廃病院にて、奇譚を想う


*****


 建物に入ってみると、外より寒い事が分かった。

 風は入ってこなくともところどころ壁が剥げて露出したコンクリートが冷気を溜め込み、まるで冷凍庫とまでは言わなくとも、底冷えするような冷たさが上着を貫いて直接肌に刺さるようだ。

 防寒着では防げないこの寒さにも関わらず、さして広くもない待合室をつぶさに観察し終えて今は受付の中を覗き込む天峯あまねの冷静な表情は変わらない。

 そこで気にかかっていた事を思い出して……つまんでいた色褪せた雑誌の切れ端を放り捨てながら、思いきって訊ねてみた。


「天峯、おい、天峯」

「名前を呼ぶなと言ったでしょう。何?」

「本当はお前からここへ誘うつもりだったんだろ? 切り出した俺が言うのもなんだけど、こんな所の何が目当てなんだ。だいたい……噂のもとになった事件は事実なのか?」

「調べはしたけど――――やはりそんな凄惨な事件は起きていない。驚きはしないけどここの元院長は当然シロよ。この廃院がほったらかしの理由は分からないけれど」


 そんな事だろうとは思っていたが――――やっぱりだ。


「じゃあ、院長室に耳の標本があるだのってのは……」

「標本自体はあるかもしれないけど……事件性は多分ないと思うわ。それはそれとして私も気にかかってた事があるの。いい?」

「何だ?」

「……この前会った時、変な事を言っていたじゃない。“引っ越し先は圏外だ”とか何とか。何かの冗談?」

「いや。……本当に圏外なんだ。携帯を持ってる人間がいない村なんだよ。俺の家にあるのは黒電話さ、wi-fiなんか当然ない」

「……何、それ。そんな場所が今どきあるの?」


 覗き込んでいたカウンターから頭を戻した天峯が返す。

少し、話が長くなりそうになったので……破れたビニールレザー製の、はみ出す綿も朽ちた長椅子の埃を払い、腰かけてみた。

 壁に背を預けようとしたが、その一瞬触れただけで恐ろしく冷たいという事に気付いて体を起こして、その話に続きを足す。


「……あるんだよ。“神居村かむおりむら”。俺の今暮らしてる、小さい田舎の村だ。ついでに言うなら俺の今通ってる高校は木造で二階立てだし、全校生徒は四人さ」


 そう言うと、天峯は胡散臭そうに眉根を寄せて考え込み、じっ、とこちらを見つめた。


「……どうしてそんな場所に引っ越したのよ。隠居するには早すぎるでしょう」

「まぁ、色々あってさ。……引っ越したというよりは、帰った、って方が正しいな」

「もしかして、こっちへ転校してくる前にいたの?」

「ああ、そう。……らしい、うん」

「ふぅん……」


 冷たいまま揺らぐ事もない、古ぼけた待合室の空気が重く圧し掛かり、俺達の間をどうにも気まずいまま包む。

 嘘を何もついていないとはいえ、ここから先、天峯が踏み込んで来れば保証はない。

 神居村の奇妙な名物を答えれば今度こそ“からかうな”とヘソを曲げられる気がして、内心ではそうならないようこの話題が変わる事を祈る。


