奉り、納まり給えと祈りの夜に
*****
「かけまくも――――
十二月二十七日夜、いよいよ年の瀬を迎えた神居村の神宮に
唱えているのは怜の父、すなわちこの村に一つきりの神社の神職。
供えた神饌の上を、
すっかり夜の帳は落ちて、ちらほらと雪が舞い落ちる中を怜の父さんは身震いひとつせず、吹き抜けの神楽殿の中、長い声明をぶれさせる事無く祓の詞を紡いでいく。
「禊ぎ祓え給ひし時にィ――――――」
神居神宮の敷地の内にありながら、この神楽殿の建っている場所は……少し、参道からも境内からも外れていた。
石畳すら無い獣道を木立ちの中を突っ切るように進み、事前に雪かきして道を作っていなければそこに神楽殿がある事も気付かず、辿りつく事もできないような森の中に現れる、迷い家のような場所だ。
俺も正直なところ……この日、この時、村の皆がここを目指して歩いていなければ辿りつけたかどうか怪しいと白状したい。
焚かれた篝火に飛びこむ蛍のような小粒の雪が消えて行き――――ぱち、ぱち、と薪の弾ける音が聴こえる。
開け放した吹き抜けの高く床を張った神楽殿は周りが大きく除雪して見物にも不自由なく、三方から囲むように眺める村人は流石に寒さと時間のせいなのか人数は他の行事に比べ少ない。
人数にしておよそ百人いるかいないかというところだが――――とはいえ、それさえもこの村では人口の十分の一だ。
「……あの、
「お? ……いいところに気付くね、七支くん」
「え。……あ、あなたは確か……」
「久しぶり。この間はありがとう。うちのが七支くんにムチャ言って雪合戦を誘ったんだって……?」
ぼそっ、と呟いたそれを拾って振り返ってくれたのは、以前この村の銭湯で出会った、あの“悪童”の父さんだった。
人のよさそうな恰幅のいい眼鏡の中年男性で――――今は厚手のブルゾンにネックウォーマー、ニット帽にゴム長靴といういでたちで、正面に見える神楽殿を見物していたようだ。
「いえ、俺も楽しかったスから。で――――何て言うか……お供えが、貧しくない、ですか……?」
こういう神事を何度も見た事があるわけではない。
でも、なんだかこの年末、神居村の歳の終わりを祝い奉納するものとして見れば……本当に、お供えがささやかなものに見える。
並んだ七つほどの“三方”の上に見える供え物は、米、塩、大根、
村や神社の財政難で入手できなかったなんてことはいくらなんでも無いはずだ。
「それに、神楽殿の場所……本殿や拝殿からも離れて、いや外れすぎてませんか。こんなひっそりした場所で……?」
「確かに地味だ。でも、これでいいんだとさ。この、今夜の奉納では……贅沢というより、動物や魚、赤い血の流れるものは供えないんだよ」
「それは……どうして?」
「ん? んー…………そういえばどうしてだ? まぁ、その辺りは怜ちゃんに訊くと詳しく教えてくれるんじゃないか。私もそんなに詳しくかじっている訳じゃないから。おっ……と、そろそろだ。
意味深に登場しておいて――――特に情報を増やしてはくれないのが、何だかこの親父さんの性格を表しているような気がしなくもない。
神楽の前の祓詞も佳境を過ぎて、やがて親父さんの言葉通り、長く韻を残しながら終わる。
気付くと、雪も一時降り止み――――しめやかな篝火に照らされた神楽殿の中で静かに、御神饌の方を向いたまま背中を向けて佇む怜の姿があった。
怜の細い体は巫女装束一丁の薄着に包まれたまま震える事もなく、薄暗い神楽殿の中、揺れる影を投げかけながら、やがて――――ゆったりと、前へ歩を進めていく。
緋色の袴と、肌の透けるような
供えた神饌へ差し向う怜の後ろ姿は、まるで、そう、まるで――――これからどこかへ消えてしまいそうな、物悲しさと……そして、、引き留める事もできないような哀愁をぐっと詰め込み、醸し出させるようでもあったからだ。
まるで、もう二度と還ってこられない場所へ行く前のような。
もはや自分の居場所ではなくなった場所へ、物言わず別れをただ背で語り告げるような。
まだ、何も舞っていないのに、祝詞も奏上していないのに。
