愛などなくとも

めろこ

第一話 愛などなくとも①

轟々と燃え盛る炎。いつも見慣れたはずの我が家が濃い黒煙をあげて燃えている。

 日常であるはずの場所が非日常になっている光景に、私はただ呆然と見ていることしかできなかった。

 私は住む家を無くしてしまった――。



  *  *  * 


二月四日(初日)


「本田さん、これコピーとって課長のとこに渡しといてね」

「はい、わかりました!」


 女はゆるいウェーブがかったロングヘアーを揺らして、雑務の押し付けにも歯切れ良く返事した――と、思いきや


「ったく、自分でやってよね」


 相手には聞こえないボリュームで悪態をつく。といっても、相手は用事を一方的に押し付けると、こちらの返事を聞くより先に立ち去っていたので聞こえるはずもなかった。

 雑務を押し付けられた女――本田ほんだ 真琴まことはいたって普通のOLだ。

 入社二年目にして同じチームの先輩に顎で使われるのはもう慣れていた。正直自分の仕事は自分でやるようにと正論をぶつけたいが、社会で生きるためには波風立てずにうまくやることも必要だ。

 実際、先輩の雑務をこなしていると、他部署の人間と関わる機会も多く、顔が広くなるので今はこれで良いと思いこむようにしていた。

 それでも心に積もるモヤモヤは次第に膨らんでいくので、たまには息抜きしないとやっていられない。今日は何がなんでも定時退社し、贅沢なケーキでも買って帰ろうなんて考えていたら、同僚から呼び止められた。


「本田さん、電話。受付から転送きてる」

「受付から? 何だろ… はい、本田です」

「受付です。本田さん宛にアパートの大家と名乗る方からお電話が入っておりますが、このままお繋ぎして良いですか?」

「アパートの……? はい、お願いします」


 心当たりのない着信に動揺を隠せなかった。嫌な予感がどっと迫ってきて、鼓動のリズムが早くなっているのを感じる。

 受話器の先から聞こえた声は、何やら喚くような声で、挨拶でしか聞いたことがなかった大家の声と本当に同一人物なのか判断ができなかった。そのため、一言目は何を言っていたのか頭に入らなかった。


「本田さん! 大変だよ! 火事! 隣の山本さんの部屋が……」


 電話の相手が大家だと判断できたとしても、今度は内容が突然のことすぎて頭に入らなかった。それでも大家は「火事」という単語を連呼するため、数秒経ってからその意味を飲み込む。