「……ねぇ。あなたは……ここへ何をしに来たの?」

「え……?」

「この病院へ――――何をしに来たの、と訊いているの」

「そりゃ…………何か手掛かりがないかって……」


 答えるならそう、としか言いようがない。

 十年近く経ってまた蘇るように起き始めた“耳切りナース”の目撃例と、血生臭い事件。

 俺はその“犯人”の痕跡を追えるかもしれないとこの医院への侵入を思い付き――――何か残されていないかどうかを探りに来たのだ。

 気配、物音、かの怪談の根幹を成すここへ“犯人”が現れる事はないのかと。

 そう、いえば――――。


「天峯。“耳切りナース”はどこに現れた? 襲われたっていうお前の知り合い……どこで襲われたんだ?」

「……今さらじゃないかしら。いいわ、これを見て」


 呆れたように、天峯がスマホを取り出しながらゆっくりと歩いてきて――――隣へ、座る。

 うっすらと埃の積もった長椅子の座面も気にせずに猫が腰を下ろすように座ると――――片手で画面を差し出すように、起動させた地図アプリを見せてくる。

 画面の中にはこの一帯の地図と、それぞれ数字を記されたピンがまばらに散り、恐らくはそれが目撃された場所だ。

 ピンの数はおよそ十本少々、几帳面に色まで二種に分けられて――――そのうち“六”と“七”だけが赤い字だ。


「……最初はこの付近で二回目撃。そこからは…………北東……違う、もっと北よりに進んでいるな」


 一回目と二回目は、この廃院近く。

 後は市内を北北東へピンの頭の数字通りに進んでいく。


「六番目の目撃例が、私の……知り合い。七番目は耳を本当にやられたそうよ。その後を知りたいけれど、警察が捜査中の通り魔事件という扱いになってしまったから流石にもう追えない」

「ふぅん……。あれ、でも……十番目の目撃でまたこの辺りに戻ってきてるな」

「ええ。九番目の目撃からは、かなりの距離を折り返してまたここよ。忘れ物でも取りに来たのかしら?」

「目撃したのは誰だ」

「小学生。塾帰りの二人組が、街灯の下に立つナースの姿を見た。追われたものの自転車で逃げ切り、被害はなし」


 つくづく――――天峯のこの調べのつけ方は異常だ。

 捜査中の事件までは追えないのは分かるが、ここまで八方手を尽くして調べる執念がどこからくるのか、とても分からない。

 ふと画面から顔を上げて横顔を見るも――――高く巻いたマフラーと横髪、そして眼鏡のフレームのせいで表情など何もうかがえない

 ただ、何かを抑えこむように自分の腕を抱き込むように組んで、水平に正面を見据えている事だけが分かった。


「……天峯、行こう。二階を調べ終わってないだろ」

「ええ。それと……待って、ひとつだけ確認させて」


 再び立ち上がった天峯の向かった先は、待合室を抜けてガラス戸をくぐった先の玄関。

 外からまる見えになるはずのそこへ躊躇いなく向かい、入り口からの埃や散乱するスリッパや誰のものとも知れない外履きの乱れ具合を観察し、更には玄関が施錠されている事をも確認してから戻ってきた。


