帰郷


「やっぱり……七支杏矢? 久しぶりね」

「ああ、久しぶり。……お前、どうしてここに……?」


 眼鏡越しの眼の鋭さも、すとんと落ちるような真っ直ぐの髪も、二年ぶりに会っても変わらない。

 俺が神居村へ引っ越す前に関わりを持っていた――――数少ないツレの一人だった。

 中学卒業後、彼女は少し離れた高校へ進学した。

 確かその時、どうしてわざわざそんな遠い学校を選んだのか訊いた覚えはあったけど――――たぶん、答えてはくれなかった。

 いや、そもそも天峯あまねは……俺が前の高校から更に転校して、神居村へ引っ越した事を知っているのだろうか?


「電話」

「え……?」

「電話よ、そう、電話なの。七支……何度か掛けたのに、使われてないときた。どういう事なの? 死んだかとも思ったわ」

「あ、あぁ……悪い、ごめん。でも、それはそれで事情があってさ……」

「……そ。事情があるなら仕方ないわ、この話は終わりにする」


 爺ちゃんともまた違う有無を言わさない、冷たい迫力で詰め寄られたかと思えば――――とたんに態度が一転して、さらりと話題が終わってしまった。

 切り替えが早い、なんてものじゃないが……そう、こいつは昔からこういう奴だった。

 歳の割にませている……というか、違う方向にませている奴だな、と何度も思った覚えがある。

 いちいち他人の事情や境遇に踏み入ったりせず、誰の事も否定も肯定もしない――――良く言えばおおらか、悪く言えば他人にあまり興味のないタイプだ。

 他人に口を挟まない代わりに自分にも口を挟ませず、“私は好きにするからお前も好きにしろ”を地で行く――――そんな、すっぱりと割り切って気持ちよく生きているような女だった。


「で、天峯はここで何してんだよ」

「そうね。教師の胸倉を掴んだあげく、素行不良で退学になってしまってからこうして糊口をしのいでいる――――と言ったら?」

「なら、売り上げに貢献してやってもいいな。……バイトか? しょうもない事言って」


 どうにも天邪鬼あまのじゃくな物言いで冗談を吐き捨てる様は、どこか――――村で知り合ったあの男と少しだけ似ていた。


「七支、そういえば……転校したと聞いたわ。お爺様が亡くなられたとか……」

「ああ、今年の春。……それとな、電話の件もそれに関係がある。どこから話せばいいか分かんないんだけど……引っ越し先な。圏外で携帯なんてまるで使えないんだ、それで……」

