伝説、ひとまずの落着
見るだけで、嗅ぐだけで、歯列の隙間から漏れる吐息を聴くだけで分かる。
こいつは、正真正銘、本物の怪異だ。
廃院付近で捕まった変質者の輩の変装なんかじゃない。
本当に耳を裂いて持ち帰る、――――と噂される、噂によって生まれた魔の一種。
遭遇してしまった今俺が覚えるのは恐怖より、天峯とその母を襲った事の怒りより、静かに底から湧きあがる――――使命感にも似た感情だった。
会えば、その想いは更に強まる。
放っておけばこいつもいつか神居村にまで辿りつくだろう。
だが、その途上で何度目撃され、何度被害者を出すか分かったものじゃない。
だから――――こいつは、ここで一度消して神居村まで送り届ける。
一度で消えないのなら、村に現れてから何度でも消す。
こいつが、本当にこの世から消えるまで……何度でも、何度でもだ。
「っ――――」
ひゅっ、とまたも掻き消えるように、耳切りナースは距離を詰めてきた。
雪景色の中、死体色の肌を持つ白い服と靴の怪異はどうしても視認性を欠いて――――視界を遮り降り続ける雪のせいで、更に注視し続ける事が難しいとようやく分かった。
「耳……耳ぃ゛……」
「くそ、いつっ、の、間に――――!」
こいつの動きが特段早いわけじゃない。
ただ雪の中でこいつを捉え続けるのが――――あまりに至難だ。
気付けば数歩の距離に居て、他にはわき目もふらず俺の耳だけ狙って右手のメスを振り回してくる。
手をポケットに突っ込み、あれを取り出す隙さえ探れない。
踏み込むたびのヒールの音でようやくついていけている有り様は何とも情けなく、耳もとで鳴る風切りの音は正気を確実に削ってくるのが分かる。
予備動作の少ないメスの軌道は読みづらく、そもそも――――耳はかわしても、それ以外の部位へはダメージが無いはずもない。
かすめれば痛むし、顔面付近を狙われればそこには目も鼻もある。
「あ゛あァぁぁぁぁぁ…………耳……くだ――――」
「調子に、乗んなよ」
ようやく大振りの横薙ぎを避けられて――――喉もとギリギリを刃先が通りすぎた後、反撃の暇がやってきた。
「ギッ……!」
ぐっ、と軸足に力を込め、そのまま前蹴りを腹へ見舞い、距離をおく。
瞬間――――ポケットの中で“それ”を捕まえ、体勢を立て直した耳切りナースの再びの大振りの手を下から逆袈裟へ斬り上げ――――
「ギア、アァァァァァァ……ッ!!」
その手は断たれ、空中で握り締めたメスごと消滅して耳切りナースの右手は無くなる。
浅葱色の透ける刀身の軌跡が雪すら透過して――――いや、そればかりかポケットの中で現れた刀身が俺の体や衣類すらすり抜け、本身の刀身では不可能な軌道で眼前の敵に切り込む。
自分でも不可思議なほどに自然に行われたその動き――――今は思い出せる。
昔、爺ちゃんに習った武術の動きだ。
まるで、刀身が存在しないような。
どこかの映画で見た光の刃ですら存在していないような、自分の身体を切る恐れが無い剣を握り締めるかのような演武だった。
傍目から見れば手刀を切るようにしか見えない、祈るような動き。
懐からそのまま切り込むような――――ひとつの動作へ省略する事すらない、ゼロの動作からそのまま相手を斬る動き、当時は意味も分からないまま反復させられたが――――この“幽霊刀の柄”を持ってからは、何の違和感もなく繰り出せる。
恐らくは、何度も斬っていたのだ。
爺ちゃんは何度も、何度も、何度も――――存在しないはずの怪異を、存在しない刃で。
身を沈め脇構え、上段。
威嚇するように切っ先を向ける、爺ちゃんに習った時は見栄えしかないと思った構え方だけど――――こうして構えると、分かる。
何かへ対峙する時に構えると、おのずと力と、勇気が湧いてくる。
相手へナメられないため、相手を威圧するため、そして、立ち向かう勇気を培い、自らへ力を注ぎ込むための構え方だ。
薄い浅葱色、透けてたゆたう刀身を目にして、それで右腕を斬り飛ばされてなおも“耳切りナース”は叫ぶだけで怯まず、残った左手で左耳に深々と突き刺さったメスを抜き取り――――雪の上に赤い血飛沫を跳ねさせ、ぎくぎくと痙攣するような動きとともに左手をだらりと垂れ下げる。。
「……そんなに耳が欲しいかよ」
――――妙な気分だ。
降りしきる雪が頬に触れるごと、ちりちりと熱い痛みが走る。
恐らくは避けきれずに皮一枚をかすめたメスによるものだ。
ぱた、ぱた、と垂れ落ちる雫の音は目の前のこいつによるものだと思っていたが、きっと違う。俺の頬からもまた血が垂れているだろう。
白濁した双眸の行く末は、まだ定まらない。
どう動くか全く読めないまま――――ちらほらと、視界の中を距離感を狂わせる雪が舞い下りる。
