耳切りナースのウワサ、十年後


*****


 もう十年近く前――――――“廃病院”が、近くにあった。

 それは小三しょうさんの時だから、俺は充分覚えている。


 そこは学校から少し外れ、校区ぎりぎりの大きめの公園に併設されていた七十坪ほどの耳鼻科・・・の廃院だ。

 入院設備を備えたものでなく、二階建ての医院の廃墟で、朽ち果てた看板には何と銘されていたか――――までは覚えているワケもない。

 小学生のさがなのか、廃病院だの廃校だのそうした廃墟には面白おかしい尾ヒレを適当に加えていく傾向にある。

 “医院”と“病院”の区別もないから、やれ、入院患者が凄惨な人体実験の果てに殺されただとか、院長が連続猟奇殺人犯で院長室は薬品漬けの人体パーツが立ち並ぶマッドな部屋だったとか、探検に入った不良が帰ってこなかった、地下室には今もまだ人知れず朽ち果てている死体があるだとか――――まぁ、お約束の渦だ。


 廃病院の噂、と天峯に電話で言われても、候補があまりに多すぎてピンと来ないぐらいだ。

 それでも絞り込めたのは、後半部分の“耳切りナース”という部分があってこその事だ。

 その剣呑な名前の噂と云えば――――説明するような事もなく、名前が全てを語っている。

 侵入者を襲って殺し、その耳だけを切り取って院長室のコレクションを増やす怪人。

 その正体は院長の愛人でもあったナースであり、学会へ報告する何かの論文のために“耳”を集める事を頼まれ、さらに彼女は行動範囲を広げて近隣でその身を隠して出没し、哀れな通行人を襲って耳だけを切り集める通り魔の日々を送りついには警察の捜査線上に浮上し、あわや逮捕というところまで漕ぎつけるも――――彼女は、自決を選んだ。


 自分自身の両耳に向けて愛用の凶器だったメスを突き刺し、その脳にまで達した刃傷が命取りだったと。

 それがもとで院長の悪事も発覚し、院長室にびっしりと並んでいた“耳”の標本も犠牲者達のもとへ戻ったとか。


 こんな風な……今の時代に語られていたにしては珍しいストロングスタイルの怪談話だ。

 しかし、くだんのナースが自決し、院長の悪事が明るみに出されてお縄になり、一件落着――――とはならないのもまた、この手の話にはつきものだろう。

 実際、この話には。


 ――――犯人の死では終わらない続きが、あるのだ。



*****


 待ち合わせ場所に指定されたコンビニに辿りつくと――――すぐに、目に入った。

 イートインスペースの端の一席に腰かけ、店内淹れのコーヒーをちまちまと傾けては息をつく、青みがかった黒髪の、鋭く涼しい目つきの女がいた。

 そこだけがまるでカフェの一角かと錯覚するような落ち着きぶりは、店内にループでかかるキャンペーンだのの案内放送とはまるで相反するようだ。

 細いスリムフィットのデニムで露出度もなく、白いVネックセーターの首もとには桃色がかった銀のネックレスがかかり、真面目そうな眼鏡のなりと反する耳のピアス。

 しかし外連味けれんみのようなものは感じず――――上腕にかけて絡めた青色のストールが、むしろ落ち着きさえ醸し出すほどだ。


「…………おい、天峯。あんな電話かけてきて何のんびりしてんだ?」

「そこまで緊急の状況ならあなたじゃなくて警察へ電話しているわよ。私が殺されそうな様子にでも聞こえた?」

「……帰っていいか?」

「あら、帰るの? なら途中まで送っていこうかしら。道すがらに話したい事もあるし」

「お前……はぁ、待ってろ」


 入る前、こいつの前を通って思いっきり目が合ったのにも関わらず反応はなかった。

 入店し、後ろから声をかけてようやく返ってきた反応はこのザマだ。

 こんなスレた反応しか返してこないとはいえ、ともかく隣に座らなきゃ話は始まらない。

 ひとまずその理由を作るため、年末にも関わらず休めていない仕事帰りの会社員達や立ち読みの兄ちゃん達の合間を縫い、適当な缶コーヒーをひとつ掴んで会計を済ませて戻り、ようやく天峯の隣に座る名目が作れた。


