ある雪の朝、少年は見た


*****


 薄く雪の積もり始めた“初冬”は、俺の知っている時期より少し早い。

 この村は春まで俺のいた都心部と違って分かりやすく“冬”が来て、それを示す雪もみっちりと積もる。

 流石にまだ十二月のアタマだから脅かされたほど酷く積もりはしないものの、夜には連日零下れいかを記録しては草木に霜を下ろさせ、少しずつ、少しずつ雪が層を作ってもう地面は見えない。

 歩きづらさは日々増して、えずくような寒さは段々と深まりつつあって……この数日、暖房を何も効かせていない家で朝起きる事がどうも拷問のように感じるほどだ。


 窓の外にぼたぼたと大粒の雪が落ちていっては消える。

 更には窓枠そのものにも雪が積もり、風の具合によっては窓に貼り付いて隠してしまうほどの勢いだ。

 朝六時に今日も目が覚め、テレビをつければこの村ほどではなくとも寒そうな、日本中あちこちの街の情景がかけ流しのように映し出された。

 底冷えするような、体の芯から熱を抜き取られるような寒さに震えながらではとても耐えられそうにない。

 とっくにスイッチを入れた古い石油ストーブはまだ冷たく、吸気するような音だけがずっと、ひぃぃぃぃん……っと鳴り続けたままだ。


(もったいぶってないで……さっさとつけよ、火!! 叩ッ壊してやろうか、くそっ!)


 ぺそぺそ・・・・にこなれて潰れた綿入れ半纏を掻き抱き、座椅子に小さくまとまるように胡坐をかきながらの八つ当たりの心の声にも、ストーブは耳を貸さない。

 そればかりか、昨日と同じく。一昨日とも同じく。先週とも同じく――――ひゅいぃぃぃぃっ、と点火準備の吸気をじっくり、のびのびと行っていた。

 もうとっくに制服に着替えて、インナーの長袖、ワイシャツ、セーター、スラックス、靴下……とフル装備なのに。

 その上から綿入れ半纏をまとい、出る前に巻くはずだったマフラーをきつく首に巻いたままストーブの機嫌をうかがうのは――――正直に言って、そろそろ腹が立ってきたほどだった。


 思えば、“向こう”で暮らしていた時も爺ちゃんの家は広くて古い木造で、この家とそう変わらない造りと築年数だったと思う。

 それなのに、向こうでは気温の差もきっとあるだろうが、“寒い”と思った事はあまりなかったような気がする。

 起きれば爺ちゃんかお手伝いの浮谷さんか、誰かがいたし――――誰かが部屋を暖めてくれていたからだ。

 しかし、ここで一人暮らすようになってからは違う。

 古めかしい灯油ストーブにはタイマーなんていう気の利いたものは備えられてないから、朝目が覚めると、歩いているだけで皮膚が裂けそうな、文字通り身を切る寒さの中で起きて火を入れて――――火がついて充分に暖かくなるまでじっと待つしかない。

 こんなに寒いのにまだ年すら越していないというのが何とも驚きだが――――以前、柳が言っていたように。

 盆地にあるこの村なら仕方のない事だ。

 浮谷さんに頼んで、向こうの家に置きっぱなしだった冬物の衣類を送ってもらったのは一週間ほど前の事になる。

 おかげで着るものには困らず、更には気を利かせてくれて早めのクリスマスプレゼント代わりに電気毛布まで送ってくれたのが何より嬉しい。

 しかし、家の中で寒さを凌ぐ事はできるがそれでもこの朝の厳しさだけはどうにもならない。

 布団からは出なければならず、身を切る寒さの中で着替えなければならず、ストーブは不便で家は古く、隙間風こそないもののかなり冷え込む。

 そして家を空ける以上は当然火の元は消して出ねばならないから帰ってくる時にはまた家は冷え切り――――また、ストーブがつくまで寒さに震えながら茶をすする事になるのだ。


