第8話

 靴を履いたまま居間に上がるなり、田川は畳に倒れ込み、恭子も崩れ落ちるように座り込んだ。老婆は相変わらずルンペンストーブの前に座り、昨夜の疲労をぜいぜいと吐き出していた。

「そういえばあいつ、スマホじゃなくてパソコンのネットで予約したって言ってたけど」

 仰向けに横たわった田川は、天井のシミをぼんやりと見ながら話し始めた。

「お願いだから、久志の話はやめて」

 恭子は彼のことに触れたくなかった。しかし田川は止めなかった。なぜそのことに気づかなかったのか、自分自身に問うように話し続けた。

「事務所のジャンクパソコン、ネットになんか繋がっていないんだ。だからネット予約とか、ありえないんだよ」

「それ、どういうこと」

「あのパソコン一部壊れていて、ネットに繋がらないんだよ。店長が表計算専用に使っていただけなんだ」

 ただでさえ陰気な部屋に、何ともいえぬ重たい空気が充満した。

「おかしいよ、いま思うと。ケイタイも電話もないこの宿に、ネット予約なんてできるはずがないんだよな、まったく」

「だったら私たちは、なんでここにいるの。どうして殺されようとしているの。そもそもあの男はいったい何、人間なの、化け物なの」

「あんな人間、いるかよ」

 ごくありきたりの若者が凄惨な死を受けた。さらに多くの死をもたらそうと、冷たく凍った奥底から不知の化け物が迫っている。不条理で理不尽な死に方には命の尊厳もなく、誰もが覚悟してしまうような孤独や寂寥感すらなかった。あるのは容赦のない破壊の力と苛烈な衝撃、一片の情もない無遠慮で乱雑な処理だった。

 しばし黙ったあと、恭子が思いつめたように呟いた。

「じつはわたし、あのトンネルの名前知っている」じっと思い詰めていた恭子が口を開いた。

「そうか、奇遇だな」

 田川は、ずっとわだかまっていたものを吐き出したい思いになっていた。恭子が口火をきってくれたので、いまさら隠しておく必要はないと判断した。

「俺も、あのトンネルを知ってるんだ。運転していてあそこに入るとき、あの山とぽっかりあいた黒い穴を見て思い出したんだ。どっかで見たなって。ユキちゃんの話しに重なっちゃって、みんなを不安にさせたくなかったから黙っていたけど」

「どこで見たの」

「じいちゃんの家だよ。父親のほうの。室っていう地下室があって、悪さをしたとき、そこに入れられたんだ。そしたら気味の悪い絵が壁にかざってあって、まさにあのトンネルだったよ。豆電球に照らされて、やけに気持ちが悪くて、そんでよく憶えているんだ」

 田川の眉間には、苦悩を示す太い皺がよっていた。その時の遠い光景を思い出すことは、困難な作業であるようだった。

「私はね、おばあちゃんが、そのトンネルには行っちゃダメだっていってた。理由があるから」

「その理由って」

「工事をしていた人が生きたまま埋められてるからっていうの。名前も名前だし、うちに関係あるのかなって」

「入ったら、どうなるんだ。おばあちゃんは何て言ってたんだよ」

「知らない。それ以上は教えてくれなかったし、聞きたくもなかった。とにかく入っちゃダメってことをしきりにいってた。ひょっとしたら久志みたいなことに」

 今になって、恭子は久志の人柄を思い出していた。口は悪かったが、人なつっこい性格でもあった。いつの間にか涙が込みあげていた。

「タコがな」

 唐突に老婆が口を開いた。咳き込んでいたため、その声はひび割れて聞きとりにくかった。

「穴ほってるタコがいうんだ。幹部さん、勘弁だあ、勘弁してけろってな」

「なんだよ、婆さん。いきなりなんの話だよ。山にタコなんているのかよ」

「しっ、黙って聞いてよ。きっと、あの化け物に関係があることを話してるのだわ」恭子がたしなめた。

 老婆は二人の言葉なんか気にする様子もなく、ひどくかすれた声で淡々と話し続けた。

「もとが木挽きや百姓でな、胆力あるやつでもよう、飯場に来りゃあ泣きが入るんだ」

「だから、タコがなんなんだよ。百姓とか、いつの時代の話だ」

「黙ってきいてよ」ヒステリックに恭子が叫んだ。老婆はかまわず話し続けた。

「なにとち狂ったか、たまにゃ大学出のあんこがな、来るんだあ。おおかた、こなまずるいポンビキの口にのせられて、ほいほいってついていくんだ。兄ちゃん、いい仕事あるぞってな。そんな奴あ、半人前だからモッコもろくにかつげねえ。ハイカラだあってバカ扱いよ」