「久しぶり……とは言えないわね。この間、出くわしてしまったもの。それで、元気?」

「ああ、見ての通り」

「あなたは見れば分かるから訊いてない。あの子の事よ、咲耶怜。何だかふらついていなかったかしら?」

「……まぁ、あいつの家は年末まで色々とバタバタしてるんだ。ヤマは越えたから正月は休めるはず」

「そう。……それで……」

「天峯。俺に用があったんだろ。そろそろ教えろよ、何で今さらあんなガキの噂を切り出した? だいたい……俺が今帰ってきてると、分かって電話してきた訳じゃないんだろ?」


 かしっ、と小気味よい音とともにプルタブを起こして缶コーヒーを一口すすると、思っていたよりも甘ったるい味が暖かく口の中に広がる。

 歯の裏にまでこびりつくような砂糖っぽさと多すぎるミルクがむしろカフェインよりも気付けになるとまで言っていい。

 

「……出たのよ」

「何が?」

「言ったでしょう、“廃病院の耳切りナース”。あれが本当に出没しているの」

「はぁ……それで?」


 缶コーヒーを置きながら、暗くなった窓の外へ目を移して相槌を打つと――――天峯が初めてこちらを向いたのを感じて、視線を戻す。

 涼しいはずの目もとにはどこか怪訝さが窺えて、箸一本分ほど空いた唇の隙間からは、天峯の珍しい困惑が見てとれた。


「……話を続けるわ。思い出したでしょう?“廃病院の耳切りナース”があの噂をきっちりとなぞるように出没している。私の知り合いも遭遇したし、耳を本当に切られてしまった人までいる。見て、これがそのニュースよ」

「……え、ああ……本当だ。怖いな」

「怖い、って……さっきから何なの、七支。気が入ってないわよ。確かに、いきなり呼びつけたのに来てくれたのは申し訳ないと思っているけれど……もう一度言うわ。あの“怖い話”がそのまま今、起きている。被害者も出ている。両耳にメスの突き立ったナースが目撃されているのよ」

「はぁ。だから、そんなのどこが珍し――――――――」


 ――――いや、待て。

 ここは、ここは。

 ここは――――――“神居村”じゃなかった!!