「……家に誰もいないって、こういう事だよなぁ」


 思わず、ぽつっ、と独り言にしては大きくつぶやいてしまった。

 慌てて見回す事もなく――――ただ、まだ点く様子のないストーブと、気を紛らすべくつけたテレビの画面を交互に見て。


 爺ちゃんがいて、お手伝いの浮谷さんがいて、起きる時も、寝る前も、家に帰ってきてからも寒くなかったあの家の日々が少しだけ恋しくなった。

 ホームシック、というのとも違うというか――――ともかく、今は心が少し寒くて、身はもっと寒い。

 服の中にようやく籠もった体温でじわじわと暖まってはきても――――まだ、動くには少し勇気がいる。

 外を見ればまだ雪は降っていないが、曇り空からは日も差さず、いつ降りだしてもおかしくない。


 ――――その、時。

 じりっ、と玄関の呼び鈴が鳴り出した。


「御免ください。キョーヤ……起きてる?」


 からからと控えめに音を立てて戸が開く音が聴こえて、涼やかに伸びる声でも、寒さのせいかイマイチ回り切っていない呂律で呼びかけられた。

 ざしっ、と土間を踏む音が続いて、そこで声の主は一度立ち止まったようだった。

 ――――とくんっ、と心臓が一度だけ、強く打った。

 この寒く冷たい朝の家に、ようやく……暖かい血を送り出す脈拍だ。

 立ち上がり、時計を見てもまだ家を出る時間ではない。

 この声の主が、わざわざ迎えに来てくれるような時間ではまだなかったけど、どうでもいい。

 靴下越しに感じる木造の床の冷たさに耐えながら歩いて行くと――――白いダウンジャケット姿の来客が所在なさげに靴も脱がずに立ったままの姿が見えた。

 朝の冷たい空気の中を歩いてきてくれたからか、白い頬は赤く林檎みたいに染まっていて、まだ冷えたままの玄関でもまだ外よりは暖かいからか――――その眼も、ほんの少しだけ潤んでこちらを見ている。

 そして寒さで凝り固まったような表情筋はやがてほぐれて、くすっ、と――――“あの春の小川”で再び会った時のように、笑いかけてきた。


「おはよう、キョーヤ。どうしたのさ、そんな厚着して……まさか、半纏姿のまま登校する気だったのかい?」

「うるさい。まだエンジンがかかってないんだよ……。どうしたんだよ、こんな朝早くに。まだ余裕あるだろ」

「ははっ、結果的にはそうだね。いやさ、朝方にまた降って道が悪いから……少し早めに行きたいなと思ったんだ。でも……予想より早く辿りついちゃったな」

「……上がっていくか?」

「うん、お招きされようかな? ……お邪魔します」


 俺しかいないのにそう言うと、来客……咲耶さくやりょうは靴を脱ぎ、土間の端にちょこんと揃えてから上がると居間へ向かう。

 一度上がり込んでしまえば勝手知ったるように廊下を歩いていく彼女の姿はすっかりと“冬モード”に入り、ファー付きのダウンジャケットの裾からスカートの端がかすかに覗かせ、更にその中からは、秋までに使っていたものよりも少し分厚い黒タイツが脚を包む。

 夏、秋を経て少し伸びた黒髪は首を巻くマフラーに持ち上げられてこんもりと膨らみ、浮いていた。

 相変わらずスクールバッグにつけた、少なく見ても二十個はある御守りの束はふさふさと揺れていて――――ひとつかふたつ落ちても気付かないような気がしてならない。


「……なに? キョーヤ。どうかしたのかい?」


 さすがに視線に気付いたか、音もなく半ばほど振り返ってこちらを見た。

 こんな寒い早朝なのに、ぱっちりと開いている眼は若干、困っているように揺れ動いた。

 ただ――――いつもの澄んだ顔色に比べると、ほんの少しだけ、よどみがうかがえた。

 隈ができているわけでもないが、表情筋の動きがどこか、ぎこちない。


「いや……。ストーブなら生憎あいにくまだついてない。さっきから全然働く様子がねぇ」

「そうなんだ? ……って、ついてるじゃん」

「え……?」


 怜について居間へ入ると、さっきまで全然点く様子のなかったストーブがようやくというべきか、何というべきか――――ごうごうとその中に火を閉じ込め、格子こうし越しに熱を振り撒いて居間の中を暖めていた。

