再び、お帰りなさいの場所へ


*****


 そしてまた、村を離れる寂しい電車に揺られてひとり。

 四人掛けボックス席の対面にでかいカバンを預けて占有する、およそ最悪の乗車マナーを咎める人間さえ乗ってない。

 流石に誰かが乗ってきたら下ろすが、その心配さえあと数駅はしなくていい。

 寂しく気楽な一人旅、前日にもらった遅まきの“クリスマス”に包んだ手を眺めて、ただ白く流れる風景を窓の外に感じる。

 朝の空気に白くもやが掛かり、暖かく差すはずの日が光を散逸させるようで――――かたん、ことん、と小気味よい音を立てて揺れる車内全体が照らされていた。


 帰省――――といっていいのかどうかが分からない。

 なぜならもう爺ちゃんはいないのだから、今から向かう、かつて住んでいた家は本来ならば誰も帰る事の無い家だし、そもそも本来の意味なら俺が今住む神居村の一軒家が、俺の故郷だったのだから。

 ともかく今は図々しくも居座る変な女、俺の後見人を務めてくれる“碧さん”に爺ちゃん家の留守を預けている。

 さらに、爺ちゃんの家のお手伝いさんで、爺ちゃん亡き今もまだ家の管理をしてくれる、俺の親代わりとなってくれていた浮谷舞子さんもいてくれる。

 今回の帰省は、夏休みに顔を見せられなかった浮谷さんへ近況報告やなんだを兼ねたものだ。


 ただ――――ひとつ、俺にはどうしても気にかかる事があった。

 昨日、眠りに就く前。


 碧さんから、電話があった。

 どうせ翌日には会えるのだから、とさっさとつれなく・・・・切ろうとしたところで念を押すように、言われた。


「――――お主に返したあの柄手。あれは絶対に持って来い」と。



*****


それから、特に何か起こる事も無く――――ほんの二週間ほど前に短い一晩だけ帰ってきた、“爺ちゃんとの家”に到着すると、浮谷さんが満面の笑顔で出迎えてくれた。

 玄関の扉を開け、行儀悪く大型のボストンバッグを玄関の足拭きの上に下ろしてもたもたと靴を脱いでいると、履物がそこに少ない事に気付いた。


「お帰りなさい、杏矢くん。長旅でお疲れでしょう? もう少ししたらお風呂の準備をしますから、荷物をほどいてくつろいでくださいね」

「ありがと、浮谷さん。…………碧さんは?」

「今日は、朝からお出掛けに。夕飯までにはお戻りになられると仰ってましたよ」

「ふーん。……あの人、こっちで友達とかいるの?」

「ええ。将棋や麻雀で知り合った方が多いそうですよ。それと、ゲートボール場にもよく出掛けておりましたし……ああ、あと近くの公園で夏から秋にかけてやっていた太極拳の朝教室にも」

「うっわ……」


 ババァの過ごし方だな、もうちょい何かあるだろ――――と猛烈な勢いで頭に浮かんだ言葉だが、流石に言うのはもちろん、考える事さえためらうような酷さだから、すぐに脳のフチに押し流した。

 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべかけてしまったのには浮谷さんに確実に見られていたろうが。

 見咎められる前に靴を脱ぎ終わり、ずしりと重い鞄を肩に掛けて、残されたままの部屋に向かってそいつを下ろしたところで喉の渇きに気付き、冷蔵庫でも漁ろうかと台所へ向かう。

 黒ずんだ板張りの床に、流し台の下に敷かれた撥水素材の柔らかい黄色の台所マット、所狭しと吊り下げられた料理道具とフライパンと小鍋、あまり使った覚えのない古びて色褪せた年代もののトースターがまず目についた。

 戸棚の中には、使い込んだ食器が――――もう使われる事も減った食器達が、まるで眠るように並んでいる。

 大皿、小皿、鍋用の小鉢――――どれも、今はそう使われる事がない。

 そして台所に漂う匂いは懐かしくて――――俺の空腹をくすぐるようだ。

 ガス台に向かっている浮谷さんの後ろを通り、無駄にでかい片開きの三十年ものの冷蔵庫を開くと――――懐かしい、今は懐かしくなってしまった五百ミリのペットボトル入りのコーラが目に入った。