「――――珍しくないとでも言いたいの?」

「あ、いや…………! ……ごめん、俺が悪かった。詳しく話してくれ。場所は?」

「……まぁ、いいわ。状況は――――」


 その事実に気付くと、俺の背筋は一気に冷え切り――――冷水を浴びせられたように我に返らざるをえなかった。

ここは神居村ではない。

 そんな都市伝説、怪談が語られるような事はあっても――――実在してはいけない場所だ。

 なのに今、ここには俺が伝え聞いたような怪談話が実際に起きており、あまつさえそれは残忍に人を襲い、“耳のコレクション”を再び集め直していると聞く。

 天峯の語る所によれば、その噂がまた語られ始めたのは秋口ごろに遡る。

 小学生を中心に流れ、SNSで語られ、今となってはこの辺りの小中学生なら誰でも知ってはいるという。

 もともと、十年程度しか経っていない比較的最近の怪談だから知っている人間は多い。

 俺が知っているように、今の小中学生の兄や姉が知っていても全然おかしくはないのだ。


 だが、“噂”しかなかった当時と違い、今回は明確に怪我人が出た。

 天峯が集めた情報によれば既に何人か耳を切りつけられる被害者が出ており、一人は完全に“持っていかれた”という。

 天峯の知り合いも遭遇し、偶然にパトロール中のパトカーを見つける事ができて逃れたものの――――耳もとで空を切るメスの音が今も忘れられずに怯えている。


「……で、天峯。事態は分かったけど、結局俺に何の用なんだ?」


 まさか、そんな事が起きている――――と伝えたいだけのハズはないだろう。

 何か俺に、この件に関する事での用事があったのは確かだ。


「……あの時。どうしてあなたは入らなかったのか教えて欲しいの」

「あの時?」

「思い出したんじゃなかったの? ……その廃病院に肝試しに入ろう、って事があったじゃないの。私は蚊帳の外だったけれど、あなた達男子がそう話していたのは覚えてるわ」

「……ん…………?」


 ――――そんな事、あったか?


「教室で話していたのを小耳に挟んだの。その時もあなたはどこか青ざめていたけど――――ただ怖がっているだけだと思った。結局、それは別の女子がチクってお流れになったようだけど。……それまで普通に話していたあなたが、廃病院へ入ってみよう、という話になった途端に顔色が青白くなった。呼吸も早くなって手も震えていた」


 ――――そう、天峯に詳しく聞くとなんとなく、おぼろげにではあるが思い出せてきた。

 確かに、あった。

 噂の廃病院に男子数人で探検に入って度胸試しをしよう、という話が確かに持ち上がった事があって、確かに入らずに済んだ事がある。


「あなたに訊きたいというのは、それなのよ。……七支。あの時、どうして怯えていたの? あなた、もしかして――――“廃病院”の事を、何か知っていたのならと思って」


 ――――違う。

 俺がもし“廃墟”へ入る事を恐れ、怯えていたのだとしたらその理由はきっと――――更にその前。

 “神居村”での、廃校舎の一件のフラッシュバックによるものに違いない。

 俺は、言葉を選び――――


「……残念だけど。別件だ。俺はその時確かにブルってたけど、別に何か知ってるわけじゃない。チキンだっただけだよ。……でも、確かに。調べてみる価値はあるよな」

「どこを?」

「どこって、“廃病院”だよ。まだ取り壊さないで残ってるんだろ? 今日はもう暗いから、明日行こう。大丈夫か?」

「え? え……えぇ、大丈夫、明日なら空いてるわ。でも、本当にいいの?」

「いいよ、別に。もともと、こっちでする事も別になかったし……しばらく付き合うよ、天峯。家まで送ろうか?」


 天峯とは、そこそこに長い付き合いだった。

 でも、こんな――――口を呆けたように開ける姿を見た事はない。

 しかし、すぐに天峯は元通りの――――怜悧な表情を取り戻して眼鏡の奥からかすかに笑いかけてきた。


「……せっかくだけどそれは、遠慮するわ。あなたに送られていいのはあの子でしょう。……大丈夫、明るい所を通って帰るし、家に着いたら連絡を入れるから。それじゃ」


 そう言うと天峯は立ち上がり、上着を羽織って――――店内のゴミ箱へ飲み終わったカップを捨てて、一度だけ手をひらりと振って出ていってしまった。


「……耳切りナース。ずいぶん、あいつ……真に受けてるんだな」


 少しだけ、意外だった。

 前にも言ったが、あいつは、羽切天峯はずっと冷めていて現実的な、“かわいくない嫌な女子”だった。

 実際、俺と級友が廃病院の噂を話していた時にも聞き耳は立てていても加わる事はついぞ無かったし、その手の話をする機会は無かったと思う。


 知り合いがそいつに出くわして逃げた、というのは確かに衝撃的だろうが、ここまで情報を収集してフィールドワーク・・・・・・・・までしようという動機とは考えづらい。


 ちなみに、もちろん俺は、今回のこの事件を疑うつもりは全くない。

 ――――神居村の人間にとっては、この手の噂を信じるとか信じないとかそういう次元じゃない。


 信じる信じないではなく――――“知っている”からだ。


 ――――“怪談”にて語られる存在は、確かに実在しているのだと。








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