「す、すぐに帰りますから!」


 それだけ伝えて通話を切る。すぐさま自分のデスクに戻り、バッグにスマホと財布だけを詰めこみ肩にかける。


「緊急事態なので早退します! 事情は追って連絡しますから!」


 課内に響き渡るよう声を張り、それだけ言い放って会社を出た。

 道中、誰かに声をかけられた気がしたけど今はそれどころではない。無視して全力で走って駅に向かう。

 電車に乗ってしまうとこれ以上急ぐ術などないのに、座ってなどいられなくてドアの前に立ちつくす。

 外の景色を眺めながら表情はこわばったままだった。全身にじっとりと嫌な汗をかいていた。

 最寄り駅につくとドアが開き切る前にいち早く降車した。

 駅を出た途端、我が家の方向を見ると、そこからでもハッキリと見えるほど、異様な黒煙が立ち上っており、辺りも騒然としていた。

 顔から血の気が引いていくのを実感した。そこからの記憶はない。気がつくと、無残な我が家の姿をただ眺めていた。炎と煙に包まれた我が家を。


――出火元は隣人の家からだった。隣人は外出していたため、周囲の人が気づいた時にはもう手遅れで、真琴の部屋まで火の手が上がっていた。

 こぢんまりとした築三十年のボロアパートは、一つの部屋が燃えるとたちまち周囲にもその火の粉を振りまいたのだった。

 真琴は全てを失ったのだと実感した。怒る気力も、泣く気力もなく立ち尽くす。ただただ無気力に現実を受け止めていた。

 焼かれていく我が家を眺めながらも妙に頭が冴えており、この状況でまずしなければならないことは住処の確保だということを考えていた。

 ひとまず今夜だけでも凌げる場所を――。

 しかし、真琴の実家は県外の離れた場所にあるため、頼ることができない。

 自分より一足先に上京した三歳上の兄がいるので、真っ先に頼る先として思いつき、兄に電話をかけてみる。

 数コールのちに穏やかな声が聞こえた。久しぶりの肉親の声に甘えたくなってしまったのか、その時始めて涙が溢れた。


「真琴? どうした? まだ仕事中だろ?」

「お兄ちゃん……っ! 私の、私の家が……か、火事で燃えちゃったの……住むところがなくなっちゃったの……」

「え、え!?」

「突然の連絡で申し訳ないんだけど……お兄ちゃんとこ、しばらく住まわせてもらえないかな……」

「困ったな……」

「え……?」

「助けてやりたいのは山々なんだけど……兄ちゃんの寮、社員以外連れ込み厳禁なんだよな。まあでも事態が事態だし、管理人さんに掛け合って……」


 会話の途中でいきなりスマホが奪われた。

 背後を振り向くと、真琴のスマホはそこにいた男の手に移っていた。

 男とバッチリ目が合うと、男はにこっと笑い、そのまま通話を乗っ取り始めた。


「健太郎、今の話聞いてたよ」

「あれ? その声って……かなで?」

「そう。今、真琴と一緒にいるんだ。真琴の家が大変なことになってね。でも真琴の実家は遠いし、健太郎の寮は確か連れ込み厳禁だったよね?」

「あぁ、そうなんだよ」

「そういうことなら、ウチで預かってもいいかな? 次の家が見つかるまでの間だけ」

「オマエんとこに!? ……あー、でもそうだな。お前とは幼馴染だし、知らない所を転々とさせるよりかはマシか。両親も安心すると思う。面倒かけるけど、妹のこと頼めるか?」

「任せて。困ったことがあったらすぐに連絡させるよ」

 真琴には男の一方的な言葉しか聞こえないが、男の都合の良いように話を進められているのはわかった。

 しかしなぜ、この男がこの場にいるのかはわからない。


「はい、今の話聞いてたでしょ? そういうことに決まったから」


 笑顔の男は通話の終わったスマホを何も悪びれもせず返却しようと手を伸ばしてきた。

 この男――瀬戸せと かなでこそ、兄の健太郎の同級生で、健太郎と真琴の幼馴染であり、真琴にとって最大の天敵と認識している人物であった。


「待って! 奏、アンタ何でここに……っていうか勝手に話を決めないでよ! アンタの家に泊まるなんて絶対にイヤなんだけど!」

「でも二月のこんな寒空に可愛い真琴を置いていけないよ」

「あのね……今時二十四時間やってるレストランだったりネカフェで凌ぐことくらいできるんだから!」

「次の家がすぐ決まるとは限らないよ? それまでずっとそんな生活するの? 無理でしょ」

「それは私が決めること!」

「可哀想に。気が動転してるんだね。帰ったら真琴が好きなミートスパゲッティを作ってあげるよ。それに僕は本当に心配してるんだよ。真琴とはずっと小さい頃から一緒で家族同然だからね。頼むから、大人しくウチに匿われてよ」


 いつもヘラヘラと薄笑いを浮かべている嫌な男だが、この時ばかりは真剣に話しているのが感じ取れたので、真琴も冷静になった。

 確かに、身元がハッキリしているこの人物に頼った方が良い。

 小さい頃から真琴を追い回し、嫌がらせをしてくるこの男のことが大の苦手だったが、ひとまず今夜だけでも――真琴は奏の提案に従うことにした。

 素直に聞き入れた様子を見て、奏の表情はまたいつもの薄笑いに戻った。


「せっかく真琴に会えたから声をかけたのに、無視して全速力で走っていっちゃうから。気になって追いかけて来ちゃった」

「は!? じゃあアンタずっと私を付けてたってこと!?」

「時々話しかけてたのに、全然気づかなかったのは真琴でしょ。でもまあ、こんな状況を聞かされてたら無理はないね」

「アンタね…… ていうか、仕事は?」

「真琴を優先して今日は早退ってことにしてあるから、安心して」


 軽い眩暈がした。やっぱりこの男は異様だ。

 何が原因かはわからないが、真琴は奏と出会って、ある時から異様な執着心を向けられている。

 しかも厄介なことに、この男は周囲の人間には謹厳実直に見えるようで、毛嫌いする真琴の方が異様な目で見られることが多かった。容姿端麗、何をやらせてもそつなくこなす奏は完璧超人と周囲に認知されていた。