ただ怜は神楽殿の中を歩いただけなのに、もう……それだけで、心を揺さぶるものがあった。
そこで、怜がゆっくりと、いよいよ左手を振りかざし――――その手に握っていた依代となる神楽の道具を見せた。
鈴でも扇子でも、
それは――――
篝火と蝋燭の火を吸い込むような幽玄な純白を帯びた、提げ緒さえない、刀身と柄を欠いた長い白木の“鞘”のみだった。
やがて、怜の舞う奉納神楽がいよいよ、舞いの姿を見せる。
火の粉と再び降りだす雪との入り交じる中、白衣と緋袴をまとい、ゆったりと――――行き交うように神楽殿の中でそれは続く。
一度もこちらの正面へ顔を向ける事はない。
そればかりか左右にすらも視線を走らせる事なく、左手に携えた鞘を緩やかに振るい、足取りも軽く――――祝詞の一言も発しないまま。
他の神職の方達による伴奏の雅楽はまるで蚊の鳴くように小さく、この雪の中の沈黙でようやく聴きとれるほどだ。
ともすれば怜のささやかな体重での床板の鳴る音、それだけで殺されてしまうほど小さい。
もし今声を漏らせば、それだけで場の均衡が崩れてしまう、そんな確信さえ湧いてくるほどだ。
夜の闇に包まれた神楽殿の中を、衣擦れの音さえさせず静かに舞う怜をただ見ていると――――だんだんと、視野が狭まってくる。
篝火とわずかな蝋燭に照らされて、雪が視界を流れる中、彼女自身も赤と白を纏ってゆったりと舞う様子は――――まるで今にも怜が、そこで消えてしまいそうな儚さを訴えかけてくる。
事実、怜の白衣と雪景色が。緋袴と火が、髪と夜の闇とが。融け合い、互いの存在を失わせ合うように――――消えていく。
視界の端にあったはずの、他の見物客達の姿がもう見えない。
見えていたはずの神楽殿の柱も、床も、もはや存在を失った。
ほんの一瞬だけ見えた怜の横顔はただ静かに目を閉じ、うつろに唇をかすかに開けて眠るような表情を浮かべているのが分かった。
否、もしかすると――――本当に今怜は眠っており、何かを降ろしたままで、眠りながら舞っているのだろうか――――?
前方、左方、右方へ向き直る所作はあっても、怜は一度も、こちらを向き直る仕草はしない。
いくつかの事が、唐突に理解できた。
その様は――――元在った場所を“振り返らない”ことを表していると。
音も声もないその舞姿に込められた意思もまた――――同様なのだと。
もし今、声を挙げられるのなら――――きっと、引き留める言葉になるのだろう。
でも何故なのか……引き留めてはならない事であるとも、同時に感じていた。
怜の、世へ自ら融けていくような舞いを見終えて、なおも――――しばらくの間、俺は立ち尽くすし、頬を流れるものもないままただ余韻に浸るしかできなかった。
*****
それから、しばらく――――帰る気にもなれず、動く気にもなれず、刻々と寒さを厳しくさせる神宮、楼門前の階段に腰かけ、深まっていく夜に身を任せた。
すっかりと奉納神楽の見物客は家路についてしまい、この、しゃっきりと冷えた静謐な神所に居残っているのは俺一人だ。
実を言うと、ただ余韻に浸りたかっただけではなく、もうひとつ理由がある。
明日、俺はひとまずの帰省をする。今を逃せば果たせない事があったからだ。
だが、正直――――無謀であったかとも思う。
きっと、怜にも神楽の後で済ます事がある。片付け、後始末、色々とあるのは間違いなく、今呼び止めに行くのは却って邪魔かもしれないからだ。
せめて、携帯でもあればちょっと呼びかけられたな――――と思いはしても、ないものねだりはしょうがない。
そうなるとますます自分が今ここで何をしているのか分からなくなり――――思わず、碧さんと初めて出会った日の自分のぐだぐだっぷりを思い出して、自己嫌悪の渦が少し見えた。
多分、俺は元来から変に考え込むタチで、しかもその考えを自分で処理して軽くしようとはしない人間だったような気がしなくもない。
上着のポケットに入れっぱなしの手がそれでも凍えて、空に向けて吐いた息が真っ白く曇った頃に、妙に心細くなった。
「……しかし、さっむ…………」
