病院探索、その功績


*****


 急なうえに積もった埃で滑りやすくもなっている階段を下り、一階へ戻った時――――天峯が、侵入してきた備品倉庫の扉際の壁へ腕を組んだままもたれかかっているのを見つけた。


「遅かったのね、七支ななつか。それとも何か見つけた? エッチな本とか」

「ねーよ。意外だな、待っててくれたのか」

「まぁね。……それに、あの窓によじ登るのは私では骨が折れそうだから力を借りたかったのよ。帰れないじゃない」


 開きっぱなしの扉へ目配せされ、その中にある、確かにここから天峯の背丈では昇り返すのに難儀するだろう窓を見る。


「……そこまで分かり切って、そのために誘ったのか?」

「違うわよ。あなたを脚立扱いするような嫌な女じゃないわ。……で、どうなの? 何かあった? 引き出しを引くような音が聴こえたわ」

「ああ。……でもとりあえず、出てから話そう。長居は無用だ」

「そうね、同感。……廃墟でダラダラ話す男と女、なんてまずロクな目に遭わないものね」


 ひとまず、ここで探索は打ち切りだ。

 確かに天峯の言う通り、“フラグ”は立てたくない。

 埃まみれの床へ、また足跡を残しながら――――俺と天峯は、入ってきた窓をくぐり、再び外へ出た。

 時刻はまだ昼を回った程度で、午後の時間もたっぷり残る。

 廃病院の中の、流れず濁った空気と埃臭さ、カビっぽさを味わった後では――――なんとも澄み切った空気のうまい事といったら、ない。


「さて、次は……お昼がてら、聞かせてもらいましょうか。七支、あそこで何か見つけた?」



*****


「…………ふぅん。これが……?」


 適当なチェーン店のカフェに入って顛末を詳しく話す事になり、廃墟から持ちだしてしまった古ぼけた木の小箱を前にただ天峯は唸るようにそう言って視線は釘付けとなる。

 低いテーブルの上に置いたそれは、白く眩しい蛍光灯の光を浴びせると……あの薄暗い院長室で見た時よりも、はるかに経年による劣化を感じ取らせた。


「……あなた、思っていたより手癖が悪いのね。一応犯罪よ? これ」

「お前に言われると全く納得できない。で、天峯。……そろそろ聞かせろよ」

「あら、何を? いいわ、付き合ってくれたのだから当然の権利よ。何かしら?」


 テーブルの上にそんな古く薄汚れた箱を置かれているのに、数センチと離れていない皿に盛られたサンドイッチを気にせず掴み取りながら天峯が答える。

 訊きたい事なら、いくらでもある。

 何であの廃墟の病院に不法侵入までもくろんだのか。

 何かあるとすれば、天峯は何を探そうとしていたのか。

 ――――訊きたい事なら山積みなのに。


「…………どうして、遠くの高校を選んだんだ?」


 そんな――――数年前に訊くべきだった、今さら訊けるはずもないと思っていた質問が口をついて出た。

 言ってしまった後で我に返り、俯き、我ながら少し気持ち悪いなと思うような上目遣いで天峯の顔色をうかがうもよく見えず――――そこそこに賑わっているはずの店内の空気が、どこか遠くで鉛じみて重い物へ変わっていくような感覚がした。


「――――結婚するからよ」

「え!?」


 今――――何て、言った?


「結婚するから。だから私は家を離れたの。相手は優しそうな勤め人で……歳は、確か五つほど上だったかしら」


 待て、待て、――――待て。

 天峯は今、俺と同い年のはずだ。

 可能年齢ではあるけど天峯が遠くの高校へ進学したのは中学卒業時、イコール十五歳だ。

 許嫁いいなずけ? それとも何か家庭の事情か、まさか天峯はそんな名家の人間だったのか――――?