睫毛に触れる雪を堪えながら、ゆらゆら、ぎくぎく、とふれるように動く耳切りナースの動きを見計らっている、と――――
「待たせたわ、七支……――――――っ!?」
「逃げっ……いや、こっちに来い! 早くしろ!!」
「なに、これ……“耳切り”…………!? まさか!」
「天峯っ!!」
最悪の自体――――耳切りナースの左後方、降り続く雪の中を天峯が帰ってきた。
天峯は、片腕を斬り落とされた耳切りナースの殺気に満ちた滲む空気か、あるいは浅葱色に透ける刀を抜いて対峙する俺とのどちらか、あるいは両方かに怯んでぱくぱくと口を動かして、事態の把握に努めようとしていた。
青ざめた顔は状況を理解できずにいる表れで――――恐らく、二度も声をかけて尚聴こえていない。
「ひっ……!? 痛っ……!」
身を翻した耳切りナースが、脚をもつれさせるようなイビツな動きで走り――――ほとんど倒れ込むような動きで天峯にしがみつくのが見えた。
がらがらんっ、と天峯の抱えてきた缶ジュースが落ちる音の直後に手首から先を失った右手で天峯の細い首を抱えこむように引き倒し、俺に左手のメスを見せつけるように半身を晒して共に倒れ込み、天峯の
「かっ、は……! やめっ……て……!」
「……診、さツ……治療……はじ、メ……ま……」
「離しっ……いや、やめ……! やめてっ! お願い!」
左手のメスが掲げられるのが見えた。
あと、数歩の距離があまりに遠くにあると感じる。
脚を必死にばたつかせ、どうにか首を押さえこむ右手を外そうと天峯が抵抗を試みるも逃げられない。
この距離は、埋まらない。
俺が駆け込み斬るより、メスの方が早く天峯の耳を裂く――――いや、おかしい。
持ち方は突き刺す時の逆手持ちのそれだ。
まさか――――切るんじゃなく、耳孔へ突き刺すつもりか!?
「目を閉じろ、天峯!」
俺の声が届いたか、それとも反射か、耳切りナースの左手が天峯の耳へ深々とメスを突き立てる瞬間天峯はぎゅっと目を閉じて――――直後に耳を震わす甲高い高音が響くとともに、そのメスは大きく弾かれて飛んだ。
耳切りナースは何が起きたか理解できずに左手を濁った目で見つめるものの、そこにはもう何も握られていない。
「っ……先に行っててもらうぞ、廃院の耳切りナース。俺も、すぐ……!」
駆け込む勢いのまま渾身の体当たりで天峯の上から耳切りナースをどかせると、そのまま体を反転させ――――攻撃の手段を失った奴の胸へ背中を押し付け
いくら頭で分かっていて経験があっても、勇気がいる動きだから。
そのまま背中で耳切りナースを押さえつつ――――
「すぐ……神居村に戻るからさ」
目を落とすと、俺の腹には深々と浅葱色の刀が突き立っている。
しかし痛みも無く、出血も無く、まるでたゆたうように透ける刀身がゆらめいていた。
この刀身は、実体のない刀身。背後に今いるこいつと同じ……存在しない刃だから、肉体を傷つける事は無い。
それが分かっていたから、抑えながら切腹に巻き込む――――という選択が取れたけど、分かっていても勇気が必要だったのは変わらない。
やがて背後から光の粒が輝き、散っていくのが見え、刀身からも耳切りナースを貫いた感覚は消えた。
それは存在しない怪異が消えゆき、世界へ薄められ、溶かされていく瞬間の光。
いま、この瞬間を持って耳切りナースは一度消えて――――無へと近づく。
やがて刀身にかかっていた重みが完全に消えた頃ようやく雪も降り止み、呆気に取られていた天峯も体を起こし、しかしそれでも立ち上がる事はまだできないか――――雪の積もる地面へ立てた腕を支えに、ぺたんと座ったままだ。
「何、が……起きたの……?」
「御守り、貸しただろ。持っててくれてたんだな。……大丈夫か、天峯。怪我は?」
数日前に天峯に手渡したものがあった。
それは俺がいつも持つ、村の人間は誰もが肌身離さず持つ――――“
本当なら天峯へ突き刺さるハズだったメスはそれに弾かれ、一度だけ傷を肩代わりする加護により守られた。
ただし、それを貸した俺は当然その恩恵には
そんな説明を最後だけ伏せて天峯にしてみれば、事のほか、あっさりと腑に落ちたか、それとも見て実際に起きてしまったから納得するしかないか……黙り込み、ただ、じっと俺へ視線を向ける。
そこで、天峯が眼鏡をかけていない事にようやく気付いた。
「眼鏡はどうした?」
「さっき、突き倒された時……巻き込まれてアイツに踏み壊されたと思う。そのあたりに落ちてる、と……思うけど……」
あらためて見回すと、確かにそれはあった。
天峯が取り落とした缶ジュースに紛れて、めちゃくちゃにひん曲がった天峯の眼鏡があった。
