ただ独りを想い、少年の頬に流れる
*****
久しぶりに帰ってきた、爺ちゃんと暮らしていた家の空気は、胸の中にじわりと沁み渡る。
木造建築の放つ匂いにはすっかりと馴染んでしまったけれど、やはり実家のそれは格別だ。
ただ、どこか――――あっさりと薄くなったようにも、感じてしまった。
どことなく重厚で落ち着くような空気は無いのは、その空気を放つ存在感の“主”がいなくなってしまったからだ。
爺ちゃんはいなくなり、住んでいるのは俺の後見人になった
爺ちゃんの葬式を済ませた後、俺が学校にも行かずうだうだして出席日数をタダ捨てしていた時に漂っていた、淀んではいないが動きのない澄み切りすぎて何の味もしないような無味乾燥の空気ではなくなって――――ただ、柔らかくて懐かしい空気だけがずっとある。
でも、どんなに懐かしくても――――やっぱりもう、そこでは会えない顔がある事をイヤでも思い知る。
そして、時間が時間だったという事もあり、浮谷さんへの挨拶もそこそこに、碧さんと、浮谷さんと、咲耶、俺で夕食を囲んだ。
「おかわりしてくださいね、杏矢くん。……きちんと野菜は摂っていますか」
「んっ――――うん。あっちの人達が色々、おすそ分けくれるから……それはもう」
嘘じゃない、というか切実だ。
むしろ動物性たんぱく質の方が欠乏する勢いで、神居村にいる時は図らずとも山の幸づくしの食生活。
昼のジャンクフードの衝撃といい、つくづく、俺もすっかり神居村の住人の味覚になってしまったのだと気付かされる。
久々に食べる、浮谷さん手製の“豚の生姜焼き”にはついつい箸が止まらず、気付けば二杯目のおかわりも半分ほどまで減ってしまっていた。
生姜の辛さに遅れて、深い甘さが時を置いて舌の上に広がる――――このくせになるような味つけを、今は知りたいとさえ思う。
「咲耶さんもご遠慮なさらないで。食後はお湯を準備いたしますので」
「は、はい……ありがとうございます浮谷さん、何から何まで……。あの……この生姜焼き、少し
怜の言葉に、浮谷さんは目を丸くして驚き、しかしすぐにそれは微笑みに化けた。
「ええ……。ほんの少しだけ柚子果汁をひと差し。凄いですね、咲耶さん」
「やっぱり……! それと、お肉を焼く前ですけど――――たぶん、ゴマ油で生姜を炒めて香りを移してますよね。ボクも真似していいですか?」
「良く分かりますねぇ。もちろん構いませんよ」
「ふっ……怜よ、ずいぶんと熱心じゃなぁ。“実家の味”でもそやつに振る舞うてやりとうてか? いじらしいのう。流石よな」
「じっ……!? ちょ、碧さん、違っ……! ボクはただ、知りたいだけで……!」
「照れるな、ああ
さっきまで、米を食わないかわりに日本酒をかぱかぱと飲みながら、肴として生姜焼き、ぶり大根、和え物漬け物をつまんでいた碧さんからの唐突な言葉に怜は顔を真っ赤にして悶え、俺に助け船を求めるような視線を送ったが――――気の毒だが、出せない。
こういう時、碧さんには何を言っても効かない。
涼し気に眼鏡の奥の目を細めて、清水焼きのぐい呑みから酒を啜る姿をあらためて見てみると、碧さんの風体は――――神居村と同じく、今の時代の匂いをまるで感じない。
さすがに今は大正時代のハイカラさんのなりをしていた“よそ行き”の服装ではなく、ゆったりと落ち着くような藍色の薄い着物一枚の姿はまるで引き籠もる書生だ。
生白い肌の肌理細かさは、何度見ても言葉を失うばかり。
それも――――この当然そうに堂に入ってうちに居座る“後見人”は、
神居村の廃校には、爺ちゃんがそこで小学生をしていた頃の写真が飾られている。
そこには、今と同じ姿のままの碧さんが教師として写っていた。
語る所によれば、碧さんは――――幕末明治の頃から今に至るまで、ずっと、この姿のまま生きているのだと。
「それにしても、杏矢くん……お元気そうで良かった。春以来ですね。顔色もだいぶ良い様子で……」
「え……俺、悪かったですか? 顔色……」
いじられ始めた怜を慮ってか、浮谷さんが俺に向かってそう切り出してきて……ふと、悩む。
別に、不調ではなかったけど……そんなに春ごろの俺は、浮谷さんに心配をかけてしまうような顔色をしていただろうか?
