神居村の冬、延長戦開始



 その告白の内容と違って天峯の表情はどこか優しく、唇の端は震えながら微笑みを作る。

 同時に、魔法の解ける時刻でも差すように頂点で重なった時計から少し遅れ、正午を示す館内放送が流れた。


「……全く、まったく。七支、いったい何なの。“あけましておめでとう”も無しでいきなり私を問い詰めに来るなんて……傷つくわよ、少しは女の子の扱いを覚えたと思ったのに」

「そういえばそうだったな。……悪い」

「悪いわよ。……ま、私もだからね。嘘はついていないけど、少しだけ話をズラしてしまったから、結果的に貴方を騙したもの。……もう一度、言うわ。あの廃墟で話した“六回目”の被害者は私」

 天峯は、そして――――語り、聞かせてくれた。

 廃病院で話してくれた調査報告の、本当の顛末を。


 一連の目撃の流れ自体は話してくれた事と全く同じ。

 違うのは、“耳切りナース”に襲われて逃げた被害者が知り合いではなく自分だという事。

 ここでのバイトから帰る途中の事、その日は他にも所用があって少し帰りが遅れてしまったという。

 住宅街を歩くうちに気付けばすっかり日は落ちかけてしまい、街灯が灯るか灯らないかの頃に――――出くわしてしまったのだと。

 そのシルエットは、昨今見なくなったような古いタイプの女性看護師衣装にナースキャップ。

 しかし頭部のシルエットは加えてあまりにも異様、というのも両耳から、メスの持ち手が突き出ていたのだと。

 声をかけても反応は無く、意味の通らない不気味な呻き声を上げるだけで――――思わず後ずさりした途端、耳をつんざくような甲高い叫びとともにつかつかとサンダルの音を立てながら走り寄ってきたという。

 それも、まるで――――コマ落としのように。

 十数歩の距離を一瞬で詰め、目の前にそれが迫った瞬間、街灯が灯った。

 その時天峯が見たのは真っ赤に充血した眼、赤く皮の剥けたような悪鬼の形相のそれだ。

 両耳に深々と突き刺さったメスの持ち手が赤く錆び付き、どぷどぷと血液が締まりの悪い水道のように流れ続け、本来は白かったであろうはずの看護師衣装の肩へぴたぴたと落ちていた。

 そして手にもまたメスを握り締め、天峯のすぐ耳もとで叫び、鼓膜を痺れさせるような奇声とともに天峯の耳へ向けてそれを振り下ろしてきたという。

 とっさに身をすくめたから間一髪で避けられたものの、肩口にかすめて鋭い痛みが走り、気付けば――――逃げていた。

 今しがた刃物を振り下ろされたという事実が、走っている間にもぞわぞわと背筋を凍らせるようにしながら脳髄まで不快感をせり上がらせてくるのを認めて、何度も脚をもつれさせて。

 暗くなった住宅街をひたすら逃げて、出鱈目に、我武者羅に、遮二無二逃げ回る内、偶然に巡回中のパトカーを見つけてようやく難を逃れたもののそれは姿を消していた。

 警官に事態を説明してもまるで信じてもらえず現場に戻っても何も見当たらず、暴漢の出没とだけ受け取られそうこうしている間に次の被害が出て、今度は間違いなく耳を刈り取られる重傷の被害者が出てしまった。

 警察もそれでようやく本腰を入れて捜査を開始したものの何も手掛かりは得られないのか、何度か天峯が警察に呼ばれて事態を説明したのに、両耳にメスを突き立て血にまみれた異形のナースなど誰も信じず――――業を煮やした天峯が選んだ道が、自らの手であの異常な事件の手掛かりを掴む事。


 そして何より、その“被害者”こそが。

 天峯の――――母親だったという事実。


「……これが、真実。私は、見たの。見て、しまったのよ。あの……異様な……ふふっ。こんなの信じられないわよね? 私だって……今でも、我ながらバカバカしいと思うのよ。でも……」


 事実を明かし終えた天峯は、ほんの少しだけ声を震わせて右手を左の上腕に添え、掻き抱く。

 自分の見たモノを思い出してしまったのか――――その声にはいつものような余裕が見うけられず、むしろ呼び覚ました記憶にフタをしたくてたまらないような必死さがあり、呼吸も浅く、言葉もたどたどしい。


「信じるよ」

「え……?」

「天峯。俺は……お前を信じる」


 信じないわけには、いかない。

 いや――――知っているんだ。

 天峯の遭遇したそれは、存在しない。だが、実在・・する。

 存在するはずのない怪異は、時として、そういう風に姿を現しては人を害する。

 神居村に住む人間は誰しもが知っている。

 人が好き放題に立てた噂はやがて、その噂を寄せ集めて半ば実体を形作り、噂通りに振る舞い、噂通りに――――襲うのだ。

 

