第9話

 その時、場の硬直した空気を叩き割るように、またケイタイの呼び出し音が貫いた。弾かれた恭子は反射的に画面に触れた。幸恵が助けを求めてきたと思ったのだ。

「ユキ、大丈夫、しっかりして」

 しかし、返ってきたのは怯えたか細い声ではなかった。

「なに、言ってんだよ、俺だよ、お。い、聞こ・・か」

 その野太くぶっきらぼうな声は渡部だった。久しぶりに聞くその声はとても心強く、それがゆえに、また怒りを当てつける対象にもなった。

「今どこにいるの、どこほっつき回っていたっ。こっちはひどい、大変なことになってる。ここから逃げなきゃならない。早く帰ってきて、とにかくすぐに車をもってきて」

「も、・し。・・れの声と・・か。電波状態さ・・く、と、・・切れて。そ・・声が、よ・・えない・・」

「もしもし、どうしたの、聞こえてるの」

 渡部の声は途切れ途切れになっていた。吹き荒れる鋭い風雪に、脆弱な電波が傷つけられているかのようだった。

「それが、れい・、ンネル抜け・・どい吹雪。道路がぜ・・・、除雪し・・、スタック・・。四駆、も・・ぜん前に・・・」

「もしもし、私の声が聞こえてるの。聞こえてるのなら早くここに来て。ユキのところにも行ってやって」

「なに、なんだっ。ゆきちゃんが、・・・たって。この雪、・・・。とてもじゃ・・、そっち、・・無理だ」

 猛吹雪で道路が塞がり、車が立ち往生している姿が想像できた。

 渡部は久志が惨殺されたことも、残された三人が危機に瀕していることも知らない。状況を伝えようにも、言葉のほとんどが届かない。

 途方にくれた恭子がケイタイを畳の上に置いた。その様子を見ていた田川がそれを持とうとした刹那、電波の入りが急によくなったのか、渡部の声が滑らかに出てきた。面食らった田川は、出していた手を反射的に引っ込めてしまった。

「おい、俺の声聞こえるか、聞いてるのかよ。ちょっと向こうにバスがあるんだ。事故ったのかなあ。動いてないみたいだけど」

「さっきのじいさんたちだ」田川が叫んだ。

「おお、バスから誰かでてきたわ。こっちに来るみたいだ。ちょうどよかった、あの人に事情説明して、なんとかしてもらうわ」

 ケイタイは畳の上に置かれたままだった。二人は渡部が遭遇している状況を、それぞれの心の中で食い入るように見つめていた。

 不意にバタンという音がした。渡部が運転席を離れ、車外に出たことがわかった。

「来た来た。でも一人だけだなあ。ああーん、なんだありゃ。なにしてんだべか。雪をぶっ飛ばしながら来るよ。すんげえ勢いで雪かいてるなあ、機関車みたいだ。車が走れるように除雪してるんだべか」

 恭子と田川はお互いの顔を見合った。二人が共有している非常ベルがけたたましく鳴り響いていた。

 向こうで渡部が出くわしている危機を悟ったのだ。双方から同時に右手が伸ばされた。一歩早くケイタイを掴んだのは恭子だった。彼女はそれを耳にあてると、緊迫した田川の顔を見ながら大きく息を吸い込んだ。

「おおーい、こっちだ、こっち」

 恭子が話し始める前に、渡部の声が先に出てきた。雪をかき飛ばしながら近づいてくる黒い影に、彼が手を振っている様子が容易に想像できた。

「ちょっとの間、ケイタイを車の上に置くからな。持ってたら、雪の中に落としそうだ。そのまま切らないで待っててくれ」

 恭子がもたもたしているうちに、渡部は車のボンネットの上にケイタイを置いたようだった。遠くの方で彼が叫んでいた。

「そいつに近づいちゃダメ、殺される。久志みたいにひどいことに。逃げて、逃げて」

 恭子が叫んでいた。田川も、いてもたってもいられなかった。彼女の耳から彼女の手ごとケイタイを引きはがすと、それを自分の顔に引き寄せた。

「人殺しだ、そいつは殺人鬼で、スコップで叩いて、バラバラに。とにかくヤバいんだ」

 恭子は田川の口元に引き寄せられているケイタイを、もう一度自分の方へ引き戻そうとした。言わねばならぬことがたくさんあって、それができないもどかしさに苛立ちを感じていた。

