年の瀬の不法侵入
*****
そして翌日は朝から晴れて――――しかし天気の良さの割に、冷え込みは厳しく、ベッドから起き上がり、毛布から離れる事には多大な未練を残した。
それでも起きれば朝食の匂いがして、つられるように台所へ顔を出せば浮谷さんと……何と想像もしないことに、碧さんが並んで台所へ立っていたのだ。
挨拶でもしようと思ったら、一瞬早く碧さんの方から俺に気付き、丸眼鏡の奥からどこか柔らかさを湛えた笑みが注がれてきた。
「おや。……起きたか、孫殿よ。早起きが身についておるとは感心じゃ。腹が空いたか?もうしばし待っておれ…………、どうかしたか?」
「いや……碧さん、料理できたの? なんか全然そういうのダメかと思ってた」
「無礼な。私とてできればしとうないわ。ただ、まぁ。お主をもてなさぬ訳にもいかぬじゃろう。それに、こういう面でも見せておかねば……単なる“だらしない呑兵衛”とでも思われてしまうしの」
「間違ってんですか?」
「次に口を開いたらあれぞ。この鍋にお主の頭を突っ込んで煮立てるぞ?」
「……はい、朝から美人の手料理をいただけて何よりです」
「良し。ならば箸でも並べてこい。それと玄関から朝刊も抜いてくるのじゃ」
言われるがまま、俺は三人分の箸置きと箸を取り出して食卓へ並べ、その足で冷たい床を踏みながら廊下を通り、玄関先の郵便受けから新聞を抜いて、突っ立ったままでペラペラと新聞をめくり斜め読みするも……事件の類、天峯が語ったような“耳切り”事件の見出しはない。
取り立てて話題にするような事もない普通のニュースばかりだ。
昨日聞けた話もかなり、さらっとしたものばかりで……更なる詳細は、今日この後、天峯と廃院で落ち合ってからの事になるだろう。
しかし久々に読む新聞、そのままついつい上がり框に座り込んだまま熟読してしまう。
「…………神居村から離れてみても、結局これかよ。どうなってんだ……」
「私が“アレを持って来い”と言った理由が分かったかの?」
「……っ! あんた、どうして電話で言わなかったんだ」
いつの間にか真後ろに立っていた碧さんが、割烹着姿のままほかほかと湯気を立てる椀を載せたお盆を手に囁いてきた。
「いや、今朝……朝餉の後にでも切り出そうと思うておったのじゃが。流石に帰省当日にそんな話をしない分別は私にもある。まさかお主が……私の口より先にその
その気遣いは確かに嬉しいが、今となってはもう後の祭り。
昨日の内に、天峯から例の一件を聞いてしまったからもう……帰省というよりは、まるで神居村から
何が哀しくて年末年始にまで怪異を追っかけていかねばならないのか――――と思った事さえ、神居村にすっかり染まり切っている事に気付く。
普通、もっと違うリアクションがあるはずだ。
昨日は現に天峯に対しておかしな受け答えをしてしまった事を思い出す。
あそこは乗って怖がるか、笑い飛ばすかをするべきところだった。
“廃病院の耳切りナースが人を襲っている”なんて話に対して、“ああはいはい。それがどうかしたのか、普通だろ”なんて――――話を振られた俺の方が頭がおかしいんじゃないかとさえ思うぐらいだ。
そんな自分に何とも言えないやりきれなさを感じて新聞を畳むと、ゆっくりと腰を上げる。
「……ところで、どうして俺に? 何なら、碧さんが退治すればよかったじゃないですか」
そう言うと、碧さんは人のよさそうなタヌキ顔を困ったように曇らせて静かに答えた。
「私もそうできればヤマヤマだったのじゃが……まぁ、事情はその内話そう。ひとまずは朝餉といこうではないか? 冷めてしまう」
「はぁ……。それじゃ、朝メシ食ったら少し出てきます。多分、夕方からなら買い物とか付き合えると思います。荷物持ちますよ」