 真琴には、どんなに突き放しても笑顔で追ってくるこの男の神経が心底わからなかった。


 大家といろいろ話し合い、しばらく知人の家に居候することになった旨を伝えたら、大家はひとまず安心したような表情を見せた。

 そのあと、奏に促されるまま二人でタクシーに乗り、奏のマンションへと移動する。

 すっかり空は茜色に染まり始めていた。初めて奏のマンションに来たが、一人暮らしするには高級すぎるようなマンションに驚いた。

 厳格な雰囲気が漂うオートロックのエントランス。受付の窓口とは別にクリーニングサービスの窓口が備え付けられていた。

 今まで細かく見ていなかったが、確かに奏の身に着けているものを見ると、スーツや革靴やらはピカピカと光沢を放っており、いかにも質の良い高級品のように思えた。

 奏の部屋は十階の角部屋だった。玄関を開け、電気をつけると白いライトが少し眩しく感じた。

 突然来たのにも関わらず、中はとても綺麗に片付いていた。モデルルームのようなモダンでオシャレな家具が揃っており、ブラックとグレーを基調としている部屋だった。


「夕食用意するから、お風呂でも入ってきたら?」

「あの、言っとくけどね。匿ってもらえるのは有り難いんだけど、変な下心なんて持たないでね」


 奏は一瞬ぽかんとした表情を浮かべたが、すぐに真顔になりこちらへ詰め寄って来た。


「さっきも言ったけど、今回については本当に助けたい一心だよ。使ってない部屋が一つあるから、真琴はそこで過ごしてもらう。ちゃんと鍵も付けられる部屋だから」


 鍵付きの別室があるということを聞いて安心したようで、真琴のこわばった表情が少し緩むと、奏はさらに距離を詰めて来た。


「それに、そういうことは着いてくる前に言わないと。家に上がってからじゃ遅いよ。真琴、もしかして他の男にもそんな調子じゃないよね?」


 奏は覗き込むように瞳をじっと見つめる。真琴は意味がわかると顔を赤らめ、視線を逸らしてしまった。


「そんなことわかってるわよ……念の為、釘を刺しておいただけなんだから」

「そう。着替えは僕の部屋着をひとまず使って。必要なものはまた今度買い揃えよう」


 そう言って奏はまたキッチンの方に向き直した。

 真琴はその言葉に甘えるように、奏の部屋着を抱えてバスルームへ向かった。

 バスルームも当然のように綺麗で、カビひとつ見当たらなかった。綺麗なお風呂は心地が良い。

 なんだかんだいいつつも、この家でのバスタイムを満喫した。

 本当だったら今夜は定時退社でケーキを食べていたはずだったのに……そんなもやもやした気持ちも、綺麗さっぱり水に流すことにした。

 お風呂から上がると、与えられた奏の部屋着を着る。

 奏は細身だが、身長差が約二十センチもあるものだから、さすがにオーバーサイズだ。

 着るときに無意識に服の匂いをかいだ。うっすらと柔軟剤の香りがするが、ほぼ無臭に近かった。

 脱衣所の洗面台横にドライヤーがあったので、拝借してロングヘアーを乾かす。

 髪を乾かし始めてから十分ほど経った頃だろうか、大好物のミートスパゲッティの香りが脱衣所まで届いていた。

 着替え等を終えてキッチンに行くと、ちょうど良いタイミングで料理が完成したようだった。本当にこの男は嫌味なくらい完璧超人だ。

 戻った真琴の姿を見て、奏はピタッと固まった。

 何が起きたかわからず、真琴は眉をひそめると、数秒で奏は元に戻った。


「さ、今日は疲れたでしょ。ご飯にしよう」

「うん。いただきます」


 机に並ぶ美味しそうな料理に自然と表情が綻ぶ。食器も美しいものが揃っており、隙が無い。

 真琴は過去に奏の料理を食べたことがあったので、味は絶品であることが保証されていた。

 散々なことがあったけど、絶品の大好物が食べられることが素直に嬉しくて、喜びを隠せない表情で夕食に手をつけた。

 真琴が夢中で食事をしていると、正面に座る奏の手は止まっていた。

 ふと疑問に思い、顔を上げて相手の顔を見ると、こちらをじっと見つめて固まっていた。

 その表情は、いつもの薄ら笑いを十倍くらい上機嫌にしたような表情で、非常に満足そうだった。


「な、なに?」

「真琴の笑顔を見るのは久々だなって」

「奏が嫌がらせをしてこなければ私だって普通に笑うんだけど。そんなに見られてると食べられないからやめてよ」

「はは。あ、そういえばコレ、渡しておくから……」

 机の上には、何もキーホルダーがついていない素の状態の鍵が置かれた。この家の合鍵だった。

「うん……。あ、あの、ありがとうね。いろいろ、助けてくれて……想像してたよりも良い環境を与えてもらって、正直すごく助かった」


 奏はニコニコと薄笑いを浮かべているが返事がない。

 真琴にとって奏は天敵であり、この相手に謝辞を述べる日が来ようとは思ってなかった。

 自分がお礼を言うとてっきり喜んでくれるとばかり思っていたのに、相手からの返事がなく、少し不安に感じた。

 その後も奏はニコニコしているだけで、ろくに話さず、返事も生返事のようだった。薄気味悪いが、特に奏と話を弾ませたいわけでもないので、そのままにして過ごした。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る