 その状態は田川も同じだった。ケイタイは落ち着き場所を決めることができずに、二人の中間点でさ迷っていた。

「もしもし、すぐそこまで来たから、ちょっとたのんでみるわ。なんだか真っ黒くて変なヤツだけども」渡部が再びケイタイを握ったようだ。

「ま、まって」恭子が叫んだ。

「すんません、雪で進めなくなって、それで、そ、そのう・・・」

 渡部の言葉が詰まってしまい、前に進まない。あの化け物を目の前にして、その異様な容姿に驚き、たじろいでいる様が想像できた。

「そ、そ」それが、渡部が発した人生最後の言葉になった。

 二人の手に握られたケイタイから凄まじい衝撃音がとび出してきた。車が人間を跳ね飛ばしたような、鈍く大きな音だった。

「わたべ、っさん」田川が呟いた。

 恭子が呼吸を止めて、握っている手に力を込めた。

 ケイタイからは、聞くに堪えない汚らしい轟が、情け容赦なく次々と吐き出されていた。斧で固い枝を断ち切るような音がしつこく続き、何かを激しく叩きつけているような音もした。徐々に強くなるそれらは、殺人者の過酷な仕打ちを物語っていた。渡部の手に握られた電子端末は、車に飛び散った血液や肉の破片の音まで丹念に拾い集め、もう一つの端末へと忠実に送り出していた。

 ケイタイの向こうは地獄だった。

 恭子と田川は、はっきりと見えていた。あの大男の悪辣なスコップで、渡部の頑強な身体が骨の一本一本まで丁寧に砕かれ、水飴を練るように腹の中の臓物が絡みとられている様を。そして、巻きついた内臓類を車に叩きつけている光景を。

 おそらく渡部の顔は、その輪郭が識別できないほど滅茶苦茶に破壊されているだろう。無慈悲に切断され叩き砕かれながら、深山の闇の底から這いだしてきた穢れた土工夫に、好き勝手に弄ばれているのだ。

 二人が恐怖に絶望している間にも、彼らの手に握られた小さな電子機器が残虐な光景を吐き出し続けた。

 金属を引っ掻くきびしい音の後には、ヌルヌルしたヤスデの大群を、木のヘラで掻き回したような気色悪い音がしばらく続いた。べちゃべちゃとした血なまぐさい感触を、これでもかというほど伝えている。

 ケイタイを含め、渡部だったものの全てが、{かきを}の背中に背負われたことに二人は気づいた。砕かれた骨が肉を刺し、肉は血と脂を滲みだしながら何段にも重なっている。すでに冷たくなった久志の残骸に、湯気の立つほど新鮮な渡部の血肉が、まるで料理にかける餡のようにドロドロと覆っているのだ。

「きって、はやく切ってっ」

 絶叫だった。田川はケイタイの通話を切ろうとしたが、手が震えてうまくタッチできなかった。それは田川の手だけではなく、一緒に握っていた恭子も同じだった。ガタガタと震える二人の手を離れて、ケイタイはひらひらと踊りながら空に舞った。

 畳の上に落ちて転がっている間、それから洩れ出る音は湾曲し、四方八方に引き伸ばされながら奇妙に変容した。久志の泣き声にも渡部の呻き声にも聞こえた。たまらず恭子が嗚咽を漏らした。そのまましゃがみ込むと小さな蝦になりながら、腹の底からすっぱいものを吐き出し続けた。畳の上に仰向けになった電子端末を田川が踏み潰した。半狂乱になって何度も何度も、粉々になるまで蹴り続けた。