呟いた声は、凍えて枯れかけていた。
もし温度計があれば零下何℃を指していたか――――知りたくもない。
ポケットの中であてどなくさすり、いじっていた“包み”の角が丸くなりかけやしないかと思い直して手を抜き取る。
するとまた、一瞬で手が冷え込み――――ひび割れたような冷たさが指先を襲う。
今よりはほんの少しマシで、篝火と蝋燭が灯っていたとはいえ……怜は、こんな寒さの吹きっさらしの中、あの薄衣で神楽を舞い切ったのか。
まじまじと、凍てついていくような手を見つめていると――――急にその手は、後ろから差し伸ばされた手に包まれた。
「うわぁ、冷たっ……! どうして手袋しないのさ? 凍傷になったらどうするんだ、キョーヤ」
指先から、じわりと暖まるような感覚がその手に包まれ、沁み込んでくる。
振り返ると、階段の上から覗き込むように腰を折った姿の怜が、舞いの時の巫女姿に厚手のダウンを羽織い、靴だけを履き替えたままそこにいた。
俺の手の冷え具合に驚いて目を丸くし、呆れたように、それでもなおにんまりと笑うように綻ばせた顔を見ると……俺はどうしようもなく安堵するのが分かる。
「……なんだっていいだろ。それより怜、おまえ……こんな所にいていいのか?」
「キミに言われたくはないな。キミこそ……どうして? 明日、朝早いんだろ。早く帰って寝なよ」
珍しく、こいつが――――冷え切った手を優しく揉みほぐすように暖めてくれながら、それでも珍しく、拗ねているように見えた。
慣れないながらも、突き離すような言葉がどこかたどたどしく――――昔の“リョウ
そのまま、緊張感の漂う冷えた空気の中、背を向けたままでいると――――くすっ、と漏れる小さな笑いが聴こえた。
「くくっ……。慣れない事言うもんじゃなかったな。……キョーヤ。立ってくれる? 少し歩こうよ」
「ああ。分かったよ」
怜が一度手を離し、俺もゆっくり立ち上がると――――顔を赤く染めたままの怜としばし向き合ってから、どちらともなく歩き出す。
石段を上がり、楼門を外れて分け入った雪道へ踏み込み、人の出入りで踏み固められた雪を歩いて、歩いて――――辿りついたのは先ほど観たばかりの神楽の舞台だった。
吹き抜けにしてあった戸は全て再び閉ざされ、中の様子は窺い知れず、人の気配もなくなったのに今もまだ篝火が一つだけ燃え残り、ほのかに輝いていた。
「――――神居村の奉納神楽はね。“お別れの舞い”なんだ」
「……別れ?」
怜が、振り返りながらそう呟く。
残り火に照らされたその表情はいつもの怜だから――――だからこそ、その呟きは更に意味深さを増していく。
「確か――――神様が、年末と新たな年の始まりを前にして、一足早く神事を終わらせるためだった――――って言ってなかったか?」
「うん、端折ればそう。でも、終わらせたのは神事じゃなくて“時代”だよ」
「時代?」
「この村の発祥の時代。やがて神々や神霊の眷族は、この世が人の世になるにつれて力を失っていった。そうした神々がこの世で最後の時を過ごしたのが、ここ、神居村なんだ。……そして、やがてこの世から旅立つ時が来た。最後に、ひっそりと、人の子らの目につかない場所で一度だけ舞を舞って、去っていった。それが……」
「ここ、なのか」
そう説明されれば――――この神楽殿が辺鄙な場所にある理由も理解できる。
木立ちの中でこの周りが整備されてなく、繋がる道さえ普段は備えていない事にも。
ひっそりと佇む理由は――――ここが正真正銘の、神が最後に居た場所だったから。
神が静かに世を去り、別れの舞いを踏んだ場所だからだと。
「……神様達はここにいた。ここで世に、そしてこれからの世を創る人間達にお別れの舞いを静かに終えて去っていった。……そしてここ数十年。この神楽はもう一つの意味を持つようになったんだ」
「もうひとつの意味……?」
「人の世に作り出されて、恐れられて、やがて――――忘れられて恐れられないようになった存在達。ボク達がよく知る姿は口裂け女、てけてけ、人面犬、“学校の怪談”――――――彼らが最後の時を過ごす場所でもあるんだ、ここは」