「……は?」


 眼鏡の奥の眼が呆れたように細まり、口もとは機嫌を損ねたように歪んだ。

 確かに、我ながらまるで苦しい言い訳のように聞こえてくるが事実だ。

 あの村は携帯電話など使用不可、Wi-fiなんて夢のまた夢だ。

 留守電もついていない黒電話とピンクの公衆電話でやりとりし、オート三輪が走っていて校舎は木造なんていくらなんでも信じがたいだろう。

 いや、それどころか……バカにしている、と思われかねないほどだ。


「七支。あのね……先にかました・・・・のは確かに私だけど、その冗談で済ませようというのは感心できないわ」

「いや、冗談じゃなくて」

「…………そう。あくまで私をおちょくるつもりなのね?」

「ちょ……」

「――――キョーヤ? どうかした? その人は……?」


 ぎらり、と天峯の眼がいよいよ迫力を宿したあたりで――――出てきた怜が声をかけてきてくれた。

 その仲裁に天峯も矛を収めて横を向き、興味深そうに――――その御守りだらけのスクールバッグと、怜の顔とを交互にしげしげと見つめた。

 その鋭く品定めするような視線に怜は物怖じする事なく、あっけらかんとした様子で天峯の言葉を待つようにする。

 流石に、神居村でさんざん色んなものと対峙しているせいか怜もまた腹が据わっているとしか言えず……しかしこの状況は、俺の胃に優しくない。

 口の中にイガイガとした苦みが感じられ始めて、何か言おうか必死で考える中……口火を切ったのは。


「初めまして。私は、羽切。羽切天峯はきりあまね。……七支とは久しぶりだったからつい。よろしくね?」

「あ、はい。ボクは……咲耶怜さくやりょうです。こちらこそ……よろしくお願いします、羽切さん」

「天峯、でいいわ。咲耶――――いい名前ね。七支と同級生なの?」

「う、うん。羽……天峯さんは? 同じ学校だったのかな?」

「中学までは一緒よ。口を聞いたのは一年半ぶりだったけれど……お邪魔するつもりはなかったのよ、許してくれるかしら」


 ふ、と走りかけた緊張は失せて、挨拶を交わしたおかげで場の空気は薄らいだ。

 更に二言三言交わすうちにやがて怜の顔も綻び、天峯もわずかに表情を柔らかくさせて数秒の間無視されていた俺に向けて口を開く。


「せっかくだし……この子預かっていいわよね? 七支」

「え……どうしたの、天峯さん」

「何か見立ててあげるわ、どうせ暇だし。……心配いらないわ。この男の奢りだから安心して」

「おい、何勝手に……」

「そ、そうだよ……悪いって、キョーヤ……」

「……クリスマスに浮かれるこういう時には、おねだりをしてもいい事になってるのよ、咲耶。日本書記・・・・にもそう書かれている一節があるの。知らない? それに、さっき七支が言った事じゃない。売り上げに貢献してくれるのでしょう?」

「いや、ちょっと……おい」

「吐いたツバは飲めないのよ、七支。観念して財布のヒモを緩めなさい」


 果たして日本書記に、二千年前のあの男の生誕祭を祝う習慣が書かれているのかどうか――――そんなものを考えるまでもないのは分かっている。

 俺と天峯の間を交互に怜の視線がおろおろと行き来しているのが分かり、何だか妙にツボに入ったような静かな笑いがこみ上げてくるようだ。

 何というか、天峯とこんなやり取りをするのも久しぶりで……怜がどうしていいか分からず狼狽する様子も、“喧嘩ドッキリ”を仕掛けているみたいで少しだけ面白い。


「……本当に……相変わらずなんだな、天峯」



*****


 俺が神居村を離れてこちらへ引っ越してきた時、たぶん……大人以外で最初に口を聞いたのが天峯だった。

 小学一年~二年までの記憶はまだ判然としないものがあるが、三年生以降からはわりかしハッキリと思い出せる。

 クラスに一人はいるような、あたりの強くて刺々しい、冷めた正論ばかりの嫌な女子――――と言えば、伝わるだろうか。

 教室にいても本を読んでいる事が多く、図書室にいるか司書を務めている先生と話しているか、そのどちらかを目にする事が多かったのを覚えている。


 精神年齢が高すぎて、周りの子に溶け込めない。

 男子の場合、そういう子は本能からか道化を演じていく傾向にあるが……女子は基本、そうならない。

 大人びた子は、“いちいちお高くとまっている”と敬遠される傾向にあって、いじめとはいかないまでも無視の対象にはなる。

 事実、天峯は教師や大人たちからの受けはよくても子供達からは扱いづらいとされていた。


 そんな天峯だったのに、何故か――――気付けば、俺と話す事が多くなっていた。

 先述したように、記憶はあまり定かじゃない部分が多い。

 ただ、こちらに来てからの事を古く思い出すと……この、好き勝手に生きるような眼鏡の女の、にこりともしない顔があった。

 口うるさくはない代わりに、とことん冷めて棘のある――――誰も話したがらないようなこいつといると、落ち着くというより……“普通”の、気分だった。

 他人を掘り下げない代わり、自分の事も話さない。

 何も訊きほじる事のないこいつの冷たさが、恐らく俺には心地良かったのだ。


 距離を詰める暖かみではなく、距離を保つ冷淡さに救われる事もある。

 当時の俺は――――きっと、そう子供心に感じていたんだ。



*****


 願いを果たしたモールからの帰り路、怜の口数は少ない。

 つい先ほど、クリスマスツリーの点灯を見た時には言葉もなく見惚れていたのに加え、落ち着いてからは良く分からない褒め言葉を“まるで飴玉の洪水だ”とか何だとか並べ立てていたのに。

 天峯と話し込んでしまったのが、少し疎外感を感じさせてしまったのか――――と思う。

 しかし、その事で今謝ってしまうのも……たとえその推測が当たりでもはずれでもデリカシーに欠けるような気もして踏み出せない。

 どうにも口火を切る事ができないままバスに乗り込み、歩き、また歩き――――とりあえず一晩を明かすため、短い時間ながらの帰省の道を辿る。

 やがて、見覚えのある狭く細い、見通しの悪い路地が懐かしく俺を誘ってくる。

 神居村の道と違ってぎっちりと詰め込むように建物が並び、爺ちゃんと暮らしていた生家に近づくと少しだけ息の詰まるような思いは解消されるものの――――それでもあの田園風景には及ぶべくない。