これはもう修理とかで済む次元ではないのに、弁償を求める相手も今はもう文字通りいないのが不憫だ。
しかし、あらためて、見るとだ。
「……何? 見えないけど、じろじろ見られてるのは分かるわよ。何か言いたいのかしら」
「ごめん。いや、お前……結構、目、大きいんだな」
「……し、仕方、ないでしょう……あんなきつい眼鏡かけてたら、目つきだって悪くもなるわよ」
心なしか瞬きの回数が多く、溜め息も幾度も挟む。
ぶつくさと垂れながら、耳も赤くなっているのが見えた。
度の強い眼鏡のせいで小さく見えていた天峯の眼はむしろ――――引き寄せられそうにぱっちりと大きいぐらいだ。
今、その目はまだ握ったままの浅葱色の刀にじっと注がれていた。
「……七支。それ……刀……?」
「あぁ。色々あって、何も分からない。刀身は見ての通りないから、銘も分からない」
「見せてくれる?」
「ああ……別にいいけど、壊すな」
「……柄しかないのに、これ以上どうやったら壊れるのよ」
手渡すと刀身は消え、不思議な事に――――天峯が握ったところで、刀身は現れない。
やがて、しげしげと食い入るように様々な角度から、雪が止んで通るようになった街灯の光を頼りに熱心に眺め回して、柄の装飾に指を這わせては読み取ろうとしているようだ。
「……そろそろ返せよ。何か分かったのか、それ」
「いえ、何も。でも……
「何て?」
天峯から受け取り、柄尻を覗き込むと確かに消えかけた薄れつつある刻印がある……ような気がする。
「“
「……安綱?」
「まさか……本物の
ようやく立ち上がった天峯の表情はどこか――――たった今起きた事を考えると、頬は緩んでずいぶんと嬉しそうに見える。
「ついでにもう一つ訊くけれど。……“神居村”では、こういうのはよくある事なの?」
「最近はそうでもないな。週一ぐらいか。……雪も止んだし、家まで送る。全然見えてないんだろ?」
手元にあった“柄”ならともかく……眼鏡をなくした今、天峯は夜道を歩く事なんてできず、この距離にいる俺の顔も見えていないと思う。
「……うん、お願い。でも……もう少しだけ、座って落ち着きたいわ」
散らばった缶ジュースを手探りでもたもたと探して拾い上げ、二つを天峯が右手で抱えこみ――――身を寄せて左手を俺の肩へあてがう。
おずおずと遠慮するような仕草はどこか似合わず、肩をゆすって振り払えば落ちてしまううっすらと積もった雪のように軽かった。
「……手、繋ごうか?」
「今日はやめておくわ、どうせなら……それは、あの子。咲耶の目の前でやってやりたいから」
「おい」
「ふふっ……でも、そうね。理由も分かったわ。あの時、廃病院の中で……全然、怖くなかった理由も」
背後からかかる天峯の声には、いつもの冷淡で棘のある呆れたような口調はなりを潜める。
むしろ角が取れ、ふわふわと浮いた心地のする――――と言ってもいい。
ゆっくり、ゆっくりと歩いているうちにまた、箱底に残っていたのを落とすようにちらりと一瞬だけ雪が降った。
やがて、腰を下ろしてベンチに座り――――すぐ隣に座った天峯から、すっかりぬるくなった缶ジュースを受け取り、開けて喉へ迎えると胸焼けのするようなねばっこい激烈な甘さが口へ飛びこんできた。
「……何で、
「あら、嫌いだった? いいじゃない、まだお正月なんだもの。甘酒の方がよかった?」
抗議したい気持ちはあったがそれでも、少しぐらいは正月っぽさを埋める事はできた事を今はよしとする。
とろとろと出てくる缶入りのしるこドリンクを啜りながら、どちらから話す事も無く、ただ時が流れるに任せて。
「……七支。付き合わせてごめんなさい。それと――――――助けてくれて、ありがとう」
そんな天峯のどこかぶっきらぼうな二つの言葉が、今もまだあってくれる俺の耳へと、注ぎ込まれた。
「いい、いい。……どの道、奴を放ってなんておけなかった。こっちこそ、危ない目に遭わせて悪かったよ」
「……春になるか、夏になるか」
「?」
「私も、神居村――――見たくなったわ。行ってもいいわよね」
「別に、いいけど……何しに」
というより、止める筋合いなどない。
オススメできるかどうかは別として、だけど――――。
「あなたに聞かされた話も、何もかも。興味が湧かない訳もないでしょう。ああ、それと――――」
「それと?」
にまっ、と微笑みかける表情は、どこか……今まで見た天峯の表情より、似ているものがあった。
そう、多分。
「……あなたの取り合いをしてみるのも面白いかもしれないし」
――――
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