第12話
一応の満足を得た二人は、凍てついた足を重く引きずりながら建物へと戻った。靴を脱ぐ力もなく、ふらふらと居間に上がりこむと、ルンペンストーブの前に崩れるようにしてしゃがみ込んだ。
全身の関節という関節が軋み、筋肉が腫れあがっていた。ストーブからの熱気が彼らの弱った肺を刺激した。二人仲良く身体を丸めて咳こんでいるところに、老婆がどんぶりを持ってきた。
中身は体毛のような根が生えたあの芋の煮物汁だった。前と違い、ベロベロとした黄色い脂肉が混じっていた。すっぱい味つけがされたそれを、二人は夢中でかき込んだ。汁の表面に膜を張る黄色い油分に甘味を感じ、疲れ切った身体に心地よかった。芋汁を食べる頃合いをみて、老婆は酒が入った茶碗を持ってきて二人の前に置いた。
恭子も田川も一気に呑み干した。普段、恭子は酒を呑むことはなかったが、この時ばかりは、酔うことで疲れと恐怖を癒したかったのだ。
「おばあさん、お願い、もう一杯ちょうだい」
「一杯だけだあ。もっとほしけりゃ、幹部にでもなれや」
茶碗にたった一杯の酒では、酔うどころか喉の渇きを癒すこともできない。しかし老婆は、それ以上酒を注ぐことはなかった。
弱まっていた雪が再び強くなった。吹雪になるたびに、二人は雪をかきに外に出ていかなくてはならなかった。建物を出ていくその姿にはまるで生気がなく、泥でつくられた人形が、呪いの命じるまま前進する様に似ていた。
雪をかきながらも、何度も田川のケイタイで連絡を試みるが、そうすると必ず風雪が強まり、その度に電波が途切れるのだ。
恭子は幸恵のことを気にしていた。もう死んだものと諦めているが、ひょっとしたらという思いもあった。時々、露天風呂の方向に向かって大声で叫ぶが、向こうからは風の唸り声が返ってくるだけだった。スコップを振り回し荒い息づかいをしていると、幸恵の匂いが感じられたような気がした。
「ユキ」と叫んで振り返るが、あの愛くるしい瞳を見つけることはなかった。
「いまさら呼んでも遅いべや。なして、さっさと助けなかったんか」
わずかばかりの休憩をとりに帰ってきた恭子の心中を見透かすように、老婆は意地悪く言う。
冬山を覆い尽くしていた分厚い雲の勢いが急速に失われていた。空全体がほのかに明るくなり、陽光の予感が漂いはじめた。猛然と振るい落とされていた雪粒も、すっかりと小さく弱々しくなった。竹串で穴を開けたような雲から、幾筋もの陽の光が差し込んできた。冷気が過ぎ去り、くすぐったいほどの心地よい暖かさが、冷えきった大地をなめた。
汗と疲労にまみれていた二人は、その変化に気づき空を見上げた。暖かな陽光に目を射抜かれて、その優しい眩しさにひと時の安堵を味わった。スコップをおいて、あらためて周囲を見回した。
徹底した作業だった。宿の周囲の、掃き清められた九尺の幅に満足し、老婆が座す居間へと戻った。そして二人とも壁に背をもたれ掛けて、しばらくは動かなかった。
恭子は掛け時計を見た。長短二つの針は、あとほんの少しで重なり合おうとしていた。まもなく正午が訪れるだろう。恭子は目を閉じて大きく息を吸いこんだ。そして生温かな息を吐こうとした時だ。
「ぬくすぎるな」
不意に老婆が呟いた。恭子は閉じていた目を開けた。
建物がかすかに軋んだような気がした。地震の前の、わずかな初期微動を感じるのに似ていた。
そばにいた田川も、何かの予兆を察知して壁から背を離した。天井や壁を見渡し、そして恭子と目があった。その刹那、轟音とともに地響きが鳴った。足首を砕くような強烈な振動が数秒間持続した。老婆が天井を見上げて、「全部落ちたな」と言った。
恭子は何が起こったのかを理解した。積もりに積もった屋根の雪が、急に訪れた暖気に融かされて、いっぺんに滑り落ちたのだ。
彼女は振り返った。まるで宿の壁を透視して向こうの景色を見ているかのように、いままで自分が寄りかかっていた壁を見た。その振動の長さと地響きの巨大さから、屋根から落ちた雪は相当の量だとわかった。それらは彼女の見つめる先に溜まっている。
静まり返った室内に奇妙な音が侵入してきた。何かを引っ掻くように一定のリズムを刻んでいた。恭子と田川は、それが何を意味しているか熟知していた。スコップで雪を切り裂き、投げ飛ばしている音なのだ。
いまや、建物と雪壁の間に啓かれた九尺の結界はなくなってしまった。大量の落雪が、その神聖な隙間を埋めてしまったのだ。大男はすぐそこまで来ている。{かきを}が、雪の回廊をこしらえながら猛烈に近づいていた。
あの独特の臭いが漂ってきそうだった。恭子と田川は、どうしたらいいのかわからず身動きができないでいた。お互いの顔を見合って、相手の表情から答えを導きだそうと焦っていた。
掛け時計のチャイムが鳴りだした。
はっとして恭子が見上げた。
時計の長針と短針は真上を向いてぴったりと合わさっていた。
建物が揺れた。スコップの尖った先が、キツツキの鋭い嘴のように断続的に壁から出てきた。チャイムは鳴りつづけている。恭子が祈るような気持ちで掛け時計を見た。
{かきを}のスコップが壁を叩き壊して、大きな穴を開けていた。仁王立ちした黒い影が、建物の中に、その穢れた足を一歩踏み出そうとしている。
老婆の顔に笑みが浮かんでいた。チャイムは、いまだ鳴り止まなかった。
おわり
かきを 北見崇史 @dvdloto
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