 そんな、まとまりを欠いた支離滅裂な、逃げ散るネズミのようにめちゃくちゃに散乱する思考をどうにかまとめるべく卓上の抹茶ラテに伸ばした手が震えているのに気付いた直後。

 ――――――天峯の忍び笑いが漏れるのが聴こえた。


「ぷ、ふふっ……。ごめんなさい、からかったわ。まさか、気にしてたなんて思わなかったから……」

「……変な冗談やめろよ。普段言わない奴が言うとわかんねぇだろ」


 俺の挙動不審なザマがそれなりにツボったか……くすくすと笑い始め、肩まで震わせてなお天峯が笑う、笑う。

 そんな希少な姿を見ているのに全く嬉しい事もないまま段々と腹が立ってきた頃、ようやく話題は続いた。


「結婚は本当よ。ただし私じゃなく、母なのだけれど」

「お母さんが……?」

「ええ。正しくは再婚だし、お相手もさっき言った通り。私にとっては義父になる方。今日び珍しいような事情でもないでしょう、ここまでは」

「……それで、どう繋がるんだよ。再婚について行った……ってことか?」

「違うわよ。私が離れたの。ちょうど進学先の近くに親戚が住んでいたから、その一部屋に下宿させてもらってるの」

「初めて聞いたぞ。それに、どうして……お前が? 何かあった、とか?」

「訊かれなかったものね。何も無いわよ。ただ……私にも、学びたい事があったから、それだけが理由でもない。他にご質問は?」


 今さら開示された事実に――――驚いていいのかどうかも分からない。

 驚くのは失礼なような気もするし、そもそも天峯の言う通り、訊ねもしなかったのも俺だから今さら驚く権利はないとも思えたからだ。

 再婚についていったとか、あるいはその逆――――親が離婚した、とかならまだ分かるのに、親の再婚をきっかけに家を出た、なんて……とても、俺と同じ高校生の話とは思えない。

が、それを言おうとしたら先制され――――。


「言っておくけど、お互い様よ。あなただって訳の分からない遠方に越したじゃないの? 私に言わせれば、あなたの選択のほうがよっぽど難解不可解よ、七支。……人の事言えないのはお互い様。で……そろそろ、中身を知りたいと思わない? その箱」


 何度めになるか天峯の鋭い視線が小箱へ注がれる。

 食卓の上に置かれている箱にも関わらず、天峯の目は輝いてギラつき、その中身に興味を持っている事は見て取れた。

 やがて、視線に促されるままに俺は箱の蓋を開け――――軋んだ蝶番の立てる不快な音が耳に刺さったか、周囲の客数人からの視線さえも突き刺さって痛みにさえ思う。

 だが、中に収められていたのは――――。


「……何だ、これ?」


 薄いガーゼに包まれていたそれは、小さな金属板。

 丸く凹み、その中心には小さな穴が開けられている――――CDのように見えなくもないそれは、何故なのかどうも見覚えがある。

 何に使うものか全く分からないのに――――どうしようもなく、激しいほど見覚えがあるのだ。

 俺はその既視感の正体をどうしても掴みたくて、頭を捻りに捻っているのに、天峯はあっさりと答えをにべもなく言い放ってしまった。


額帯鏡がくたいきょう……のようね」

「がく……?」

「ほら、一昔前の診断する“お医者の先生”が頭につけているのをイメージできない? ……アレよ」

「……あっ」


 そうだ――――分かった!

 この金属製の凸レンズみたいな円盤状の部品は――――それだ。

 昔の医者が頭につけて患者に向き合う、謎の“医者の記号”。

 名前なんてのも今知ったぐらいで、そもそも何に使うのか分かったもんじゃないが、とにかく……古めかしい医者が頭につけてるイメージを彷彿させる、まさしくそれだった。


「バンドからは取り外されているようね。……もしかして、院長が愛用していたものかしら。だとしたら、廃業した院長室へこれを置いて行ったのも頷ける。あそこで医者人生を仕舞ったのだから、一種の決別か、それとも……まぁ、感傷ね」

「なぁ、おい。天峯……ひたってる所悪いんだけどさ」

「何?」

「いや、そのな……これ、何に使うもんなの」


 陶然と推理を並べ立てる天峯へ水を差して、恥をしのんで訊ねる。

 しかし別に彼女は不機嫌になる事も無く、あっさりと教えてくれた。


「耳鼻科や咽喉科の医師が使う器具よ。光を一点に集中させながら耳や鼻、喉の内部を観察できるから今も愛用する医師は少なくない。頭につけてるあれを下ろして、モノクルのようにして使うの」