 話を聞く恭子は真剣であったが、田川はイヤそうに顔をしかめていた。

「ツルハシもたしても、トロ押させても、もたもたしくさって、はかいかねえ。かせげねえから、ばんきり殴られる。手の皮剥けて肩の皮あ腫れて、そこにまたモッコ担いで膿もつんだあ。それ破れて痛がってな、ひいひいひいひい、またよく泣くんだ。棒頭がそれ見て面白がってな。膿破れたとこに、カラシ塗ったりするんだ」

「いったいなんなんだよ、その話は。意味不明過ぎるって」

 田川には、老婆の話しの先にあるものがまったく見えなかった。

「タコっていうのは、トンネルとか掘る人のことよ」

 鈍感な友人とは違い、恭子は老婆が語ろうとしている実態をつかんでいた。そこには、あの邪悪な殺人者から逃れる糸口があるのではないかと考えていた。その糸をたどれば、この煉獄のような最悪から脱出できるのではないかと期待している。

 だが、話を聞きたくないという感情もあった。老婆の皺がれた声色のためかもしれないが、その物語はとても陰湿であるということが予想できた。よくできた怪談話を終いまで聞いて後悔する感覚とはまるで次元が違う、情け容赦のない事実が突きつけられるのではないかと思った。それを聞いてしまうと、自らの魂が底なしの暗闇にどこまでも落ちていくようで、とても不安な気持ちだった。

「勘弁だあ、幹部さん、ってな。ひいひい泣きながら棒頭に泣きついたっけ」

「昔に、ひどいことをされて働かせられた人たちがいるのよ。あのトンネルを掘ったのがそうじゃないの。渡部さんが話していたでしょう」

 か細い呼吸に合わせて、老婆の小さく丸い身体がかすかに揺れた。どことなく頷いているようにも見えた。

「その幹部とか、棒頭ってなんだよ」

「棒頭はなあ、ひでえ野郎がなるんだあ。タコども働かすためにな、いっつも棒さもってぼい回すんだ。むごい仕打ちも平気の屁で、飛びっちょしたタコとっ捕まえて、柳の木さ縛りつけて、クギ刺さった板でぶっ叩いたり、タコの頭ばツルハシで突き刺したりな。何人も何人も死んじまって、ひどかったさあ」 

 その現場では、凶悪な監視役がタコと呼ばれた人夫たちを、暴力を用いて強制的に働かせていた。逃げだす者には無慈悲なリンチがおこなわれ、ときには死人まで出てしまった凄惨な労働現場を、老婆は淡々と語っているのだ。

「うっわ」

 唐突にケイタイの呼び出しがあった。恭子のだった。

「お願い、助けてよ。あいつがいる、いる。いるからお風呂から出られない」

 薄っぺらな端末機器の遥か向こうから、怯えて嗚咽まじりのか細い声が、たどたどしく響いてきた。

「具合悪いよ。ずっとお湯のなかだから、ふらふらするし、鼻血がとまんない」

 二人は露天風呂にいる幸恵のことを忘れていた。正直、自分自身を守ることに精いっぱいだったのだ。

「ユキ、ユキ」

 恭子にはどうすることもできなかった。ただ、後輩の名前を呼ぶしかなかった。

「ここのお湯熱いの。熱くて熱くて、苦しい」幸恵の辛抱は限界に達していた。

「もう電池がない。切れちゃう、切れちゃう、たすけて、お願い、たすけ」

 通話が切れた。恭子が急いでかけなおしたが、すでに圏外となっていた。

「なんなのよ、もう」

「外見てみろよ」

 田川が玄関を指さし、恭子が振り向いた。大粒の雪が引き戸のガラス窓を激しく叩いている。再び積もり始めていた。

「どうして。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう野郎め」

 口汚く叫びながら、老婆が着ている襦袢をつかんだ恭子は、恫喝するような凄みのある声で言った。

「タコのことはわかったわ。それより、あいつのことを話して、あの化け物のことを」

「オレば、ちょすんじゃねえ」

 老婆は睨み返した。そのどこまでも冷たい目玉に見つめられ、若い身体は思わずたじろいだ。むしろ、脅かされているのは彼女のほうだった。

「あいつを孕んだ女郎はな、ほんとは産みたくなかったんだあ。なんせ親父が親父だからな。おろしてえからって、ヤニば飲んだり、股座に腐った鱈のタチ入れて掻きまわしたりな」