 田川の息づかいが落ち着いた頃、再び静寂が訪れた。その能力を発揮することで存在価値を否定された電子機器は、幸いにも二度としゃべり出すことはなかった。

「死んだんかあ」老婆が、ぼそっと呟いた。

 恭子は返答できなかった。血の気のひいた青白い顔のまま、うつむいている。

 やりきれない気持ちを処理しきれない田川が玄関土間までいくと、引き戸に身を寄せガラス窓から外を見ていた。

「ちくしょう、また積もってきた」

 吹雪は、その勢いを弱めることはなかった。

「もうだめ。もう、どうしようもない」

 か細く生気のない声だった。気持ちが諦めの境地へと傾いていた。

「あのやろうはな、雪さ降るかぎりな、かいてかいて、かきまくってきやがるんだ」

「だからばあさん、なんでおれたちが狙われるんだよ」

「そうよ、私たち、ただの学生なのに」

 すると老婆は立ちあがって、後ろにある古く煤けた箪笥から数枚の紙片を取りだした。それらはひどく黄ばんでいて、年代を感じさせる写真だった。

 写真の一枚目は、木刀のような棒を持った男が、線路の上で仁王立ちしているものだった。性格が荒く身勝手な男が威張っているという印象であった。

「これ渡部さんじゃないのか」

「なんとなく似てるけど、違う。彼じゃない。だってこの写真のひとはもっと年上よ」

 たしかに、写真の男は渡部ほど若くは見えなかった。劣化したモノクロ写真なのではっきりとしないが、年齢は三十をこえているだろう。

 次の一枚は写真でなく、四つ折りになっている地図のような用紙だった。お茶をこぼしたかのように黄ばんで汚くなっていて、手荒く扱うとすぐに破けてしまいそうだった。老婆がもったいつけるように、ゆっくりと開いた。

 そこには古めかしく読みづらい漢字で道路開削工事と書かれており、田川組という請負業者と、そこで働く人の名前が記されていた。役所に届け出る書類の下書きと思われるものだ。

「ひょっとして、この田川一家って」

「苗字が同じだけだよ。俺とは関係ない、たぶんないと思う」

 田川は自分の血族とこの地の関わり合いを、たとえ過去のことであっても認めたくなかった。久志のようになるのではないかと恐れていた。

「ほれ、これみれや」

 老婆は、またしても古い写真を見せた。そこには和服を着崩して肩を少しばかり露わにした女が、猫のように丸くなって寝転んでいる丸メガネの小男を膝枕しているものだった。

「このめんたはな、栄内遊郭の女将で、斡旋屋とグルになってタコを釣るんだあ。稼ぎ口なくてぶらぶらしてるやつに声かけてな、女と酒でつぶすのよ。身の上話まできいて、たぶらかすんだあ。して、朝になって目ん玉とび出すくれえの金を払えとほざいてな、払えんかったら、いい稼ぎ口あるっていうて、タコ部屋さ売りとばすのよ」

 女が写った古びたモノクロ写真でしかないのだが、生温かく湿った吐息が、その表面から漏れでてくるような、なまめかしい雰囲気があった。

「おい、これユキちゃんに似てるな」

「っていうより、ユキのお母さんにそっくり」

 幸恵の母親は和服を着ることがよくあり、恭子は彼女の家に遊びに行った際に、その姿を何度か見かけたことがあった。

「でな、これが斡旋屋の五軒家亀男。こいつの手にかかりゃあ落ちんもんはいねえ、ポン引き中のポン引きよ。何人の男がたぶらかされて、タコ部屋さ連れていかれたか」

 膝枕されているメガネ男が諸悪の根源とでも強調したいのか、小さく皺くちゃな手が、その薄っぺらい紙を何度も叩いていた。

「久志なの」

 久志は五軒家というめずらしい姓だ。自分の苗字は親戚ぐらいしかいないと、常日頃から自慢していた。

「どうして久志のご先祖がこの写真に。しかもポン引きなんて」

「わからないの、私たちの先祖がここと関わり合いがあるのよ。久志や渡部さん、ユキ、あなたまでも。それもどうやら悪い人ばかり」

「でも、恭子のは出てこないじゃないか。俺たちの名前が同じなのは、きっと偶然だよ。なんでか知らねえけど」

 田川は、この地でなされたであろう過去の忌まわしい出来事と、自分たちの関係をどうしても打ち消したいのだ。

「そうだけど」

 だが、恭子にはわかっているのだ。四人の偶然が重なることは不自然だし、友だちの、あの常軌を逸した残虐な殺され方には、そうされる理由があるような気がしていた。

 そもそも、この冬山に入ったときから胸騒ぎがしていた。自分たちは導かれているのではないか、という感じがしていた。人知の及ばぬ時空で繋がっている。そんな因果に恭子の精神は張り裂けそうだった。