 まるで――――先ほどまでの不機嫌さをどこかへ押しやり、“私は真面目に働いていますよ”とでも言いたげな憎たらしさとともに格好をつけていやがった。


 居間に入った怜がカバンを下ろしてストーブの前に陣取り身体を暖め始めると、その顔は気持ちよさそうに蕩けていった。

 このストーブの持ち主を差し置いて折り目正しく、しかしがっちりと根張ねばるように体育座りで手をあぶるように熱を受け止めて擦り合わせる姿はまるで――――焚き火にあたるような姿だ。


「……何か飲むか?」

「うん、ありがと。キミに任せるよ。……はぁ……生き返るね」


 ストーブの火を拝むように手を擦り合わせる怜に、ひとまず牛乳でも暖めてやろうかと思い……半纏を脱いで俺はひとまず台所へ向かった。

 廊下、台所にまではストーブの熱は届いていないがそれでも熱源があるだけ少しはマシになった。

 惜しむらくは、せっかく火がついたのにもう少しもすれば家を出なければならない事だし、火を消して出掛け、帰ってくる頃にはまた寒い事。

 考えてもみれば、あまりその恩恵に与れていないような気もするけれど――――それを言ったらおしまいになる気がして、ひとまず思考を取りやめて、冷蔵庫から出した牛乳をカップに移して暖め、砂糖をほんの少しだけ混ぜた。

 暖められてうすく膜の張ったホットミルクを見ていると、台所の窓の向こうに見える“冷たい白”との対比のようだ。


 怜から以前聞いた話では、この村は積雪の量が半端じゃないという。

 そればかりでなく、積雪の時期そのものが早くて融けづらく、初雪がそのまま春まで積もるのも驚くような事じゃないという。

 驚くような事じゃないらしいが――――よくよく考えると、おかしいじゃないか。

 まだ十二月の中旬にもなっちゃいない。それなのにこんなもっさりと雪が積もって融けない、なんて。

せめて北海道なら分かるが――――海を渡ってもいないんだ。

 この隠れ里、神居村にほど近い自治体でもここまで積もってる場所なんて他に類を見ないだろう。


 だけども、この村でそんな事を気にするのは……正直言って、バカバカしい事だとも思う。

 口裂け女が出て、人面犬が出て、廃校舎のピアノは鳴り出し人体模型は校庭をダッシュする。

 先週だってやなぎと一緒に“ひきこさん”を始末してたってのに、今さら積雪量の事を考えるのも……重ねて言うが、あまりにバカバカしくて笑いそうだ。


「…………雪女、とかどこかにいるのかね」


 都市伝説の怪人怪物、怪異がいるのなら――――古式ゆかしい妖怪がいたっておかしくない。

 神居村の発祥、その伝承を知ればそんな気もますます大きくなる。

 この神居村を拓いたのはヒトではなく――――古く遡り、大和朝廷の頃にまで至るとか。

 朝廷が力を強めるに従ってヒトならざる異類、創造の神々、まつろわぬ民は追いやられて行き場を失い、いつしかこの地で身を寄せ合い、慎ましく生きてやがてヒトと混ざる内、その容姿はヒトと変わらなくなったとか。