「そりゃ、良くはなかったろうよ。爺殿が逝きよってから塞ぎ込んで不良めいておったろう。のう、
そこへ更に、碧さんが混ぜっ返す。
思えば初めて会った日も、どうしても学校に行く気が起こせず部屋でぐだぐだとふてくされるように時間を浪費してゴロゴロしていた俺を喝破し“不良”と扱ったのも覚えていた。
そんなような事を、いつ仲良くなったのか……浮谷さんの下の名前を軽く呼び捨ててしまいながら、けらけらと碧さんは笑う。
「碧さん。……そんな、言い方……」
「いや……いいんだ、怜。それに、別に塞ぎ込んでた訳じゃない。浮谷さんにも心配かけたけど……あれ、凹んでた訳じゃないんだよ」
さすがに笑いながら言う話題ではない、と咎めようとした怜を先に制して、あの時の自分を思い起こして答えた。
確かに、爺ちゃんがいなくなってから放心する節はあったし、胸にぽっかりと穴が空いてしまい、それをどう埋めたものかまるで分からないというのもあった。
学校に行かねばまずいのは分かっていたのに、どうしても行く気が起きなかった。
恐らくはそこで無理に奮い立って登校しても、まるで得るものなど何もなく、頭に何か入ってくる事も無いまま日を過ごしただろう。
自分の“この先の時間”が、どうしてもイメージできなかった。
爺ちゃんと進学や進路の話をした覚えは、ない。
まだ高一の時分というのもあってか、そして爺ちゃんも入院生活が長引いてしまってそもそもそういう込み入った話をするような暇もなかった。
俺がどこにいて、何を選ぶのか。どこへ行って、何をしたいのか。何も、何も――――話をしなかった。
それはまるで、爺ちゃん自身がそれを絶対訊かないようにしていたようにも、今は思う。
最後となった見舞いの日に、爺ちゃんがこぼした一言、まで。
*****
夕食を終え、風呂に入ると怜はすぐに気を失うように就寝してしまった。
朝早くに出て電車を乗り継ぎ、神居村ではまずないような人混みの中を割って歩いて一日を過ごして疲れたのか、眼がしょぼしょぼしていたのを覚えている。
俺の方はといえば、久々に帰ってきた自室が、まるで変わっていない事に気付く。
違いと言えば、神居村へ持っていった荷物だけがすっぽりない事。
ベッドも、机も、本棚に置いたままの、それほど読み返したく感じない程度の“二軍”のマンガと観返す事もないDVD、級友にもらったまま触ってすらいない安物のエレキ。
…………いや、まぁ。弾けたらカッコいいかな、とは思ったんだ。
ただ……“おきまりのルート”を辿ってしまっただけなのだ、と思ってもらいたい。
恥ずかしくて、そして黒歴史とまでは言わずとも愛着があまりにないもので村にも持っていけなかったのが、それだ。
俺の“良くある話”はこれまでとして、眠る前、俺は――――久しぶりに、爺ちゃんに会うために仏間の戸を開けた。
しんと静まった六畳程度の畳敷きの和室に、そっと置かれた座布団と座椅子、床の間と隣り合った黒く重厚な、螺鈿の象嵌が細やかな金色で施された、“爺ちゃん”の今の居場所。
古びた砂壁が取り囲む、掃除の行き届いた小さな部屋だった。
ほんのそれだけしかない、線香と畳と、それから、少しだけ懐かしいようなかすかに甘い匂いが立つ部屋を訊ね、俺は久しぶりに……座布団に座り、仏壇へ顔を向けた。
もう、遺影はそこにない。
あの鋭すぎて怖い目をした爺ちゃんの写真は鴨居に下げられ、いかめしく俺を見下ろしていた。
「ただいま、爺ちゃん。……神居村、行って、きたよ」
