第11話

「どうすればあいつから逃げられるんだ。だまって殺されるくらいなら、いっそ戦ってやっつけてしまったほうが」

 田川は意気込んでみせるが、実行力はまるで感じられなかった。

 そのカラ元気を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、老婆は首を上下に振っている。小さな皺顔が言おうとしていることを、恭子が仕方なく代弁した。

「だめよ。鉄砲でもあればいいけど、素手じゃかなわない。それに、あいつは人間じゃないかもしれないんだから」

「だからって、なにかしなけりゃ久志や渡部さんみたく・・・」

 二人は黙った。久志や渡部だけではなく、おそらく幸恵も犠牲になっていると予想できたからだ。{かきを}のスコップでズタズタに引き裂かれていなくても、熱い温泉の中で熱死しているだろう。生きている可能性は極めて低いといえた。

 二人には友達を見捨ててしまったという罪悪感があったが、自分たちの命をあの黒い恐怖から遠ざけるのが精いっぱいで、幸恵を救うために対峙する勇気はなかった。もう死んでしまったのだと、自分自身に強く言い聞かせていた。

「春だ、春さくるまでどうにもなんねんだあ」老婆が意味ありげなことを口にした。

「ばあさん、春まで待てっていうのかよ」

「そうだあ。啓蟄がきてな、やっと冬が終いになるんだ。そんだら、{かきを}はまた穴ぐらに戻るしかねえ」

 恭子は、啓蟄という言葉を聞いてはっとした。その日を過ぎるまでは山に入るなと、遠い記憶の中で、誰かが警告していたような気がした。何かがひらめき、立ちはだかっていた分厚い壁にひびが入った。わずかばかりの希望が彼女の生気に火をつけた。

「どうして啓蟄なの。その日になにがあったの」

 その問いを待ちわびていたかのように、老婆は嬉々として話を続けた。

「どうやっても、あのやろうはタコどもをぼい回せなくなったんだあ。したらな、幹部がな、タコどもに情けかける化けもんなんか用はねえ、タコのかたもって、かえって稼業の邪魔になって、使いもんにならねえって。したけど下手に手だしゃあ、あの馬鹿力だ、逆に殺られてしまうべや」

「それで、どうなったの」

「こなまずるい棒頭と管理人がな、あのやろうに上手いことほざいて、薬仕込んだ酒ばしこたま呑ませたんだ。女郎部屋の女将もやってきてな、色気みせながら同情して油断さしたのよ。めんこにしたタコ食っちまったことも効いてたんだなあ。あのバカやろうは女将に泣きつきながら、ヤマタノオロチみてえにがぶがぶ呑みやがった」

 老婆は、その場に立ちあがって酒を呑む仕草をした。華奢な身体が大酒呑みの真似をして大仰に揺れた。ルンペンストーブで暖められたのか、薄ら笑いを浮かべた顔は、酒を呑んだようにほんのりと赤くほてっていた。

「してな、ぐうすかぐうすか寝ているやろうに、よってたかって鎖ばかけて床に縛りつけたのよ。それを床板ごと鋸でひいてな、そんでもって、しばれ雪がのっつり降る外さもっていってよう、九尺幅の穴さほってな、杭で地面さ打ち据えたんだ。あのバカは、まな板の鯉みてえになって、そのまま雪に埋もれて凍っちまたさ。次の日になったら膝まで雪が積もってたな。みんなで、ああ、死んだなって思ったけど、幹部が念を入れるってな、マイトを仕掛けて吹っ飛ばしたんだあ」

 そう語りながら、老婆は三十センチくらい上に跳んだ。両手両足を大の字にひろげ、爆発の瞬間をあらわした。なぜかうれしそうな様子で、年寄りらしからぬ機敏な動きだった。

「それで、{かきを}はどうなったの。死んだの」

「九尺四方の雪な、きれいにとばされて、なかったさ。近くの小屋さ傾いで、そのへんワヤだあ。したけど、あのやろうは影も形もなかったんだあ」

 老婆は、語りの中に若者たちの窮地を救う解答を含ませていた。恭子が、やっとそのことに気がついた。

「それが啓蟄の日なのね」

 老婆は満足そうに頷いた。

「それで啓蟄はいつなの」

「あしたがそうだあ」

「あしたって、明日の夜中、それとも朝」

 老婆は掛け時計見上げていった。

「お日様が、目いっぱいあがったら、これがチンコンチンコンって小うるさく鳴るんだ」

「お昼なのね。正午きっかりに時計が鳴ったときに」

「そうだあ、昼さなって、この時計ば鳴り終わったら、ぐっふ、冬さ・・・、しまいになるんだ」

そう言って、老婆は何度も痰を吐いた。真っ黒なそれからは、どうしようもないほどのヤニ臭がした。

 掛け時計は歯車がはずれた不細工な表情で、噛み合わぬ不規則な音を響かせたまま三人を見下ろしていた。

「それ、どういうことだ。明日の昼まで持ちこたえれば、あいつは消えるってことか。俺たちは助かるのか、ほんとか」

 老婆と恭子の話を聞いていた田川は、破裂しそうな感情をようやく抑えていた。洩れ出てくる涙をこらえきれず、目が潤んでいた。

「そうよ。でもそのためには、雪をかき続けないといけない」

恭子はすでに外を見ていた。

「あいつが入ってこれないように」

 それから二人は宿の周囲の雪をかき続けた。

 外は強烈な風がとぐろを巻き、山々に分厚く絡みついた雲が、信じられないくらい多量の雪をふるい落としていた。やがて、おぼろげだった日の光が完全に姿を消し、冬の深山を常闇が覆いつくした。

 若い男女は疲れ果てていた。しかし長く休むことは許されなかった。新雪が吹き溜まった個所には、{かきを}が必ず姿をあらわしたからだ。

灯油ランプの光で照らし出されたその禍々しい巨体は、積雪の中にぽっかりと開いた奈落への入り口であり、その黒さは山々を覆う闇と同じだった。

{かきを}が、あの呪わしいスコップで地獄への回廊をかき啓く前に、二人は積もった雪を取り除かなければならない。疲労が蓄積した身体には、水分が冷え切った軽い粉雪であろうと、鉛の塊をすくっているのと同じだった。一か所が終わるとまた別の個所に新雪が溜まり、すると{かきを}が現れた。闇夜に真っ赤な目を光らせて、じっと見つめるのだ。

 時おり、除雪の合間に交代でわずかな休憩をとる以外、昨夜の老婆のように二人は一晩中働き続けた。靴や手袋の中は汗でびっしょりと濡れ、その水分は吹き降ろしてくる山の風に冷やされるままになっていた。

 手足の指が軽い凍傷に罹っても気にしなかった。作業を怠ることは、惨めで残虐な死を迎い入れることになる。{かきを}の目は、けして怠慢を許さない。赤黒く汚れた桎梏にがんじがらめになりながら、雪をかき続けるしかなかった。

 夜が明けていたのも気がつかなかった。空にはドブ色の雲が低く垂れこめていた。あれだけの豪雪にもかかわらず、宿の周囲には雪が積もらなかった。いや、夜通し雪をかき続けた二人が、頑として積もらせなかった。根を詰めるあまり、彼らのスコップは凍りついた大地をも深く削っていた。

 いつの間にか、雪が小降りになっていた。粉砂糖のような細かな雪粒が、黒く露出した地肌に遠慮がちに粉をまぶしているだけで、もうしばらくは積もりそうもなかった。

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