 そんな眉唾の――――しかし説得力を持ってしまう伝承を思い出しながら、暖かく湯気を立てるホットミルクを片手に廊下を戻り、居間へ入る。

 そこで火にあたりながら待つ怜へ呼びかけようとして、俺は出しかけた声を喉へ引き戻し、飲み込む。


というのも――――。


「……ん……っ。すー……すー……」


 さっきまでストーブにかじりついていた怜が、そのままぱたりと身を倒すようにして――――静かに寝息を立てていたのだ。

 よく見れば無意識に引き寄せたのか、丸めて顔を埋めて枕にしていたのは俺のさっきまで着てた、潰れ饅頭まんじゅうのようなくたびれた綿入れ半纏だ。

 黒タイツの脚線を伸び切らせて、警戒心を忘れ切った猫のような、“うたた寝”と呼ぶにはあまりにも堂に入った寝姿を晒して――――怜は、寝ていた。


 よく見ると白い手はあかぎれ・・・・、荒れかけていた。

 いつも実家――――神居神宮の境内の掃除と朝食の支度、弁当まで作って出てくる彼女の生活を思い起こしても、目立つ。

 そしてあの“秋”の嵐の夜には恥ずかしくて見られなかった、力を抜いて緩んだ寝顔にも。いや――――脱力した寝顔だからこそ、色濃い疲れが見て取れた。

 少しだけ寄った眉間のしわと、指一本分程度に空いてゆるんだ口もとから。

 暖まって血色のいい唇の隙間から見える白い真珠のような前歯は、定規で測って揃えたように並びが良いのが分かる。

 上着を羽織ったままの細い――――ダウンのジャケットを着ていてもまだ細い体が寝息とともにかすかに動いては、ストーブの熱との距離を無意識に調整しながらもぞもぞと蠢く。


 行き場のなくなったホットミルクにまた張り始めた膜に目を落とし、次に壁掛けの時計へ目をやって、とりあえずまだ差し迫る時間でない事を確認した。

 まるで冬場、いちばんいい席を取って眠る猫みたいな怜を起こさないようゆっくりと座椅子へ戻る。


 家を出る時間までは冬道の悪さを考慮しても、まだ三十分近くはある。

 とりあえず、怜が起きたらもう一度入れ直してやるとしてミルクをひと口すすってみるとほんのり甘さが感じられ、もう半纏を着ていない体が芯からぽかぽかと暖まってくるのを感じた。

 ようやく仕事についたストーブから吐き出される熱のほとんどを怜に横取りされているのに、それでも――――暖かかった。


「……んん…………」


 ミルクをすする音が耳に障ったのか、怜の寝息に震えた喉のさえずりが混じる。

 起こしてしまうかも、と――――ちらり、とストーブのそばで寝転がる彼女の方を見て、気付く。

 おい、ここからだと――――!


「ん、ぶふっ……! んは、か、っ……ぶへっ……!」


 直視してしまいそうになり、思わず目を逸らして頭をゆらした拍子にミルクが変なところに入り――――必死に小さくせき込んで滴を気道の外へ追い出す。

 怜を起こさないように。

 そして自分もこの苦しさから助かるように。


 ここからだとストーブは右手の奥、怜は頭をストーブと平行に向こうへ向けて、こちらへは脚側を向けて寝ている。つまり――――見える・・・

 見えそうになった・・・・・・・・


 いや、正直に白状すると――――見て、しまった。

 ダウンジャケットの裾から見えるひとひらのスカート生地が、畳との摩擦でずり上がって――――黒く厚いタイツの中に、白く浮き上がっていた“そこ”を見てしまい、心臓がばくんっ、と跳ね上がり、カッと俺の顔に向けて熱い血液をぶちまけるように送り込むのまで感じてしまった。


 ――――見てしまった。

 ――――無防備に寝ている怜のを――――。


 ひとまず怜には心の中で必死に謝りながら、俺は――――もうすっかり味がしなくなってしまったホットミルクを、一瞬で暑くなった体へ必死へ流し込みながら、朝の数十分を引き寄せられる視線を制して瞑目し、生々しく刺すような深い罪悪感とともに待つ事にした。





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