 それを手に取り、冷蔵庫の扉の下から浮谷さんに向けて見せながら訊ねる。


「飲んでいい?」

「ええ、もちろん。杏矢くんのですよ」

「ありがと。……ペット見るの久しぶりだな」

「そういえば杏矢くん。あの子もお元気ですか?」

「怜? うん、変わりない。昨日は、あいつが舞った神楽を見てきたんだ。どうかした?」

「……いえ、ふふっ。安心したんですよ」

「安心……」


 鸚鵡返しにしながら、きりりっ、とペットボトルの蓋を開けると、冷えた炭酸飲料を開ける時に特有の軽い破裂音がした。

 村でよく飲む、瓶詰のそれと違い炭酸が弱い気がしたが――――それでも代えがたく、喉の奥まで流し込む。


「あんなしっかりした子が傍にいてくれるなら、安心です。どうですか? あちらの、神居村――――でしたか、慣れました?」

「まぁ……。そういえばさ、浮谷さんは……碧さんや爺ちゃんから、神居村について何か聞いて……いや、そういえばさ。俺がこの家に来た時の事、覚えてる?」

「え? はい、……勿論覚えていますよ、杏矢くん。でも、その……」


 いつもにこにこと目を細めて笑う浮谷さんが、珍しく眉をひそめて皺を作る。

 恐らく、俺がこの家に連れられてきた時の様子を口にする事に、何か抵抗があるのかもしれない。

 それもそうだ。

 何せ、俺にだって――――父さんと母さんがいなくなってしまい、その状況に心が追い付かず、記憶もおぼろげでまだ当時の大半が霞の中だから。

 口ごもる浮谷さんに笑いかけて促すと、やがて――――


「……分かりました。そうですね、覚えております。何と申しますか……手のかからない子、という印象を受けました」

「手のかからない……? 俺が?」

「ええ。生活に必要な事はできていました。六歳だったので当然かもしれないけれど……大人しくて、でも――――笑う事はない子でした。二、三年もすればそれも薄れてよそと遜色ない感情豊かな子になっていきましたけど。事情を聞けば、神居村にご両親と住んでいた折に事故でどちらも亡くなってしまい、それを旦那様が引き取って養育する事とした――――との事。神居村については、旦那様が少年時代を過ごした場所で、杏矢くんの後見人を務めてくださっている碧さんは旦那様の旧知の女性の“娘”である……と」


 一息にそう言って、浮谷さんはまた鍋の中身を掻き混ぜて灰汁を掬い、流し台へ捨てた。

 神居村の実情を知らない人には、そう説明するしかなかったかもしれない。

 まさか、俺の父さん母さんは“トイレの花子にこの世から消されてしまった”なんて説明する訳にもいかないし、信じても貰えないし、何より冗談として悪趣味にも程がある。

 神居村は見た目こそ地方の農村だけど、実際には耳を疑うような古めかしい怪談事件がそこかしこで定期的に起こり、村人も臆さないようなおかしな村だという事も、冗談にしか聞こえない話ではないか。

 そして更に碧さん――――彼女は爺ちゃんに教えた事もある、もとは神居村の教師で、恐らく人間ではなく、姿を変えないまま幕末からずっと生きていると。


「……杏矢くんが、碧さんの勧めにしたがって神居村へ戻るとお決めになった時は驚きました。ですが旦那様の御遺言にその旨があると聞けば私にはお止めする理由も。旦那様にお考えがあったとの事で……」


 確かに、浮谷さんも驚いたろうけど――――それは俺も同じ事だ。

 爺ちゃんがいなくなって呆然としていた頃にあの人の急な来訪、そして遠く離れた村へ一人引っ越す事になるなんてそんな話を受けた自分もまた正気と思えないんだ。

 でも、今となれば全ての理由は分かる。全ては、えんなのだと。


 残される俺に、思い出させるために。

 俺に、もう一度、あの村の夏から――――神居村の夏からやり直させるために。


「俺、思い出せたんだよ。浮谷さん」

「はい……?」

「色々、あったんだけどさ。父さんと、母さんの顔も。何もかも。思い出せたんだ。だから――――爺ちゃんは、間違ってなかった」


 ぐっ、とペットボトルを傾け、ほんの少し苦くなりかけた喉の奥へ酸味と泡とを流し込む。

 半分ほど残ったそれの蓋を閉め、冷蔵庫のポケットへ戻すと――――あらためて時計を見る。


「……さて、と。浮谷さん。夕飯までまだ時間あるよね」

「ええ。どちらへ?」

「久しぶりだしさ。その辺、適当に散歩してくるよ。この間はあんまり時間も無かったし……」

「はい、いってらっしゃい、気を付けて。今日はあれを作りました」


 夕飯のおかずの匂いがいよいよ濃く立ち上り始めた台所を後にして、廊下に出る。

 ちらりと見えた鍋の中身は、俺がよくせがんでいた浮谷さんの得意料理――――烏賊いかのカレー煮だ。

 輪切りのイカの胴とゲソに、生姜たっぷりのカレー出汁がしみ込んでたまらなく旨い逸品だ。

 どちらかといえば肴に近いんだろうけど、好きだったのだからしょうがない。


 上がり込んでから今までずっと、コートさえも着たままだった事に今さら気付く。

 ポケットから手袋を取り出し、片手にはめたと同時に――――電話台の前を通る時、おもむろに電話が鳴った。

 耳をつんざくサイレンじみた黒電話のベル音ではなく、電子音のそれは優しく感じられた。

 一瞬、俺が電話を取っていいかどうか迷ったがよく考えるまでもなく――――


「いや、ここ俺ん家だろ……。はい、もしもし。七支です」

『――――――七支?』


 受話器の先に聴こえた声は、落ち着いた女の声だが――――少し驚いてもいるようだった。

 爺ちゃんの関係者か、碧さんの関係者か、それともここで浮谷さんが働いている事を知る知り合いの誰かだろうか。

 次の言葉を促すと。


「もしもし? ……七支です。どちら様ですか?」

『……七支……杏矢? どうしてそこにいるの? 私よ……羽切はきり。本当に七支杏矢なの?』


 ――――天峯あまね!?


「天峯か? どうして、って……お前こそどうして電話なんか。何かあったのか?」

『……突然だけど……今から会える? 会えるのならどうしても訊きたい事があるの。直接。今すぐに』

「ああ、ちょうど散歩に出るトコだったから構わないけど……何だ?」


 ――――喉の奥へ、苦い緊張が滑り込んで来るのが分かる。

 天峯とは中学までの付き合いだったが、こんな風にどこか焦って話してくる事は初めてだったからだ。

 それと第六感というヤツか――――。



『小学校の時の――――――“廃病院の耳切りナース”の噂を覚えてるなら、思い出しながら来て。待ち合わせは――――』







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