーパーへ行く途中に辺りを見回すと、道路や他の建物も綺麗に整えられており、街全体がデザインでもされているかのように感じた。

 自分の住んでいた家、街の雰囲気とは全然違う。こんな所に平然と住む奏は、別世界とまでは行かないが、明らかにランクの違う人種のように思う。



 スーパーで食材選びをしている際、ふとお酒コーナーが目に入る。

 ……そういえば、奏ってお酒は飲めたのだろうか?

 彼とお酒を嗜んだことはないし、その手の会話もしたことがない。

 だけどあの完璧超人だ。お酒くらい人並みに飲むことはできるだろう。一緒にお酒でも飲んで、本音で会話したら、少しは彼の考えを理解することができるかもしれない――そんなことを考えているうちに、自然と手は商品棚へと伸びていった。

 恩人となってしまった天敵への感謝の気持ちから、歩み寄ろうという彼女なりの努力の顕れであった。



 夕方六時を回ると、夕食を手早く作り、またビジネスライクのような会話をぽつりぽつりと交えただけで、本日最後の食事を終えた。

 今日の奏は昨日のように変なところで固まったり、上の空のような様子はなかった。

 それは、衣類を入手した真琴はもう奏の部屋着を着ていなかったため通常運転に戻っただけである。

 二人で食器類を片付け、奏はリビングに移動した。真琴は冷蔵庫に入れていた缶ビールを二本取り出し、同じくリビングに足を運んだ。

 缶ビールを持つ真琴の姿を見て、奏は少しぽかんと驚いた表情を見せた。


「アンタとお酒を飲んだことないと思って買ってみたの。一緒に暮らす上で、私たちもう少しお互いを知る必要があると思って。お互い素直になるために、今日はこれを飲みます」

「素直じゃないのは真琴だけじゃない?」


 冷静にツッコまれ、真琴は顔を赤らめた。

 恥ずかしさを隠すように片方の缶ビールを相手のほうにぐっと差し出した。


「う、うるさい! 良いからホラ! お酒くらい飲めるでしょ!」

「いや、僕は……」


 せっかく彼女なりに距離を縮めようとしたのに相手が乗り気になっていないのを感じ取ると、余計に恥ずかしくなり、少し目が赤く滲んだ。

 その様子を見て、奏は少し微笑んだ後に「一杯だけだよ」と言って真琴をソファの隣に座らせた。

 こうして初めての飲み会が始まったのだが――……

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