「うむ。良い心がけじゃ」
結局、生活と“怪物退治”とが混ざってしまう事に内心、苦笑する。
生活の中に“都市伝説怪談との対峙”が組み込まれてしまう神居村の村民性がもう自分の深くにしみついてしまった。
流石にこんな会話は浮谷さんに聞かせられるわけもない。
もし“神居村で、ハサミを持った口裂け女や突っ込んで来る首なしライダーと戦いながら暮らしていますが元気です”なんて言ったら冗談が巧いと思われるか、真に受けて怒られ心配されるかのどちらかだろう。
ともかく、朝食の後。
俺は行ってみる事になった。
今もって
――――――“廃病院”へ。
*****
その廃病院、子供達の通称“耳切り病院”は俺の通った小学校の学区ぎりぎりのところに建っている。
大きめの公園の裏手に位置する二階建ての耳鼻科クリニックで、俺がこの噂を聞いた当時でさえもう廃業していた。
子供の脚では自転車を使っても少し厳しかった距離を、朝のしゃっきりした寒さがまだ残る中を歩くのは、今の俺でも堪える。
神居村ほど雪が深くないとはいえ、寒さだけは別だ。
モッズコートにマフラー、そして怜にもらった手袋をはめてなおまだ空気が冷たく、ひりひりと皮膚の水分が奪われ、裂けるような感覚までしてくるほどだ。
この二日後には大晦日を迎える日だってのに俺は何をしてるのか――――少しだけ、虚しくもなった。
年の瀬でも、この時期になればもう忙しく慌てて外に出るような人達も少ない。
残り二日しかない今年の残りは、もう皆、年末の大掃除に追われる頃合いだろう。
現に、ここまで歩いてきてもはしゃぎ回る子供の声すら聞こえないし、人とすれ違う事もなかった。
ただただ、静かな――――あとはただ暮れるだけの、今年の残りを消化していく街の寂しい空気を吸いながら、歩く。
そのまま歩き続けること、十分。予想していたよりも早く……そこには、辿りついた。
「ここ、が……噂の荒療治をしてくれるって病院か?」
この時期、遊ぶ子どももいない大きめの公園の裏手に金網のフェンスを隔ててそれは在った。
――――神居村に散見されるような、木造のいかにも古めかしい廃墟とはまた違う。
黄と黒のロープを渡された向こうには、まるで彼岸の建物のようにそれはあった。
明らかにこの十年来に建てられたものではない、古臭いモザイク状のタイル敷の入り口が、閉ざされ曇ったガラス戸越しに見えた。
ひどく損壊しているわけでもなければ荒れている様子もなく、捨てられ忘れられた寂しさも漂わない。
ただ、ただ――――“機能”だけを閉ざした、いつまでも腐らず残り自然に還る事も無い、無機質な
もう二度と、その扉を開けて患者を迎える事はない。
割れた看板に煤けた文字は今でもはっきり読めるのに、もうその文字列に意味はない。
ここがヤブだったか名医だったかは知らないけど――――もう、そんな事にも意味はなくなった。
「……“
「来てたのか。いつからそこに?」
「あなたより少し早く。この周りを歩いていたわ。……さ、行きましょう。エスコートぐらいしてくれるようになったの?」
看板を眺めている間に、いつの間にか天峯が佇み、看板に記された往時の名前を諳んじていた。
センター分けの黒髪と眼鏡は優等生のナリなのに、耳にはやはりピアスが開けられていて――――大人びた空気が漂い、俺より二つか三つ上かとも思えそうだが勿論そんな事はない。
ショート丈のダッフルコートと細いデニムは動きやすさを重視したようだが、しかしマフラーは鼻まで覆うように、まるで覆面でもするように顔を隠す。
もしかしてこいつはわざとそう選んで来たのか――――?