「……どうして、信じてくれるのよ。こんなの……バカげているのに」

「ああ、バカげてる。どう考えたって与太話だ。正気を疑われるのも当然だ。……でも、事実だ」


 弱々しく揺れる天峯の視線は、じっとこちらへ向けられていた。

 眼鏡の奥から刺すように強かった眼差しが、光を絞るように弱々しくなるのが見て取れたのはきっと――――俺は、まっすぐ天峯の顔を見ていたからだと気付いた。

 天峯の告白以上に俺は、ともすれば――――実際に体験してそいつを見た天峯以上に、そいつの存在を信じている。


「しかし、なんだ。どうして知り合いが、なんて言ったんだ」

「さぁ、どうしてかしら。張りたい意地でもあったのか、それとも貴方に助けを求めるのがしゃくだったのか……どっちだと思う?」

「両方って事にしとけよ。で、だ。天峯、それから変わった事は何かないか? 何でもいい」

「変わった事……。ごめんなさい、思い付かないわ」

「何でもいいんだ。その“耳切りナース”に襲われた時、何か言ってたりしなかったか?」

「随分詰めてくるじゃない。いったい何……ああ、そう。確かに何か……言ってた、気が……」

「何だ?」


 しばし眼をつぶり、頭を捻るようにして思い出そうと試みる天峯を見ているとむしろ滑稽にも思う。

 まさか、あの硬くキツい天峯とこんな会話をする事になるなんて――――と。


「……私も必死だったし、何より耳もとで大声で叫ばれたからそんなに鮮明には聞き取れなかったわよ。でも、何か、そう……妙な怒気のようなものを感じたと思う」

「怒気……? 何かしたのか?」

「違うわ。私に切りつけて来る前、何か支離滅裂に怒るように叫んだ。感情をぶつけるような――――聞き取れなかったけれど、意味はある。そんな叫びだったと思うわ」


 何となく、本当に何となくで実感でしかないが――――少しずつ、足りなかったピースが埋められて行くようだ。

 全国区でもないこの怪異が何によって動き、何に引き寄せられるように動き、何を忌避するのか見え隠れしてくる。

 こうした都市伝説の怪異は、たいてい、語り継がれるうちに弱点が増える。


「……だめね。そこまでしか分からない。……刃物を振り抜かれた事で頭が一杯だったから……もう思い出せないわ、ごめんなさい」

「ああ、まぁ……あれは怖いよな、仕方ないから気にしなくていいよ」

「……何て? もしかして貴方も刃物で襲われた事でもあるみたいな……」

「い、いや別に……うん、そう、なんだろうなと思って……」


 口裂け女に裁ち鋏を向けられる事数回。三本脚のリカちゃん人形にカッターで襲われる事もあり、首なしライダーにバイクで突っ込まれる事数回、てけてけに脚を刈られかけた事まで。

 しかし今の天峯にさえ、そんな事を話せば間違いなく冷たい視線を浴びるのも違いない。


「……そ、それより、天峯。時間、大丈夫か?」

「え? ……あぁ、遅刻よ、とっくに。誰かさんが呼び止めて口説いてくれるものだから」

「誰が口説いたよ! 来たのはお前だろ!」

「あら、それはどっちの事? 貴方こそ正月の昼間から何しに来たのよ、こんな所に」


 そう言われれば――――確かに、そうだった。

 アテもない、と思っては来たけど、目的は最初からそうだったのだ。

 ただ、天峯にただしたい話があって、正月早々ここへひとり来ていたのが始まりだった。

 しかし、天峯もわざわざ俺を見つけて寄ってきた事に違いはない。

 何だかそれは数年前の逆をなぞっているようで、少し奇妙な気分になった。


 特に何も言う事無く、遠くの学校を選んで地元を離れた天峯。

 そして天峯に何も訊く事も話す事もしないまま、やがては更に遠くへ離れていった俺。

 いや、そもそも全ては俺がこっちへ、帰ってきた日からが始まりだった。


「……そう言えば。私にも分かった事があるの。意外な事だったけれど」

「何だよ。……イヤな事言うなよ」

「そんな事じゃないわ。……私、これでも怖かったのよ? あの、廃病院に行った時。いや……行くまでは」

「そうは見えなかった。あんな淡々とした喋り口調で何言ってんだ」


 自嘲するように、天峯はにやりと笑う。

 しかしその微笑みはどこかぼんやりと丸く、冷笑ではない。

 そして、一拍置くと――――。


「……全く不可解だけれど。何故かしら――――七支。貴方が一緒にいると、怖くなかったのよ。不自然なほど。だから、私はあの中でもまともでいられた。……本当に、おかしなぐらい怖くなかったの」

「…………そりゃ、どうも」


 天峯を安心させられていたのならそれに越した事は無い。

 ただ、そうまで俺は廃墟慣れしてしまっていたのか――――と同時に思わなくもない。

 あの埃が積もり、カビ臭く、薄暗く寒い廃病院の中でさえ、院長室であれを見つけるまで俺は取り乱す事なかったと今は思う。

 そう考えると、俺が慣れていたのは廃墟なのか、それとも巣食う“怪談”そのものなのかが分からなくなった。


 でも、本当は――――俺もまた、アテにしてはいた。

 あの日もずっとポケットに入れっぱなしていた、透ける刃の“除霊道具”を。


「……そろそろ行けよ、天峯。怒られるぞ」

「あら、そうだったわ。それじゃ、七支。まっすぐ帰るのよ?」

「お前もな。……しばらくはこの件から手を引け。あの廃病院にも近づくな。できるだけ距離を取って帰れ」

「優しいのね。……分かったわ。でも手は引かないわ。私の、母のためにも」

「それでも、いい。でもとにかく病院に近づくな。俺が何とかする」


 そう言うと、天峯はほんの一瞬、目を丸く見開いて驚くような表情を一度だけ作り――――やがて頷く。

 最後になるが、天峯にひとつだけ――――あるもの・・・・を手渡し、肌身離さず持っているように因果を含めてから送り出した。

 振り返ってアトリウム中央の大時計を見れば、十二時半をまわる。


 天峯が踵を返し、遅刻しながらバイトへ向かったのを確認すると俺もその場を離れ、今分かった事、それと天峯に先に聞いていた情報を頭の中でかき集めながら歩き出す。

 それに、しても、それにつけても――――――。


「ここ、村じゃねぇのに…………」


 そんなぼやきを口からはみ出させながら――――ともかく、俺は歩き出す。








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