「おめえらここさ来るときに、トンネルあったべ。なんて名前だった」

 老婆は恭子の不安につけ込んで、決定的な事実を突きつけようとしていた。

「ああ、十文字谷トンネルだろう」

 あのアーチ部にへばり付いていた黒いプレートに、十文字谷トンネルという文字がしっかりと刻まれていたのを、田川は忘れていなかった。

「なしてあの名前さついたか、しってるかあ」

 若い男女を見つめる目玉が大きく見開き、口元がかすかに歪んでいた。無垢な者たちを禁忌されている凶事に触れさせようと、たくらんでいるかのようだった。

 意味ありげなことを語りはじめた老婆の誘導を、二人の大学生はできれば回避したいと思っていたが、聞かないわけにはいかなかった。彼らは追いつめられているのだ。

「あのトンネル工事さ請け負ったタコ部屋の幹部が、とんでもねえのよ。逃げた三人のタコとっ捕まえて、あの中でなあ、見せしめにしたんだあ。すっ裸にひんむいて手枷足枷にじょっぴんして、壁さ打ち据えてな。そんでダニをな、のっつりたからせたんだあ。まだめんたもしらねえあんこどもよ。かわいそうにな。ノドからアバラから腹から、キンタマにもな、ダニが食い込んで血吸って、しんばらくしてパンパンに丸くなりやがった。タコの身体に真っ黒な葡萄がびっしりな、こう、なんつうか鈴なりよ。暗え穴んなかで、あんこどもは泣いて泣いてひどかったさ。とってくれえ、とってくれえ、ってな。したけど幹部は腹ん中から悪い奴でよう、それ見て笑ってんだあ、酒くらってな。あんこらあ、しまいには頭おかしくなってよ。おっかあがどうだとか、タクアンが食いてえとか、糞ションベンたらしながら訳わからんこといってたさあ」

 遠い昔、暗い坑道の内壁に、脱走に失敗して捕まった土工夫が鎖で縛りつけられたのだった。牛馬のごとくこき使われ、奴隷以下の重労働に耐えきれずに逃げだした若者たちだ。部屋を管理する幹部連中が捕まえて、他の土工夫への見せしめとして、鬼畜にもおとる凄惨なリンチを加えたのだった。

 真っ暗な想像の中で、二人はその残虐な光景を見つめていた。田川は自らの全身をかきむしりながら、三人の若い土工夫の皮膚表面にびっしりと実った不浄な果実を、あのビニールのツブツブを指でプチプチ潰すように、一つ一つ抓んでは必死に破裂させていた。

 恭子は、大きい湯呑茶碗で酒をがぶがぶと呑みながら、満足そうに笑みを浮かべる恰幅のいい男の横に立って、その悪辣な顔を心の内側に刻み込んでいた。

「そのザマがな、あんましにも憐れだったんだべ。あのやろうが情けばかけようとしたんだけど、棒頭と幹部がダメだ、手え出すなって、穴さ入れなかったんだあ。したら四日たってあんこら死んでな、身体にのっつりダニたかったまま、あの壁の中に埋めこまれたんだあ」

 老婆の語りは二人の心にしっかりと浸透していた。彼らの頭の中では、身体中赤黒いツブツブをいっぱい付けた三つの死体が、十文字谷トンネル内壁の異様な光景と重なっていた。

「谷はタニじゃねえさ。食らいついて血汁すすって、まん丸に膨れたダニんことだあ」

「もう、ダニのことはやめてくれ」田川は無意識のうちに首筋を掻きむしっていた。

「してな、その鬼畜みてえな幹部の名前がなあ」老婆は、すでに引きつりはじめた恭子の顔面をまじまじと見つめた。

「もういい、やめろっ」田川の絶叫だった。

 そしてこう言い放った。

「十文字っていう男よ」

 恭子は凍りついた。彼女は佐々木というじつにありふれた苗字をもっていたが、それは父方のものであって、母方は十文字という変わった姓を名乗っていたのだ。

「ちくしょう。恭子は関係ないと思っていたのに」

 田川は親しい友人である恭子の、ある程度の内情について知っていた。だからあのトンネルについても、彼女には気兼ねしながら話していたのだ。

「なんでなの。私たちは何も悪いことしてないじゃない。ただ温泉にきただけなのに、どうして」

「あのあんこらも、おんなじようなことば思って死んでいったさ。はっちゃこいて稼いでよう、ただな、おっかさんを温泉に入れてやりたかったんだべや」


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