 爺ちゃんを最後に見舞った時のあの言葉の意味が、今となって分かる。

 “もう一度だけ、吸いたい”と。“ここではない”と――――煙草も吸わない爺ちゃんがこぼしたあの言葉の意味はもう分かる。

 そう、か。

 今、俺は今から……久しぶりに、爺ちゃんに会うのか。


「――――って。キョーヤ……ねぇ、ごめん……ちょっと……」

「ん、えっ……? 何……」

「ごめん……何か、怒ってた……? 話さなくなってたから……」

「い、いや。……懐かしくて、浸ってただけ。久しぶりに帰るから……。ごめんな」


 星と月の明かりを頼るような村に比べればまだ明るいとはいえ、怜の顔はよく見えない。


「ごめん、ボク……当たり前の事なんだけど、忘れてた。神居村にまた来る前のキミにも、そう、思い出があったんだよね」

「思い出……?」

「うん。……天峯さんと、ちょっとだけお話をしたんだ。っても、あまりこっちでいたキョーヤの事は教えてくれなかったけど……キミが、元気にしているかって訊かれたよ」


 思い出、というほど天峯とつるんで何かをした覚えはそうない。

 高校進学後は話す事もなく、なんとなく携帯のメモリーだけは残しておいたが連絡を取り合う事もなかった。

 そうだ、聞き忘れた――――天峯は、電話をかけたが繋がらなかった、と言っていた。

 今さら俺に、何の用があったんだろう――――?


「……あいつさ、県外の高校に行くって言ったんだよ」

「え――――天峯さんのこと?」

「ああ。俺はまぁ、どこでもよかったから一番近くて手ごろな高校を選んだんだけどさ……あいつは県外の高校を受験した。正直言って、あの店で会う事すら完全に予想外だった」

「それは……どうして、なのかな? 進学校を選んだとか……?」

「そういう訳でもない。進学有利な場所を選ぶならもう少し上を行けたはずなのに、あの通りの性格でさっさと決めてた。立ち入った事を教えてくれるようなヤツでもなかったからさ……卒業以来、初めて会った」


 何も伝えてくれないまま離れた高校を選んで行き、特にそれから連絡を取り合う事もなかったのに、いざ再会したとなれば立て板に水の勢いで応酬を交わす。

 そう、思えば別に喧嘩別れをしたわけでもないのになぜか天峯とはずっと連絡を絶っていた事になる。


 考えれば、考えるほど不思議だ。

 だけど、いきなり遠くへ行った――――という点なら俺もそう変わりないんだし、そこを突っ込まれるとあまり強くは出られないか。


「あっ……キョーヤ。もしかして……」

「ん、ああ。そう、ここだ。ここが……俺が爺ちゃんと住んでた家だ。寒いだろ、入ろう」


 門構えに“七支”と彫り込まれた表札が掲げられた、あたりの家と比べても広い和風家屋。

 俺と爺ちゃん、二人で暮らすにはあまりに広すぎた、懐かしの我が家だ。

 門を抜けて玄関まで続く石畳の擦り減り具合も間隔も何もかもが、あの――――家を出た日のまま、変わっていない。

 すっかりと日が暮れた中を歩いてきた俺と怜を、玄関先に取りつけた橙色灯が照らす。

 懐かしいな。昔は白色灯だったけど、夜に虫が寄ってくるのがイヤで爺ちゃんにこぼしたら“男が虫を怖がるとは何事か”と怒られたが……浮谷さんも援護してくれたから、以来あそこには橙色の電球を点けるようになった。

 刈り込まれた植木も、ここから見える中庭の松の木も、変わっていない。


 からっ、と玄関の横開きの戸を開けて入るとまた懐かしく掃除の行き届いた土間があって――――でもやっぱり、そこに爺ちゃんの履物はひとつもない。

 やがて人の気配を察したか、浮谷さんが奥から顔を出してくれた。

 あの笑い皺が刻まれた、顔も――――何も、変わらないようでまたひとつ安心できた。


「……ただいま、浮谷さん」


 正月に先駆け、今回は一晩だけの滞在になる。

 それでも――――この言葉は、いい。


 この言葉はやっぱり……いい、言葉なんだ。





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