「へぇ……」


 くいっ、と眼鏡を持ち上げながら片目を閉じてみせながら天峯はそう説明する。

 期待外れかとも思えた小箱の中身なのに、妙に上機嫌というか、好奇心が満たされている様子というか……とにかく、テンションは低くない。

 むしろ、あの病院に眠っていた事実を掘り起こせた感動からか、眩しいと言ってもいいくらいに目は輝いていた。


「なるほど、なるほど。……面白い事実ね。優秀よ、七支。廃墟探索は慣れているの? なかなかやるじゃない。でも……手がかりはないのね。例のナース事件の」

「……天峯。その、さ。もしダメなら……無理にとは言わないんだけど」

「今度は何?」

「その……知り合いが襲われた、って言ったよな。その人と話せないか? 詳しく話を訊きたいんだ。状況とか……」


 そう切り出すと、天峯はとたんに口を噤み――――喉の奥から、喘ぐように息を漏れ出させた。


「…………ごめんなさい、難しいわ」

「そう、か。分かった」


 伏せた目の行方は追えない。

 ただ、天峯は黙って――――目の前に置かれていた、ぬるまったコーヒーを一口だけ啄む。

 もし詳しい状況を知る事ができればよかったが……半ば、ダメでもともとのような提案だった。


「……大丈夫、きっと解決する。警察も動いてるんだろ? 悪質なイタズラだ。こんな暇人のやる事、すぐ収束するはず。……だよな?」

「ええ……そうね。でも、この辺では今……持ちきりなのよ、この噂。実際に耳を削がれてしまった被害者が出てからは余計に」

「おい……そんなに、広まってんのか?」

「県外にあるうちの高校までもね。切りつける、刺すでもなく耳だけを取って持ち帰る異常性。被害者はそこ以外は全くの無傷だった事も拍車をかけた。通り魔にしてもあまりに……ね」


 信じがたい事に、この一連の事件は……今のような携帯電話さえない時代の、都市伝説の怪談に似た広まり方をしているのだという。

 今日び珍しく、としか言いようは無く、天峯が見せてくれた情報によるとネット界隈でさえ話題になり始めているんだとか。

 今回、この年の瀬にも関わらず探索を申し出られたのもそれが理由だ。

 このまま広がれば昨今のノリのままあの廃病院の廃墟が軽々な探検で荒らされかねない。

 何か調べたい事があるのならば今をおいて、無かったのだ。


「…………ごめんなさい、ありがとう。七支。せっかく久々にこちらへ帰ってきている時に付き合わせてしまった。……ところで、他に何か見つけたりとかは?」

「……いや、特には。もう帰るのか?」

「ええ。下宿先の方にも無理を言ってきてしまったから。この年の瀬だもの、やる事は多いわ。七支は体を休めるといいわ。もし何かあれば連絡するから」


 そう言うと、天峯はバタつく事も無くサッサと席を立ち、トレーを掴んだまま院長室を出た時と同じように店を出た。

 残された俺は、一度だけ――――テーブルの中央に鎮座する箱を見やり、同時に、思い出す。



*****


 見つけたのは、箱だけではなかった。


 引き出しを引いて最初に目に入ったのは、確かに木の小箱だけだ。

 だが、その先――――引き出しのドン詰まりにも、ひとつだけモノがあった事に気付いてしまった。


 それは、暖かく、切り取られたまま、じんわりと血を滲ませる。

 まるで今の今まで誰かと繋がっていたとしか思えない、柔らかそうな、小さな――――およそ人のそれは実際この程度の大きさなのか、と思ってしまうような。

 温もりさえまだ残したままの――――“噂”のもとになったソレが、何に包まれる事も漬けられる事もなく、無造作に引き出しの奥にいくつも仕舞ってあった。


 全身が総毛立ち、叫び出しそうな戦慄に堪え、たたらを踏んでもつれ、後退しそうになる脚を必死に俺は抑えた。

 こんなものを。

 こんなものを――――絶対に、天峯に見せるわけにいかないから。


 しかし、次の瞬間、“ソレ”は――――確かにあったのに、消えてしまった。

 渇きひび割れそうな目を潤わすため、二、三度まばたきを挟んだ直後、ふっ、と消失してしまった。

 それきり目を凝らしても、納まっていた場所を指先で撫でてみても――――痕跡は何も無い。

 見間違えるようなものも何も入っていない。


 似た感覚を俺は知っている。

 昔、神居村にいた頃の――――怜とふたりで出掛けた山奥の廃校で呼んでしまった、あの怪異をトイレの鏡越しに確認してしまった時とまるで同じだ。


 ――――まずい。

 ――――このままじゃ。


 ――――本当に、出る。


 ――――“廃病院の耳切りナース”が……本当に、出てしまうぞ。







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