「玄関から誰かが出入りした形跡はなし。もういいわ、二階へ行きましょう。見取り図に寄ると二階は院長室、それとスタッフ用の休憩室を兼ねた事務所があるようね」


 もう驚きもしないが――――天峯のスマホの画面内には、ここの間取りが記された図面までもが表示されていた。

 どこまでも無駄がないというか、探偵か空き巣かその両方か、調査と言うより“捜査”をしている気にさえなるほどだ。

 薄暗いとはいえまだ昼間というせいもあるだろうが、とても廃墟を探検しているノリではなく……妙な気分だ。


 それきり何も面白いものはなく、収穫もまた、ない。

 扉も窓も、外へ繋がるものは施錠されていた。

 唯一の例外は俺達が入った一階の窓だけで、埃っぽさとカビ臭さに重ね塗られた“病院の匂い”はもう微かにも匂わない。

 個人情報もくそもなく散らばるカルテを拾っても、達筆すぎるうえに経年がひどくて読めない。

 天峯の言葉を借りる訳じゃないけれど、はっきり言って、外科でもない耳鼻科クリニック廃墟の探索なんて、“ヤマ”がないしオチもつかない。

 そもそも“耳切りナース”なんて突飛な噂が立った事さえ異例の異例だ。

 病院や学校、工場なんかはその手の怪談話が生まれがちとはいえ……いくらなんでも、こんな小さなクリニックでは無理がある。


 俺の知る天峯は――――こんな、バカみたいな怪談話を信じるタチではない。

 どこまでもドライでリアリスト、ガキどもが盛り上がってるのをバカにはせずとも冷たく刺すような目で流し、その騒ぎに加わる事も無い。

 二階の奥にあった“院長室”と銘打たれた、クリニックの狭さに比して妙に広く作られた一室へと踏み込みながら、寒く白んだような空気を俺は嗅ぐ。

 革張りの応接用ソファは煤けて、床に敷かれた元はそこそこ高かっただろう絨毯じゅうたんにもまた埃が積もって酷い有り様だ。

 両側の壁面に広がる本棚はほぼカラッポで、分厚い医学書――――だったはずのものが、日に焼けて変色したビニール装丁の背表紙を見せて寂しくぽつりと“一冊”ぼっちで残されていただけ。

 ソファの間の低いテーブルには古いサスペンスドラマで見るような重たいガラスの灰皿が置かれ、朽ち果てた煙草の残骸が数本分だけ今も残る。

 この病院を畳む時――――もしかすると、当時の院長がここで過ごす最後の日、最後の一服を嗜んだのか。

 流石にもうその煙草の匂いなどしない。

 したのは――――静かな“終わり”の匂いだ。


「……荒らされてないな。ただ時が流れただけみたいだ」

「ええ、そのようね。……ここ最近、人が入った形跡もない。絨毯に足跡も残ってない。……ああ、ついでに言えば“耳の標本”もないわね?」


 せせら笑うようなセリフもまた、似つかわしくない。

 確かに、さっぱりと見渡せる室内……机の上にも棚にも、床の上にもそんなシロモノは転がってない。

 残されているものといえば先述の医学書、灰皿、机の上の電話機といつのか分かりもしないボールペンと朽ちたメモ紙ぐらいだ。


「天峯は…………」

「何?」

「天峯は、ここに何を探しに来た?」


 ずっと付きまとっていた疑問だった。

 天峯の知る人が、怪談の“耳切りナース”に襲われた。

 そして今も目撃例は続いていて、少しでも何かの手掛かりがないか、とこの廃墟へやってきた――――までは分かる。

 だが、その天峯が探しているものが何なのか、どういうものなのか、今もって分からないのだ。

 天峯が注意深く観察していたのは、窓、扉、その他――――この中へ至る、物理的なアクセスだった。

 更には埃の積もり具合、足跡、残された指紋、荒らされた形跡…………形に残るものを探しているようだ。


「……九割は、“ヒト”」

「は……?」


 ぽつり、と――――天峯は院長室の机に向いて、俺に背を向けながらそう言った。


「私だって、そう徹底した現実主義者じゃないわ。…………知ってる? 昔、本当に昔――――ある、ありきたりな怪談話があった。“街角に佇む怪人”の類、耳が腐りそうなほどよく聞く話よ」


 それはきっと――――口裂け女や子供を追う赤マントの怪人、そういうタイプのもの。


「ところが、それはすぐに沈静した。何故だと思う?」

「目撃されなくなったからだろ」

「ええ、その通り。ただし――――その理由は、“逮捕”」


 逮捕……?


「ピンとこないかしら? その怪談、周辺の公園でその怪人が逮捕されたのよ。犯人は、通販で仕入れたもので仮装してその怪人に変装していた無職の男。何をしてもうまくいかない社会への憤りを、子供を怖がらせて発散していた――――なんていう、これまたありきたりで耳の腐りそうな理由だったそうよ」


 確かに、それは……今もちょくちょく耳にする事の多い、おかしな輩の常套句だ。

 わざわざ報道するまでもないとさえ言えるようなものだ。


「――――怪人は実在する。ただしそれは伝説ではなく。いつの世にも必ずいる、暇を持て余した悪質な人間の低劣な悪戯として。カツラとマスクをして、コートとパンタロンを身に着ければもう“口裂け女”のできあがり。仕込みというほどの事でもないわね」