「言っておくけど……思いっきり不法侵入だからな。止めないのか?」
……そう、これは不法侵入。
あっちで山奥の廃校に入った時とも、鳴るピアノの怪を片付けた時の侵入とも違う。
近隣住民に通報される恐れが充分にあり、“怪異の手がかりを探していた”なんて言おうものなら駆けつけた警官にこっぴどく説教される事間違いない。
今さらこんな提案をした事に自分でも驚きだが、天峯がまさか……乗ってくるとも、思わなかったぐらいなのに。
「むしろ、こっちが止めて欲しかったわ。あなたってそんな悪童だった覚えはないのだけれど……まぁ、いいわ。行きましょう。玄関は施錠されてる。こっちの裏から回ると、路上からは死角になる窓がある。そこから入りましょう」
「……下見までしてんのかよ、天峯……」
「それと、名前は呼ばないで。近隣住民や通行人に聞かれたら面倒になるから、“おい”とか“お前”で呼ぶように」
……思考もやり口も完全に空き巣だし、この応酬も、言い逃れしようもないほど犯罪臭が強い。
ともかく、ともかく……ここまで来た以上、中に入ってみなきゃ始まらない。
迷いなく進む天峯について行き、正面から右手側に大きく建物を回り込み――――歩行者からは、待合室らしい出窓が死角になって見えなくなる場所から更に進み……体を入れるにはぎりぎりの、小高くついた明り取りの窓を見つけた。
「ここから入れそうだな。先に入るぞ」
「……分かったわ。足もとに気を付けて」
横に引いてみると、意外にもその窓はスムーズに動いて……不要な物音を立てる事もなかった。
腰の高さよりやや高いそこへ、鉄棒に乗る時の要領で体を浮かせてねじり込ませると――――ウッ、と息の詰まりそうな埃っぽさとカビ臭さに襲われた。
えずきそうになるのを堪えながら、足音を出来るだけ殺しながら着地すると――――ばさり、と薄暗い室内に、それでもはっきりと分かるほど埃が舞った。
足を持ち上げれば、くっきりと靴跡が残され――――いきなり証拠を残してしまった事に、妙な落ち着かなさが募る。
「……七支、どう? 大丈夫?」
「ああ。……埃っぽいけど問題ない。大丈夫だ、来い」
俺に続いて天峯が音もなく猫のように――――むしろ俺よりもしなやかで慣れた体さばきで下りてきてすぐ、口もとを深く覆うようにマフラーを巻き直すとポケットからペンライトを取り出して室内を照らし出した。
「……備品倉庫かしら。誰も入っていないようね、長く」
四畳ほどしかない手狭な部屋の中には、壁面に沿って簡素な棚が並ぶ。
ぼろぼろに朽ち果てた段ボール、埃のカタマリにしか見えないくしゃくしゃのビニールが散らばり、床一面に散乱するよく分からない紙片は……もしかして、薬液のラベルか説明書きか?
深く呼吸する事もためらわれるような埃っぽさとカビ臭さで、いわゆる“病院の匂い”はしない。
「とりあえず出るか。鍵がかかってなきゃいいけど……」
ともかく、こんな狭くて埃くさい場所にいても始まらない。
天峯の照らした先にある金属製のドアへ手をかけようとして――――手袋を外す。
さすがに、この埃が積もりに積もったドアノブに、怜がくれた手袋をはめたまま触りたくはない。
古くて時代がかったシリンダー錠はかかっておらず、少しだけ軋んだ手応えとともに、抵抗もなくドアは引く事ができた。
「……忘れてたわ。今回はちゃんとお経を耳まで書いてきたかしら?」
「ああ、あの時は痛かったな。……じゃねーよ。琵琶なんて弾けるか。変な冗談言うな」
「そうね。あなた、せっかく譲ってもらったギターも弾かずじまいだものね」
「うるせーな、何で知ってんだそんな事!」
「さてさて。……冗談はやめにして、探索を始めましょうか。鬼が出るか、蛇が出るか、それとも……なんてね」
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