怜が挙げたそれらの存在は、今となってはもう誰も信じない都市伝説達。
人が作り上げた恐怖と思念が情報となり、形を持ち、跋扈していた時代を過ぎてなお消え切れない、産み出されてしまったモノ達だ。
この村には今もなお珍しくなく、それらがはびこり――――そして、容赦なく、しかし慈悲をもって引導を渡され還される。
ともすればこの村の力づくのソレ自体がひとつの供養なのかもしれないと――――思った事も何度かはある。
「だから、これは――――新しい、彼らへの奉納でもある。神様に世を任されたボク達、人が。また作り出してしまった彼らをせめて神様のもとへと送り出してあげるためのね。……ボクが舞うのに使った鞘も、その象徴。“せめて、納まる場所へ”――――ってね」
怜が立っていた神楽殿を見上げていたその時……ふと、胸へ押しあてられる物があるのに気付く。
「…………ごめんね、前置きぐらいにしようかと思ったけど……話が長くなったし、遅れた。これ……受け取ってくれると嬉しいな」
「……これは?」
怜の手が伸びて――――上着の胸に、毛糸で出来た何かが押しつけられていた。
受け取ると、それは見ずとも触るだけで分かる――――密にして編まれた毛糸が手の形をしているものだと。
「お歳暮……?」
「バカ、そんな訳ないだろ。……メリークリスマス、キョーヤ」
「……思いっきり過ぎてるぞ」
「過ぎてるね。……色々あってさ。完成まであとちょっとが中々さ。でも、まぁいいだろ? 整っているより少し抜けているぐらいの方が、印象に残るものさ」
三日遅れの“クリスマス”を受け取ると――――静かに、静かに、心臓の鼓動が盛り上がるのが分かる。
驚いたように早鐘を打つのではなく、静かにだ。
「……確かに抜けてるよな。ツリーを見に行ったのも早かったし」
「ふふっ……。仕方ないよ、この村だからね。世間とはどうも足並みが合わないんだ。こればっかりはどうもね」
「…………ありがとな、怜。大事にしまっておくから」
「いや、使いなよキョーヤ……」
口を尖らせる怜の前で、貰ったばかりの手袋をはめてみると――――ぴったりと俺の手に合った。
指先までほとんど遊びもなく、みっちりと目を詰めてあるから空気が入り込まず――――手の皮膚がそのまま分厚くなったように、暖かい。
――――もしかして。
「――――なぁ、怜。お前……」
「ん?」
「ずっと眠そうにしてただろ、今まで。もしかして……今日の神楽の準備に加えて……これ……」
「はい、そういうのはナシだよ。野暮な事言わない。だめだよ、キョーヤ。考えてもそういう事は言わない。わかった?」
「ああ、……了解。それとさ」
「ん……え?」
そろっ、と手を伸ばし、わずかに身を震わせた怜を正面から引き寄せる。
ポケットに手を入れ、ずっと入れっぱなしだったそれを――――目を閉じかけている怜の上着のフードへ静かに忍ばせて放り込む。
「っ……? なに、キョーヤ……今、何か入れ……」
「……俺も掴めなかったんだよ、タイミング。……頼むから後で。できるだけ暗い場所で開けてくれ」
掌に収まるサイズの小箱を包装しただけのそれは、怜の忙しさもありずっと渡すタイミングが掴めなかった“クリスマス”。
ポケットに入れっぱなしでいたせいで少し形が崩れてしまっていて、正面から明るい場所で渡すのは少しだけ恥ずかしくて――――そのまま今に至ってしまっていたものだった。
クリスマスツリーを見に入ったあの日に、
「……ぷ、ははっ。締まらないなぁ、お互いさ。ありがと、キョーヤ。まだ中身は分からないけど大切にする。……ずっと、大切にするから」
その日をもう三日も過ぎているし、そして年暮れにはまだ少し日のある、そんな日だった。
ツリーを見に行くのは早すぎたし、こうしてプレゼントを渡し合うには遅すぎた。
それでも――――今日は。
まだクリスマスだという事に、しておきたい。
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