「……なるほどな」


 もし、天峯と再会するのがあと少し早ければ。

 神居村を知る前であれば――――俺は、この考えを受け入れただろう。

 そしてもしかすると、それは真相であったのかもしれない、とも今でもかすかに思う。


 だが、神居村には……その出自など関係なく、今も怪異は起きる。

 口裂け女も人面犬も、鳴るピアノの怪も、首なしライダーも、……トイレの花子さんも。

 もとになった話など関係ない。

 その話が流布され、真に受けて信じた人間達の恐怖、面白がって尾ひれをつける意識がやがて……本当に、それを産んでしまうのだ。

 人間の恐怖の無意識が、彼らに実体と、“役割”を与えるから。


「……ここに来れば、そうしたヒマな何者かの痕跡ぐらいは見つけられると思ったの。でもダメね、あてが外れたわ。ずいぶんと注意深く見たけど、侵入した痕跡はない。私達が入った窓も、あの備品倉庫の具合からして誰も入ってない。無駄骨だったようね」

「……九割は人間の仕業って言ったな。残りは?」

「そんな事、言ったかしら? でも、まぁ……そうね。本当にいたのかもと思わなくもない。“私が見た事がないから、存在しない”なんて思うほど傲慢じゃないわ。けれど、発端になったこの病院の噂自体がデマなのだからそれはない。……もう寂しくなっちゃったわ。ここに長居する理由がもうなくなってしまったもの」


 そう言って、天峯は踵を返して――――俺とすれ違うように院長室を出た。

 もとより、調べるほどの情報量も少ない部屋だ。広いのに、がらんとしていて――――全然調べ応えもない。

 ただ一人残された俺は、あらためて室内を見渡した。

 そこで、ふと――――棚に一冊だけ刺さったままの医学書が気になり、引っ張り出してみた。

 ズッシリと重い上質な紙の塊が、埃の積もった棚にずずっ、とわだちを作る。

 やはり、この本もまた……誰にも開かれないまま、ここにあったのだ。

 せめて資源回収にでも出してやれば、また新しいものになれたかもしれない。

 あるいは古書店にでも行けば、誰かに見出される事もあっただろう。


 持つだけでもおっくうなほど重いそいつを半ばで開くと――――何かがページの間から滑り落ちた。


「ん……?」


 絨毯に落ちた音は、それなりの硬度のある何かであると知らせてくれた。


「これ、は……?」


 小さな……小さな、小さな鍵だった。

 自転車の鍵にも見えるようなサイズで、わずかな錆びが浮いているが空気に触れる事が少なかったせいか、驚くほど状態はいい。


 ――――どくん、と心臓が跳ねるのが分かる。


 この何も無い院長室に残されていたのは、机、電話、灰皿と吸い殻、そして――――この、一冊だけ残されていた本に挟まったままの“小さな鍵”。

 自然、視線は――――その“鍵”へと繋がりそうな唯一のものへ向かう。


 無意識に、俺の手がポケットの中の“柄”を握り締め……そのほのかな重さに勇気を分け与えられながら、ゆっくりと回り込み、机の右側、最上段の引き出しについた鍵穴を見つけた。


「…………まさか、だよな?」


 天峯を呼び戻そうか――――しばし、逡巡する。

 だが、もう天峯の足音は一階へと移ってしまった。


 どの道、ここまで来ればもう引き返せない。

 否、俺はそもそも――――“こういうもの”を見つけるために、ここにやって来たのではなかったか?


 意外にも、手は震えない。

 こうした事に慣れ過ぎて何かが麻痺しているのかもしれない。

 普通、こんな状況、一人でこんなヤバそうな鍵付きの引き出しになんて手をつけないだろう。


 だが、それでも――――俺は、自分でも驚くほど冷静に鍵を摘まみ、その鍵穴へゆっくりと差し込む。


 意外なほどに、かちゃり、と小気味よく音を立ててそれは開いた。

 その、中には。



 ――――――その、中には。







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