 後半の部分はどういう行為なのかわからなかったが、子供を堕胎させようと苦悩する女の姿は、学生にでも想像できた。

「それで、どうなったんだ」

「したけど産まれてきやがったんだあ。とんでもねえもんがよお」

「どんなのがでてきたの」

 それがどんなにとんでもないものか、恭子も田川も、すでに充分すぎるほど知っていた。

「そのガキ、おっかしな顔してんのよ。目は血みてえに赤くて、びっこたっこで一つしかねえ。耳は梟みてえによく聞こえっけど、穴だけあって、このひだひだがねえんだ。そこがまた、へんなニオイがしてな。臭えのなんのって」

 自分の耳を引っぱったり、中に指を突っこんで渋い顔をしたり、老婆はユーモアのつもりだった。

「そんなのいいから、はやく、その先を話してよ」

 だが人生最大の災厄に直面している二人にとっては、貧乏神か死神が悪ふざけしているようにしか見えなかった。

「そんでもよう、女郎もてめえの腹さ痛めた子だあ。化けもんでもめんこくてな。あの野郎が十五になるまで、坑内のずっと奥の穴で育てたんだあ」

「坑内って、炭鉱みたいな場所でか」

「そりゃあ、そうだべさ。あんなん人前さだして、その辺うろつかれてみろ。よってたかって叩き殺されちまうべや」

「殺されればよかったんだ」

「しっ、黙ってよ」

 恭子の鋭い声が田川に突き刺さる。老婆は一瞬、ニヤリとした。

「それがな、いい歳になってなに色気づいたんだか、あのやろうはタコ部屋さタコ売って稼いでくるって、出てったんだあ。汚ねえ手ぬぐいでほっかぶりして、ツラ見せねえようにしてな」

「タコ部屋ってのは、なんだよ」

「タコどもがなあ、奴隷みたいにな、こき使われる飯場だあ。棒頭がいるとこよ」

「{かきを}は、そこに働きにいったのね」

「あのバカやろうは、いきなりタコ部屋さいきやがったんだあ。したら、大騒ぎよ。化けもんがきたあ、山のタタリだって、もうワヤだ。さすがの棒頭もな、腰さ抜かしちまって、立てねえさ」

 老婆の物語は続いていた。衰弱した身体から吐き出される言葉は、{かきを}のことを話すほどに生気を帯びてきて、陰気な室内になかなか消えようとはしなかった。

「したけどな、稼がしてみりゃあ、こいつがびっくらよ。モッコかつがせりゃ、セメント樽積むだけ積んでモッコぶっ壊わすし、トロ押させりゃあ手負いの羆みてえに馬力あって、ぼい回しもついて来れねえ。なにやらしても人の三倍も五倍も働く。このやろう、見かけどころか馬力も人間わざじゃねえ、使えるって、すぐ中飯台にあげられて、あとはトントンと金筋よ。親方から盃もらって、奴あ、はっちゃこいてたなあ」

「あんな化け物でも出世したってことなの」恭子の口調はきびしかった。

「稼げりゃあ、化けもんでも漬けもんでも何でもいいってよ。おっかしな顔さしても、三日で慣れるって。飯場じゃあ、ばんきり死人がでるさ。なあんも、おっかなくねえってよ」

「じゃあ、あいつも人をこき使う立場になったってわけか」

「なーんもだ。そうは問屋がおろさんべや」

 老婆は小刻みに首を振った。

「ハッパ屋がしくじって、やろうは大怪我よ。腹から骨さ出して、ツラの真ん中にあった目の玉なんて、だらあって垂れ下がってな。タコどもがよ、手当てしたんだ。なんかよう、あのツラに感じるんだべさ。己らのな、救いようもねえ運命をよう」

「助けてもらったってことか」

 田川は、{かきを}の顔の真ん中にある一つだけの目玉を思いだした。病んだように赤く、奇妙な位置に傾いていた。残虐な蛮行をした後でも、なにかを問いかけているような眼だった。

「したっけな、やろうはすっかり肝が弱くなっちまって、めんこにしたタコさ情かけて、ぼい回せねえんだ。タコのほうもよ、化けもんみてえなやろうだけども、人情さかけてくれるから、なつくんだあ。にいさん、にいさんってな。したらな、幹部がそんななまっちょろい野郎なんて使いものにならねえ、根性つけさせてやるっていうて、タコをな」老婆の口元には、なにか不吉なものが漂っていた。

 二人はその話の先にある危険な結末を察知した。聞けば戻ることはできない、この深山の底から帰ることができないとの予感が、若い心を揺さぶった。

「ばあさん、もういい。その話をやめろ。聞きたくない」

「やろうがめんこにしてた、そのタコを殺ってな」

「やめろって」

「やめて」恭子の言葉は絶叫に近かった。

「犬の肉だっていうて、そのすっぱい肉をやろうに食わせたんだ」

 その場を沈黙が支配した。まるで言葉など存在してはいけないような、極めて威圧的な緘口だった。胸を押しつぶすような重苦しさだった。


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