震える手で線香を一本だけ取ると――――香炉灰の中にまだ供えられて間もない燃えつきた線香が数本、原形を留めている事に気付く。手をかざしてみれば、まだその熱もほんのりと残る。
俺はその誰かを、特定しようとも考えずにマッチを擦り、ロウソクに一度火をうつしてから――――小さな火をゆらがせる空気すら流れない、時の止められたような仏間で息を吸い込む。
爺ちゃんの命が消えてしまったあの日から数日の間、嗅ぎに嗅いだロウソクの燃える匂いは意外なほど懐かしい。
あの古めかしく時代が二、三周遅れて時が流れている神居村でさえ――――さすがに光源をロウソクに頼ってなどいない。
神居村は、爺ちゃんに取っては……息子夫婦を失い、孫の俺を孤独な境遇へとさせた忌むべき地であり、そして自分の故郷でもあった。
それでも爺ちゃんは最後に病室を見舞ったあの日、ぽつり、と――――あの村への郷愁を口にしてから、逝ってしまった。
爺ちゃんがあの時考えていた事は分かっても……なぜそう至ったのかがどうしても、分からない。
いや、あの時以前に爺ちゃんは村を一度再び訪れ、おそらくは碧さんや村の皆と話し合いの席を持っていた。
俺をもう一度、村の一員とするために。
今となってはそれを爺ちゃんの口から聞く事もできないし、爺ちゃんに訊ねる事も、もうできはしない。
碧さんにあらたまって何かを訊ねるにも正直、今は時間が無い。
というかさっさとあの人は寝てしまっており、今この家で起きてるのは俺一人だけだ。
訊きたい事なら、秋にあの人から聞いてもまだ到底足りない。
先述のように、爺ちゃんと何を話して俺を村へ再び迎え、自らがその後見人となったのか。
俺が村へ行くと伝えたあの日に渡された、あの“不気味な幽霊刀”は何なのか。
尽きせぬまま、当たり前のように神居村の洗礼を受けに受け続けてしまい――――正直なところ、色々と押し切られて異常な日々に納得してしまっている部分があまりに多いのだ。
――――“そういうものなのか”と。
「爺ちゃん……。あの遺言状はねぇよな。全然俺の知りたい事書いてなかった。せめて俺に向かって何か手紙ぐらい書けよ。あんな小難しい言葉ぎっしり並べて……あんた、素っ気ねぇぞ」
碧さんに見せられた遺言状には、俺に向けた言葉は何もなかった。
別口の手紙もなく、託されたのはただ――――今もポケットに入っている、“柄”だけ。
剣にそうするように握れば、暗闇の中でかろうじて浅葱色に透ける刀身が現れる不可思議な遺品。
俺の曽祖父――――爺ちゃんの父さんが軍刀として刀身を仕立てて出征したが帰らず、用無しになった家宝の柄に刀身だけが幽霊として帰ってきた、と碧さんは言った。
そして、それは――――碧さんがずっと預かっていたと。
爺ちゃんに言いたい事が、今さら……多すぎる。
なのにもう爺ちゃん、
しゃくり上げる事はないのに、目の下を頬から顎先まで、冷たく伝う雫に気付く。
もっと――――爺ちゃんと、話したかった。
男と男、人と人、膝を突き合わせて、話したかった事があると――――今さら気付いてしまった。
俺は村へ再び行って、怜を取り戻した。
咲耶怜と、神奈柳と、八塩沢子と、再びやり直せる時間をもう一度取り戻した。
なぁ、爺ちゃん。
もし、生きてたら――――さすがに、笑いかけてくれるかな。
俺に。
“よくやったぞ、杏矢――――”と、褒めてくれるのかな?
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